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第4話 聖女は祈れない

公開試験の翌日、王都では早くも噂が駆け回っていた。


 外れ職の召喚士が、ガルド・フェンリスの剣を折った。 召喚獣も出さず、魔術詠唱もなく、何をしたのかもわからないまま勝った。


 神官ですら説明を濁した――と。


 噂というものは、広がる過程で都合よく形を変える。


 レインは朝の市場を抜けながら、耳に入る囁きを聞き流していた。


「見た? 本当に何も出していなかったんでしょう」「いや、影が見えたって話だ」


「召喚士じゃなくて呪詛師の間違いなんじゃないのか」


「ガルド様の体調が悪かっただけでは?」


 信じる者と、信じたくない者。

 恐れる者と、笑い飛ばしたい者。


 理解できないものに出会った人間は、必ずそのどれかになる。 昨日までなら、ただの笑い話で済んでいたはずだ。


 だが、もう少しだけ違う。


 その違いを、レインは肌で感じていた。


 人の視線が変わっている。 外れ職を見下す、軽くて安全な侮りではない。


 答えのわからないものに向ける、測るような目だ。


 けれど、それでいい。


 侮蔑が崩れたなら、次に壊れるのは前提だ。


 石畳を踏みしめながら、レインは右手を軽く握った。


 手の甲に浮かんだ細い亀裂紋は、朝になっても消えていなかった。


 むしろ昨日よりわずかに濃くなっているように見える。皮膚の下に、薄く黒い線が走っているような不気味な紋だ。


 熱は引いていた。だが、そこに何かが“残った”感覚だけは消えない。


 再接続の痕。

 過去の敗北を引いた証。


 これが増えるたび、自分は強くなる。

 そして同時に、何かを失っていく。


「……嫌な代償だな」


 独りごちた声は、朝の喧騒に溶けた。


 通りの先では、白い衣をまとった巡礼者たちが列を成して大聖堂へ向かっている。


 今日もまた祈りが行われるのだろう。聖女候補が人々の前で祝福を授け、神官が神託を唱え、王都の人々はその光景に安堵する。


 日々の営み。 救いの儀式。


 けれどレインには、それが磨耗の儀式にしか見えない。


 彼は足を止めず、大聖堂へ向かった。


    ◇


 大聖堂ルーメンの裏手には、一般信徒が立ち入れない回廊がある。


 表の華やかな祈りの場とは違い、石壁に囲まれたそこは静かで、ひどくひんやりとしていた。白い床は磨き込まれているのに、どこか病室めいた無機質さがある。足音は乾いて響き、香は焚かれていても温かみはない。


 レインは正面から入るつもりはなかった。


 昨日の公開試験で多少名が広まったとしても、召喚士の庶子ひとりが聖女候補に会いたいと言って通されるはずがない。だから彼は、三度目の世界でたまたま知った搬入口の位置を思い出し、正門ではなく裏の回廊から中へ入った。


 鍵がかかっていないことも知っている。


なぜなら、ここは閉じる必要がないからだ。


 聖教会は“自分たちの秩序”が破られることを、あまり想定していない。


 薄い木扉を押し開けた瞬間、香の匂いが濃くなった。


 廊下の向こうで、低く祈りの声が重なっている。


 レインは足音を抑えて進んだ。途中で白衣の神官がふたり通り過ぎる。彼らは小声で話していた。


「……また今朝も長かったそうだ」「聖痕の反応が強まりすぎている」


「だが儀式は増やせとのお達しだ。王都の不安を抑えるには、あの方の祈りが必要だ」


「必要、か」


「言葉を選べ。聞かれたらどうする」


 足音が遠ざかる。


 レインは廊下の角で立ち止まり、目を細めた。


 必要。


 それがすべてだ。


 セレスティアがどう感じるかではない。 


祈るたびに何を削られるかでもない。


 神託に近い器が、王都に必要とされている。だから使われる。


 あまりに単純で、あまりに醜い。


 かつて何度も見てきた構図だった。


 廊下の奥に、小さな礼拝堂が見えた。一般向けの広間ではない。聖女候補専用の祈祷室だ。白い壁、細い窓、金糸の刺繍が入った長椅子。祭壇には小さな聖印が置かれ、その前で、セレスティアがひとり膝をついていた。

 護衛も侍女もいない。


 代わりに、部屋の四隅には祈りを補助するための銀の燭台が置かれ、その炎が不自然なほど真っ直ぐに伸びている。まるで風がないのではなく、“揺れることを忘れている”ような立ち方だった。


 セレスティアは目を閉じ、両手を胸の前で組んでいた。


 白い指先が震えている。


「……清き光よ、迷いし者に導きを」


 祈りの声は透き通っていた。 誰が聞いても神々しいと思うだろう。


 けれどレインには、それが自分自身に言い聞かせている言葉にしか聞こえなかった。


「穢れを祓い、疑いを鎮め、定められた役割へ――」


 その瞬間、部屋の空気がずれた。


 窓辺の光がわずかに遅れる。 燭台の炎が一拍遅れて揺れる。


 壁際の影だけが、他よりもほんの少し長く伸びる。


 そしてセレスティアの肩が強ばった。


 白い喉が細く上下する。呼吸が浅い。だが彼女は止まらない。祈りを続ける。言葉を重ねるたびに、その顔色は少しずつ悪くなっていった。


 レインの奥歯が、無意識に噛み締められる。


 やめろ、と思う。


 祈りではない。 これは接続だ。


 世界と神託を無理に重ねる儀式だ。


 過去のどこかで見た。何度も見た。


 そして、何度も間に合わなかった。


「――っ」


 セレスティアの声が小さく詰まる。


 組んだ指がほどけ、細い肩がわずかに揺れた。


 それでも彼女はまた祈りの言葉を紡ごうとする。


 その瞬間、レインはもう動いていた。


 礼拝堂の扉を押し開け、まっすぐ彼女のもとへ歩み寄る。


 セレスティアがはっと目を開けるより先に、レインはその手首を掴んでいた。


「やめろ」


 低い声が、礼拝堂の静寂を割る。


 セレスティアの青い瞳が見開かれる。


「……あなた」


 昨夜、公開試験で見た召喚士。 外れ職と呼ばれた少年。


 彼女の目にはそう映ったはずだ。


 だが、驚きはそれだけではなかった。


 祈りの最中、自分の手首を掴まれるなどあってはならない。聖女候補に対しては不敬ですらある。


 レインは構わず、彼女を立たせるように腕を引いた。


「続けるな。今は深すぎる」


「な、何を……放してください」


 セレスティアは反射的に抵抗した。


 だが思っていたより力が入らなかったのか、立ち上がると同時によろめく。レインが支えなければ、そのまま祭壇の前で崩れていたかもしれない。


 祈りが途切れたことで、部屋の中のずれた空気が少しだけほどける。燭台の炎がやっと普通に揺れ、窓から差し込む光の輪郭も元に戻った。


 セレスティアは息を荒くしながら、レインの手を振り払おうとする。


「離して……! これは務めです。途中で止めるなど――」


「死ぬぞ」


 あまりに直接的な言葉に、セレスティアが息を呑んだ。


「……何を、馬鹿なことを」


「馬鹿なのはそっちだ」


 レインの声は荒くなかった。


 だが静かすぎる分だけ、そこにある怒りが際立つ。


「祈るたびに削られてるのがわからないのか」


 セレスティアの表情が凍る。


 誰にも言われたことがなかったのだろう。


 あるいは、言われないよう周囲が整えてきたのかもしれない。聖女候補の疲弊は神に近い証、祈りの重み、尊き犠牲――そういう美しい言葉に置き換えられて。


 だが、レインはそれを許さなかった。


「頭痛、吐き気、耳鳴り。祈りの後で記憶が少し飛ぶことがあるはずだ。昨日、儀式のあとで何を食べたか思い出せるか?」


「な……」


 セレスティアの唇が、かすかに震えた。


 図星だった。


「どうして、あなたがそれを」


 その問いに、レインは答えない。


 答えられないのだ。 前の世界で、お前は祈るたびに少しずつ壊れていったから。


 その顔色の悪さも、指先の冷たさも、ひどく整った微笑みの裏にある疲弊も、全部見てきたから。


 何度も。


 だが彼女にとっては、これは初対面に近い。


 言えるはずがない。


「放して」


 セレスティアは声を低くした。


 さっきまでの動揺を押し込め、聖女候補としての顔を取り戻そうとしているのがわかる。


「あなたが何を知っているのか知りません。ですが、これは私の務めです。王都の人々は不安の中にいます。祈りは必要です」


「必要?」


 レインがその言葉をなぞる。


 ひどく冷たく。


「誰にとってだ。王都にとってか。教会にとってか。それとも、お前自身にとってか」


 セレスティアが息を詰めた。


「……決まっています。皆のために」


「そう答えるように教えられたんだろ」


 言ってから、自分でも少し踏み込みすぎたとわかった。


 だが止まれなかった。


「お前は祈ることしか許されてない。苦しいとも、やめたいとも、自分を守りたいとも言えないようにされてる」


「違う!」


 セレスティアの声が、初めて強く揺れた。


 高くはない。怒鳴ったわけでもない。


 それでも、その一言には抑え込んでいた感情が滲んでいた。


「違います……私は、選ばれたのです。神に。皆を導くために。役目を果たすのは当然でしょう」


「役目、か」


 レインは苦く呟く。


 またそれだ。 役目。


 運命。


 定め。


 そういう言葉で、人はどれだけの命を磨り潰してきたのか。


「役目のためなら、壊れてもいいのか」


「……それで誰かが救われるなら」


 間髪入れずに返ってきたその言葉に、レインの胸の奥で何かが軋んだ。


 前にも聞いた。


 いつだったか。 どの世界だったか。


 同じように白い礼拝堂で、あるいは崩れた聖堂の片隅で。


 彼女は確かに、似たことを言った。


 それで救われるなら、と。


 その結果、何が起きたかを覚えているのは自分だけだ。


「救われない」


 レインは低く言った。


 セレスティアが目を見開く。


「そんなやり方では、誰も」


 お前も。 王都も。


 世界も。


 そこまで言いかけて、レインは唇を結んだ。


 踏み込みすぎる。まだ早い。ここで全部をぶつけても、ただ不審な少年で終わるだけだ。


 セレスティアの目に宿っていた怒りが、少しずつ別の色へ変わっていく。 困惑。


 警戒。


 そして、理解できない何かへの怯え。


「……あなたは、誰なんですか」


 静かな問いだった。


 それは名前を聞いているのではない。 どうしてそんな目をするのか。どうしてそんな言葉を知っているのか。どうして初めて会ったはずなのに、自分の内側へ踏み込んでくるのか。


 そういう意味が全部乗っていた。


 レインは答えなかった。


 代わりに、彼女の手首を掴んでいた手をゆっくり離す。


 白い肌に、自分の指の跡が薄く残っていた。


「……少なくとも、お前を祈らせたい側ではない」


 それだけを言う。


 セレスティアはわずかに息を止めた。


 そのとき、礼拝堂の外で足音がした。


 複数。神官と護衛だ。


 セレスティアの顔色が変わる。


 この場を見られれば面倒になるのは明らかだった。聖女候補と、外れ職の召喚士が密室で言い争っているなど、教会が見逃すはずもない。


「こちらです。今、声が――」


 扉の向こうで神官の声がする。


 レインは舌打ちこそしなかったが、視線だけが鋭くなる。


 逃げる時間はある。だが、それで終わらせるには惜しい。


 彼は一歩だけセレスティアに近づき、低く囁いた。


「今日の昼に口にしたものを、紙に書き出してみろ」


「……え?」


「思い出せないなら、それが答えだ」


 セレスティアの瞳が揺れる。 意味がわからないわけではない。


 彼女自身、思い当たる節があるのだ。


「それから、明日の朝。祈りの前に左の手袋を外して手首を見ろ。聖痕の縁が昨日より広がってる」


「なぜ、そんな……」


「見ればわかる」


 扉が開こうとする気配がした。


 レインは後ろへ下がり、礼拝堂の側面にある細い通路へ身を滑らせる。


 神官が扉を開けたときには、もうそこにいるのはセレスティアひとりだけだった。


「セレスティア様!」


 年かさの神官が駆け寄る。


 後ろには侍女と護衛もいた。


「お加減が優れないと聞きましたが……おひとりで祈祷を続けておられたのですか」


「……ええ」


 セレスティアは短く答える。


 いつもの、完璧な声音だった。


 だがその指先だけは、衣の裾を強く握り締めている。


「少し、立ちくらみがしただけです。問題ありません」


「ですが、本日の午後の祝福儀礼は一刻ほど延長とのお達しが」


 その一言で、神官たちの表情に緊張が走った。


 セレスティアは黙る。


 レインは通路の陰から、その様子を見ていた。


 延長。


 やはり来たか、と思う。


 王都の不安が高まれば、祈りを増やす。


祈りを増やせば、神託との接続も深くなる。


 接続が深くなれば、セレスティアはさらに削られる。


 あまりにもわかりやすい消耗だ。


 なのに彼らはそれを“必要”の一言で済ませる。


 護衛に囲まれながら、セレスティアは一瞬だけ通路の奥へ目を向けた。 レインの姿はもう見えない。


 それでも、そこにまだ気配が残っているように感じたのかもしれない。


 彼女は小さく息を吸い、神官へ向き直った。


「……延長は、承知しました」


 その声は穏やかだった。


 だがほんのわずかだけ、遅れて言葉を選んだようにも聞こえた。


    ◇


 大聖堂の外へ出たとき、昼の光はすでに高かった。


 石段を下りながら、レインはうまくいったのか、余計なことをしたのか判断しかねていた。


 少なくとも、完全に踏み込みすぎた。 放っておけばいいとは思えなかった。


 だが、感情に任せたのも事実だ。


 セレスティアに関してだけ、自分はまだ冷静になりきれない。


 それが苛立たしかった。


 王都の広場では、人々が今日も変わらず笑い、祈り、買い物をしている。


 大聖堂で誰かが磨り減っていることなど、知らないまま。


 その日常を眺めた瞬間、視界の端がぶれた。


 広場の噴水。 白い鳩。


 子どもの笑い声。


 その向こうに、崩れた石像と血のついた水面が一瞬だけ重なる。


 レインは足を止めた。


 まただ。


 再接続の反動か、それともこの王都に残っている過去の残響が強すぎるのか。


 最近、こうして現在に別の終わりが混線することが増えている。


 右手の甲の亀裂紋が、じわりと熱を持つ。


「……面倒だな」


 呟いたそのとき、背後から軽い足音が近づいてきた。


「面倒、って顔してるわりには、随分危ないところに出入りしてたみたいじゃん」


 女の声だった。


 若い。少し掠れていて、軽口を叩き慣れている響き。


 レインが振り返るより先に、その声はまた続く。


「聖教会の裏回廊なんて、普通の坊ちゃんは近づかないよ」


 柱の陰にもたれていたのは、見知らぬ少女だった。


 年はレインとそう変わらない。


 黒に近い赤髪を後ろで雑に結び、金の瞳を面白そうに細めている。衣服は簡素だが動きやすそうで、腰には短剣、指には細い針金のような道具がいくつか挟まっていた。平民とも貴族とも違う、裏の匂いがする。


 少女はまるで旧知の相手に話しかけるような気安さで、にやりと笑う。


「で? あんた、何者?」


 問いの軽さに反して、その目は鋭かった。


 王都の陽射しの下、レインはその少女を見つめる。 知らない顔だ。


 だが、どこかで見たような気もする。


 気のせいではないのかもしれない。


 少女は肩をすくめる。


「まあ、別にすぐ答えなくてもいいけど。こっちはちょっとだけ、あんたに興味があるんだよね」


 その言葉とともに、彼女はくるりと踵を返した。


「続きは、もう少し人目のないとこで話そっか。あたし、教会の連中みたいにお上品じゃないからさ」


 レインの胸の奥で、鈍い既視感が小さく疼いた。


 知らないはずの声。 知らないはずの後ろ姿。


 なのに、何かだけが引っかかる。


 少女は振り返らず、軽い足取りで路地裏へ消えていく。


 風が吹き、広場のざわめきが少しだけ遠のいた。


 レインは右手の熱を押さえるように握り込み、静かに目を細める。


 聖女の檻に触れた翌日に現れる、裏通りの少女。


 偶然で済ませられるほど、この世界はもう単純ではない。


 王都の歪みは、思っていたよりもずっと近くまで来ている。

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