第二十五話『妖精の郷』
暦、日時不明――
リンダの意識は夢の中にあった。
自分ではない者の視界を含めた感覚を共有している。初夏の陽射し、潮の香り、人々のざわめき。港にいるようだった。港湾都市ニプモスではない。時刻は分からずも、朝と推定し、太陽の位置から方角を割り出す。南向きの港だった。ニプモスは東向きの港である。
『行って、しまわれますのね』
リンダの視界の主と思わしき声が聞こえた。若い娘、もとい少女の声。目線も高くなく、年齢は自分より少し下、十五歳前後と推測された。視界には、一組の男女が映っている。貧しい身なりに見えるが、背後には立派な帆船がどっしりと構えている。口調から、一定以上の立場の人間に別れを惜しまれているように見えたが、その相手の貧相な出で立ちは、泥棒カモメすら来ないほどであった。
『陛下の命だ。こればかりは、覆せない。強く生きてくれ、……ア…』
男が名を呼ぶが、その部分だけ、調子の悪いラジオのようにノイズが走る。顔を上げると、男の顔も黒で塗り潰されている。女の顔は分かる。見覚えはないが、整った顔立ちで、少々生気がない。
『…リ……様、お健やかに』
『貴女もですわ、………ア』
『……もう、船が出る』
先程から、名前の部分だけが掠れるように聞こえない。ふと、リンダは男の声に聞き覚えがあるような気がした。覚えがあると言うより、最近ずっと聞いていたような声だった。抱きしめられる感触も、嗚咽まじりの息づかいも、全てが伝わってくる。惜別の悲しみ、ただただそれに満ち溢れていた。リンダの脳裏を過ぎるのは、幼い日に見た、流行り病を患い隔離施設に消えていった父の後姿――
「行かないで!」
大陸暦一三五八年、八月七日――
リンダが目を覚ました時、最初は自分がどうなっているかを理解するのに時間が掛かった。ぬるま湯の中にいるような感触、それでいて息は出来る。管の付いた呼吸機のようなものが口元に当てられている事に気が付いた。不思議と前ははっきり見える。正面に立ってこちらを見ているのはサイクスだった。それから少しの間を置いて、リンダは溺れたように手足をばたつかせ、妖精達が駆け付けて来る騒ぎとなった。
「対象の治療完了、生命力も体力も元通りです」
「了解、妖精の泉、排水はじめ」
「妖精の泉、排水します」
リンダが入れられていた、筒状の巨大水槽のような装置から液体が抜けてゆく。淡い萌木色の液面が下がるつれ、浮遊感もなくなった。地に足が着く感覚、視界は良好で体の痛みもない。斬られた左の脇腹も、僅かな痕が残っているだけで、外も中も傷口は塞がっていた。
「あなたの後ろに梯子があるわ。上がってこれる?」
「これね、大丈夫」
振り向くと、水槽から上がるための梯子が備え付けてある。リンダは梯子を上り、足場を伝って階段を降りてきた。
「よく分からないけど、傷を治してくれたのかな、ありがとう」
「いいえ、あなた達はこの郷を守った恩人です。このくらいはしないと」
リンダは一際大きな妖精に声を掛けた。大きいと言っても人間の子供より少し高い程度の背丈しかない。左右の細い三編みを後頭部に回したような、古い時代の肖像画を思わせる髪型が目に入った。白金の髪、うっすらと紅を帯びた白い肌に整った顔立ち、枝葉の飾り模様で彩られた生成り色のワンピースは、いかにもおとぎ話に出てくる妖精そのものだった。蝶を思わせる色彩豊かな羽はステンドグラスを思わせる。
「改めて、はじめまして、お客さん。私は妖精の郷の領主オーヴェルの妻、タニアです」
「私、リンダ。リンダ・ルビィです」
「そのままの格好というわけにもいかないでしょう、何か着るものを用意させます」
「えっ、着るもの」
タニアの言葉に、リンダは自分の姿を思い出した。筒状の水槽に映る自分は、一糸纏わぬ姿であり、最近の状況から処理出来ていない各所の体毛が、少しずつ伸びている事に気が付いた。背後にサイクスが立っているのだが、彼女はほとんどお構いなしに自分を見回している。
「ところでサイクス、あなたはここで何してるの?」
「……自分でもよく分からない。だが、君達兄妹を見ていると、不思議と懐かしい気持ちになる」
「懐かしい、ね。昔の記憶はどのくらい戻ったの?」
「ミュルコ・モースの稲妻を受けた事で、幾らかは記憶を取り戻した。少なくとも、自分がルハーラの呪いによって、ほとんどの人から思い出せなくされてしまった事、その呪いは私自身にも効果がある事、それと、魔王配下の四天王と竜王に関する情報だ」
話し込んでいるうちに、タニアが人間でも着れるサイズの服を持って戻って来た。
「エルフの服なので、下着のサイズは合わないかもしれませんが、差し上げます」
「ありがとうございます。サイクスは先に皆の所に行ってて」
「分かった、話の続きは後にしよう」
サイクスを部屋から下がらせると、リンダは体を拭いて、タニアの持って来た服に袖を通した。綿とも絹とも違う肌触りに、ほのかな温かみを感じる。淡い若草色の半袖ワンピースは、腰にベルトを回すと膝頭に掛かるスカートのようにも見える。足首までの長い褐色のレギンスに、手首を守る革の腕輪は、エルフの一般的な服装だった。
「不思議な感じ、服を着ているだけなのに、何かに守られてる気がする」
「材料の全てが、この森で採れたものです。精霊達の加護があるのでしょう。もっとも、それを得られるのは、精霊使いだけなのですが」
和やかな表情を浮かべていたタニアが、語尾に近付くにつれて真顔になっていた。怪訝な目でリンダを見ている。正式な精霊魔術師でもないのに、精霊の加護を得ているリンダを怪しんでいるのだ。しかし、当の本人もカリエの精霊を行使した記憶はなく、カーン達から聞かされた事でしか把握出来ていない。
「ここで二人で問答しても仕方ありません。彼の記憶、あなたの能力、色々と話し合いましょう」
「……そうですね。ここがどこかも分かりませんし」
「えぇ、案内します」
リンダはタニアに案内されて、領主の館を見て回った。良質な木材で建てられた館は、その木目の鮮やかさと艶やかさから、築年数はさほどでもないと思われた。タニアによると、十年ほど前に建て替えたのだと言う。二百年に一度の建て替えは、妖精の郷を上げての大仕事となる。キュリール島北西部に住むドワーフ達も、自慢の腕を振るう為に列を成してやってくるのだ。
「そういえば、この石造りの部分、ツアンカの方で見た事あります」
「ツアンカの建物の多くは、昔からドワーフによって建てられています。彼らは蒸気文明時代も乗り越え、今の時代にも対応していると聞きます」
他の妖精はどうだったのか、リンダは口を突いて出そうになる言葉を押し止めた。こういう場では、どこで相手の逆鱗に触れるか分かったものではない。彼女も酒場のウェイトレスとして少なくない場数を踏んでいる。決して触れてはいけない場所、踏み込んではいけない領域の分別が付かない人間ではなかった。
「こちらです」
リンダが案内されたのは会議室だった。片側のテーブルには上座からオーヴェル、一つ飛ばしてエルフの重役と思わしき者達が座している。反対側には上座からサイクス、カリエ、ニール、エリック、カーンと着席している。議長席にはミュルコ・モースとティットル・ソグ、そして見慣れない青い竜が座っていた。
「私は末席ね。これで全員かな」
「えぇ、始めましょう」
オーヴェルの隣に座ったタニアが応じ、ミュルコ・モースに目配せする。竜王の顔つきは険しいものになり、空気が張り詰める。
「まずは、黒い鎧の。お前が見てきたものを教えて貰いたい。こちらもある程度は把握しているが、実際に見聞きした者の経験に優るものはないだろう」
「分かりました。また今回は便宜上、サイクスと名乗らせて頂きます。黒い鎧の、では呼びづらいでしょう」
サイクスの言葉に、一同は静かに頷いた。リンダ達からしてもその方が呼びやすく、妖精達にとっても、黒い鎧の、というのは発話に難儀する所があったらしい。
「私が意識を取り戻したのは、エール村の遺跡にある、隠された石室でした。その壁面には、私がこの島に来てから建国までの一連の出来事を記録した壁画が残されていました」
「あぁ、魔王ルハーラがお前に掛けた忘却の呪いは、あくまで言葉による記憶と記録を封じるものだからな。それ以外の手段であれば、残す事は可能だ。恐らく、呪いの影響が少なかった者が壁画に残す事を試みたのだろう」
「その石室は魔晶石の鉱脈に囲まれており、壁画には魔力を伝達する術式陣が隠されていました。そして、天井には時間を超越する門の術式陣が描かれており、私の覚醒と共に起動したのですが、それによって未来から飛ばされてきたのが、彼です」
サイクスはカーンを指した。示されて立ち上がり、一礼する。鶏冠を思わせる髪型はともかく、身に付けている物は衣服から小物に至るまで、見た事もないような素材と作りになっている。妖精の泉を作った技術屋でも、カーンの所持品は一つたりとも再現出来ないと言い放ったほどだ。
「そして、カーンの隣に座っているエリックが考古学者の助手で、その博士ニール殿を訪ねるため、我々はニプモスへ向かいました」
エリックもカーンに倣って立とうとしたが、ミュルコ・モースから手で制された。時間が押すという意味があったらしい。ニールは名指しと同時に眼鏡を光らせて見せたが、居並ぶ妖精達の表情は露骨に曇った。妖精にオルウークの化粧を悪戯描きするという行為は、相当な侮辱に当たるらしい。オーヴェルでさえ、眉間に皺が寄っていた。
「ニプモスでは水の四天王と水の竜王ソキュラ率いる軍勢に襲われ、撃破する事は出来たものの、街は大きな損害を被りました」
サイクスの言葉に、ミュルコ・モースの隣に座する青い竜が暗い顔で頭を垂れた瞬間を、リンダは見逃さなかった。関係者であるらしい、と踏んだのだ。
「カリエ殿とはその時にリンダ……あの末席の娘ですね。彼女達が居合わせ、目的地が同じであるという理由から同行する事になりました。私は竜王に会って記憶を取り戻す手掛かりを得るため、カリエ殿は精霊石を受け取るためです」
「後は、こちらでも把握している。カリエ殿は竜王様より精霊石を与えられ、土の四天王を君達が撃退した。その際の負傷が深かった事もあって、君達の滞在を許しているというのが今の状況だ」
オーヴェルの物言いは、どこか人間に対する敵意に近いものがあった。というより、森の外のものに対して警戒心を抱いている。領主という立場であれば仕方のない事ではあるし、本来ならば出禁とされているニールまで連れている。その上、魔王の手の者が方々で活発化しているという情報まで聞いていれば、険しい表情になるのも無理はなかった。
「今までの状況は分かった。して、次は今後をどうするか、だ」
ミュルコ・モースが両のテーブルに就いた者達を視界に収め、深いため息混じりに言った。
妖精の泉
シリンダー状の耐圧ガラスに水と複数種類の薬草を入れ、熱を掛けながら循環させる事で入れられた対象物を治療する装置。
妖精が嫌うとされる類の金属を用いずに機械を作動させるためには、ドワーフの技巧とエルフの魔術を用いる必要がある。
切り傷や打撲、打ち身、捻挫、ムチ打ち、肉離れであれば数刻から掛かっても半日で治療出来てしまう。
骨折であっても、適切な処置を施した上での使用を続ければ、一日数刻の使用を一旬ほど続ければ完治させられる。
一日あたりの使用には制限があり、これは対象者の体力そのものの回復は出来ない為である。
今回、リンダは左脇腹を深く斬られており、また本人が気絶していたため、急を要する為に行われた例外的措置である。




