絡まりつくのは高貴な嘲弄、あるいは無邪気な視線。
どたん、と前のめりに転倒する。反射的に手を出したので、頭からずっこけるという事態には陥らなかったけれど、何もないところでこんなに派手に転ぶのは、さすがに恥ずかしい。いたたまれない。何これ逃げたい。
「え……。だ、大丈夫か、グレーテル」
ディートリヒ、声が引き攣ってます。むしろ遠慮なく笑えよ。ぷるぷると羞恥に震えつつ起き上がり、わたしは凶悪な目つきで唇を引き結んだ。しばらくじっとしていると、目の前に手を差し出された。ディートリヒのものだった。わたしは瞬き、ちらっと彼を見上げ、首を横に振る。ディートリヒはそれ以上しつこく続けることもなく、ひとつ頷いてすぐに引っ込めた。こういうところ、彼はスマートだ。お義兄様だったら、デレデレ微笑んだままむりやりわたしを引っ張って立たすだろう。ついでに抱きついてくるのまで想像できる。想像だというのにげんなりする。
わたしはついさきほど、自分が転んだあたりを凝視した。細い、糸のようなものが。おそらく術で練られた、見えない糸のようなものが、ぴんと張られていた——のだと、思う。たぶん、わたしの進行方向上の線に沿って。つまり、わたしはまんまと罠に嵌まって転ばされたわけだ。糸が実際にどうなっているのか、その先を辿ろうと、手探りで触れたとき、ふい近くで鼻にかかったような甘い声が上がった。
「まあ! どうなさったの、いきなり転ぶだなんて。まだお加減がお悪いのかしら。さっきからずうっと、手先すら覚束ないですものね。お帰りになった方が良いのではなくて」
心配そうな声音を完璧に作り上げながらも、まったくもって愉快そうな眼差しを惜しげもなくさらす、豪奢な金髪を凝った形に結い上げた、目尻の妖艶に下がった女の子。神学校だからか、控えめではあるが見るからに上等な布地を使い、布と薄布の間にびっしりと刺繍を施された高価そうなドレスを纏っている。どこからどう見ても典型的な貴族のお嬢様だ。同じ金持ちでも、商家の娘とは違う、ごく自然な上流意識。おのれのまわりにかしずくものが侍ることに疑問を抱くことも、それを意識することもないほど当然に思っている、そのような物腰があった。
しかし、そんな別世界みたいな階級の出であっても、女子は女子のようだった。
ぱら……と優雅に扇子を開き、口許に当てる。蔑むように嗤って、彼女は囁く。
「ドレスも汚れて、お可哀想に。ああ、埃がついていてよ。それにしてもあなたのドレス、見たことのない型ですわ」
これはワンピースです、お嬢様。ちんけな皮肉に呆れたけれど、特に言い返すことはなく、わたしはただ、はあ、と曖昧に相槌を打った。お嬢様はさらに調子に乗る。というより、お嬢様方が。
「ま、いつまでそのままでいらっしゃるの? はしたない」
「地べたに座るなんて、信じられませんわ。よく平気な顔をしていられますわね、わたくしにはとてもとても……」
「お待ちにになって、皆さん。きっと立てずにいらしゃるのよ。何しろこの方、あまり運動がお得意ではないようですし」
「ああ、そうですわねえ。さきほどの術の出来も、ねえ……」
「あまり、神々に愛されていらっしゃらないのかしら」
「まあ、ひどい。わたくし、同情してしまいますわ」
「本当に」
くすくすくすくす。
かしましくさんざめかれて、わたしはだいぶ辟易した。転んだくらいで、なんだってここまで嘲られなければならないのか。お嬢様方の思考回路はよく分からない。彼女たちの後ろで、わたしと同じくらいの身分の子たちが、困った表情で練習を止めている。幾人かの友人たちは、何か言いたげにこちらを見ては、視線をうろつかせ、を繰り返した。数人の血気盛んな者たちが口を出そうとしかけるのを、視線で制止する。こんなことで揉めても仕方ない。彼女たちはいちゃもんをつけたいだけなのだから、黙ってやり過ごせばいいのだ。
と。
「————いい気味。あなたなんかがディートリヒ様につきまとうなんて、許されるはずがないのよ」
水を得た魚のように楽しげに皮肉と厭味を飛ばすお嬢様方の声に混じって、ふっとそんな言葉が聞こえた。それは本当に微かな声量だったけれど、強くわたしの耳に響いた。嗜虐心に満ちた声だ。わたしは瞠目する。発言者を探したが、分からない。そのうえ、聞こえたのはわたしだけではなかったのか、お嬢様方の言葉にも変化が生まれていた。
「ええ、その通りですわ」
「なんてずうずしいのでしょう」
「見た目も中身もまったく釣り合いませんのに」
「だって、ほら、ご覧になって、あの子」
は、とわたしは息を詰めた。そしてすうっと目を細める。ああ、もう、ついていないなあ。そんなにディートリヒが好きなら、少しでも彼の役に立ってみろというものだ。まあ、わたしもべつに、役立ててはいないけれど。とにかく、好かれたいなら相手に嫌がられるようなことは——とそこまで考えて、わたしはどっと脂汗が溢れるのを感じた。ぎ、ぎ、ぎ、と視線だけで振り向く。そう、そうだ。いま、ディートリヒ、は———?
(ひいっ)
ばっとわたしは目を逸らした。ディートリヒは、静かに苛立っていた。
ものすごく不快そうな、道端で死骸に群がる蠅でも見たかのような、嫌悪と侮蔑の瞳で。
でも彼が動かないのは、わたしが友人たちを止めたから、というのと、おそらく自分が動けば泥沼になると分かっているからなのだろう。彼にしてみれば、新たな友と談笑していただけで、ここまで顕著な反応が現れるとは思っていなかったのだと思う。ディートリヒにはそういう、自己に対してじゃっかん無頓着なところがある。過小評価、というか。だからきっと、彼は少なからず悔いている。もしかしたら彼の苛立ちは、お嬢様方だけではなく、ご自分にも向けられているのかもしれない。真面目なことだ。
それはさておき、さすがは理性のお方。よく堪えてくれている。この王子様はけっこう真っ当なひとなので、もしわたしがちょっとでも泣きつく素振りを見せれば、迷うことなく鋭い舌鋒でやり込めてくれることが想像に難くないくらいには、激怒しているらしいことが察せられた。それでも表情だけにとどめておられる。こわい、こわいですディートリヒ。あなたの視線の吹雪でわたしの背中が寒い。凍る。
「ねえ……あなた。もうディートリヒ様に近付くのは、おやめになって」
ディートリヒの極寒の視線に気づいていないのか、集団のうちのひとりが、とても残念そうな表情を作って、頬に片手を当てて言ってきた。こっそりと、まわりに聞こえないよう、ひそめた声で。でもまあもちろん、彼女たちの総意なのだろうけれども。
「確かにディートリヒ様は素晴らしいお方、おそばにはべりたくなるお気持ちは分かりますわ。でも、ねえ?」
「あなたのような方がまわりをうろついていては、あの方の不名誉になりますわよ」
「ディートリヒ様も、さぞご迷惑に感じていらっしゃるはずですわ。ただ、お優しい方ですから、無下におできにならないだけで」
次々と好き勝手に、よく言ったものである。神学校は基本的に生徒の扱いに差を与えない、平等の場だ。これは建前の分が大きいが、建前である以上、実行されるべき理念でもある。そういうことを、まったく分かっていないのだろうか。とはいえディートリヒは王家の御子、多少特別視されなければならないのも、事実ではあるのだけれど。貴族の立場からすれば、市井のものとばかり交流を交わされたなら、憂えるべきかもしれない。彼らには彼らの責務が肩にのしかかっている。
でもディートリヒは、はたから見たってよく分かるほど、根っからの王子様なのだ。
おのれの立ち位置をよく分かっているし、何も貴族を蔑ろにしているわけでもない。神学校内でも、わりあい公平に接しているように思う。
彼は、道を踏み外さない。
きっと、最善を選ぶことができる——おのれの身を捨てて、という不安はあるものの。
だから、言うなればこれは、貴族として危惧した結果の進言ではなく、単なる嫉妬だ。あこがれの王子——それも、身近なーーと楽しくおしゃべりしているのが、ぱっとしない、身分もない、おまけに信仰心もなさそうな女だというのが気に入らないだけだろう。
めんどくさ、と改めて思ったとき、ひたいに何かをぶつけられた。不快感に眉をひそめる。どうやら、お嬢様の扇子の先を突きつけられたらしい。彼女は苛々した調子でわたしをなじる。この方、ずいぶんと短気な質の模様。
「ちょっと、聞いておりますの? あなたごときがディートリヒ様の寵を得ようなどと——」
「何してるの?」
ふ、とどこまでも純粋な響きを持つ、子どものような問いが、彼女の罵声を遮った。
ふたつに結われた淡い栗色の髪がふわふわと揺れて、その子の小首も傾げられる。いつの間に集中が途切れたのか、というかこちらの騒ぎに気づいたのか、彼女は、取り囲まれているわたしを見て、不思議そうに瞬いた。
「グレーテル、もてもてだね」
「……そんなわけないでしょう。逆です、逆」
「あはは」
からりとフリーダは笑って、お嬢様方を一瞥する。その視線が、ひとりひとり、顔を確かめていく。ふーん、と彼女はつぶやいた。お嬢様方が動揺するのが見て取れた。
「で、何してるの、イルメラさん」
扇子を突きつけていたお嬢様が、びくっと肩を震わせた。メンタル弱いなあ。
「こ、これは……彼女が、そう、ディートリヒ様にご迷惑をかけていらっしゃるようでしたので、注意を、と」
「そうなの?」
フリーダはこれを、ディートリヒに訊いた。わたしはちょっと慌てた。何も彼を巻き込まなくても。だけどディートリヒはどうってことない口調で、淡々と答える。
「いや、特には」
わたしに対して何も感じていない、という意味の含まれているような、そういう声の出し方だった。彼なりの配慮だろう。フリーダは次に、イルメラさんに向き直る。
「だってさ。勘違いみたいだよ」
「そ、そんな、ディートリヒ様は、お優しいから……」
「優しいとか優しくないとかじゃなくて、ディートリヒは何も思ってないみたいだけど?」
「——あのような下々の者が、ディートリヒ様につきまとっているのですよ!?」
半ば悲鳴のような訴えに、フリーダはまた、不可解げに首を傾げる。純粋な目で。透徹とした眼差しで。神の愛を享けたばかりの子どものように。
「……あなたたちの感覚に合わせれば、わたしもつきまとっていることになるよ。どうして、わたしはいいの?」
お嬢様方が凍りつく。フリーダはさらに踏み込む。
母親に答えをせがむみたいに、無邪気な瞳で。
「ねえ、どうして?」