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第3話 侮蔑は、理解できないものを恐れる

公開試験の訓練場は、大聖堂から少し離れた王都守護軍の演習区画にあった。


 円形に整えられた石造りの訓練場は、観覧席を囲むように高く積まれている。普段は軍の演習や貴族子弟の試験に使われる場所だが、刻印の儀の翌日だけは特別だった。若者たちの将来を見定める見世物として、王都の者たちがこぞって足を運ぶ。


 春の陽射しはやわらかいのに、場の空気は少しも穏やかではない。


 貴族たちは見栄と期待を胸に席を埋め、平民たちは将来有望な若者の名を覚えようと目を凝らし、守護軍の関係者や神官たちは冷静な顔で立ち並ぶ。試験という名目ではあるが、実際には品定めだ。どの若者が王国にとって使えるか。誰が上に上がれるのか。誰が最初から足切りされるのか。


 そして今日は、その“足切りされる側”に一人、ちょうどいい標的がいた。


「見ろよ、あれがヴァルハルト家の召喚士だ」「昨日、外れ職を引いたって噂の」


「よりによってガルド様の相手だろ? 気の毒にな」


「気の毒? いや、むしろ見ものだ」


 囁きは隠されているようで隠されていない。観客席の空気そのものが、すでに勝敗を決めていた。


 レインは試合場の端に立ち、そんな視線を一つずつ受け止めることもなく前を見ていた。


 着ているのは飾り気のない黒い訓練着だけだ。剣も持っていない。杖もない。召喚士らしい装備もない。周囲には契約陣も、召喚触媒も見当たらなかった。


 その立ち姿は静かすぎて、かえって浮いていた。


 対するガルド・フェンリスは、登場した瞬間から場を自分のものにしていた。陽光を弾くように整えられた軽甲冑、家紋の刺繍された上着、腰に佩いた細身の長剣。姿勢も視線も堂々としていて、これから勝つことを疑っていない人間の空気を纏っている。


 観客席からガルドの名を呼ぶ声が飛ぶ。彼は片手を軽く上げて応え、余裕ありげに試合場の中央へ歩み出た。


「ずいぶん軽装だな」


 ガルドが笑う。


「召喚士なら、何か呼ぶ準備くらいしていると思ったが」


 レインは答えない。


 沈黙は挑発よりも気に障るのか、ガルドはわずかに口元を歪めた。


「それとも、呼べないのか?」


 周囲がくすりと笑う。


 審判役の軍人が二人の間に立ち、規定を淡々と読み上げる。模擬戦。勝敗は降参、戦闘不能、武器の完全破損、あるいは審判の判断によって決する。


殺傷は禁止。神官立ち会いのもと、一定以上の過剰攻撃も禁じられる。


 もっとも、誰もそんな規定が必要だとは思っていない。外れ職の召喚士が、王都期待の若手剣士に深刻な傷を負わせるなど、最初から想定されていないからだ。


「両者、構え」


 レインは両手を自然に下ろしたまま、半歩だけ重心を落とす。


 ガルドは剣を抜いた。銀光が走る。良い剣だ。軽く、しなりがあり、切っ先に迷いがない。本人の技量も低くない。少なくとも、ただ家柄だけで持ち上げられている男ではなかった。


 だからこそ、都合がいい。


「始め!」


 審判の声と同時に、ガルドが踏み込んだ。


 速い。


 一歩目で距離を潰し、二歩目で斜めに角度をずらしながら切っ先を伸ばす。牽制ではない。最初から勝負を決めに来る剣だ。観客が一瞬だけ息を呑む。


 だがレインは、わずかに身体を捻っただけでそれを外した。


 剣先が衣の端を掠める。


 ガルドはすぐに返しの一撃を入れる。水平の薙ぎ。続けて足払いを狙う低い軌道。どちらも淀みなく繋がっていた。訓練された貴族剣術の型だ。


 レインはそれも、必要最小限の動きで避ける。


 大きく跳ばない。派手に退かない。まるで剣が届く前から、そこへ刃が来ることを身体だけが知っているような、そんな避け方だった。


「……っ」


 ガルドの眉が寄る。


 観客席ではまだ、運がいい、勘がいい、その程度に思われている。だが剣を振っている本人だけはわかる。おかしい。距離も角度も悪くなかった。外したのではない。届くはずの場所に、最初から“いない”。


 ガルドは踏み込みを深くする。今度は探るためではなく、速さで押し潰すつもりだ。


 剣光が何度も走る。


 喉元。肩口。脇腹。脚。


 レインは無駄なく退き、傾き、捻る。どの動きも大きくないのに、なぜか捉えられない。まるで剣が当たる未来だけが、滑って逸れていくようだった。


 観客席のざわめきが少しだけ変わる。


「……避けてる?」「運がいいだけじゃないのか」


「いや、でも今のは」


 ガルドが歯を食いしばった。


「ちょこまかと……!」


 剣の速度がさらに上がる。今度は上段から袈裟に振り下ろし、その勢いを殺さぬまま半回転して返す。そこに無駄はなかった。剣士としては上質だ。


凡庸な相手なら、もうとっくに終わっている。


 だがその一撃が、レインの肩に届いた――そう見えた瞬間。


 結果だけが、ずれた。


 切っ先は正確に走っていた。距離も合っていた。観客の誰の目にも、今度こそ捉えたように見えたはずだった。


 なのに、斬れていない。


 レインは半歩後ろにいる。剣はその手前を空しく通り過ぎていた。

「な……」


 ガルドの口から、初めて確かな動揺が漏れる。


 レインの背後に、誰かの影が立っていた。


 ほんの一瞬だけだ。鎧も紋章もなく、名さえ知られぬ無名の兵のような残影。割れた盾を抱き、全身を強張らせながら、それでも最後まで身体を差し入れて斬撃を受け止めようとしている。


 次の瞬間にはもう消えている。観客席にいたほとんどの人間は気づかなかっただろう。だが、ガルドの剣を握る手だけは、その妙な“引っかかり”を確かに感じていた。


 レインはゆっくりと息を吐いた。


 一度目の世界で見た男だ、と脳裏のどこかが呟く。


 名前は知らない。出身も、家族の有無も、何もわからない。ただ、崩れた城壁の前で、あの男は最後まで盾を下ろさなかった。その一瞬の選択だけが、敗北した世界に残った。


 レインが引いたのは、その“最後”だ。


 召喚ではない。生き物を呼んだのでも、霊を操ったのでもない。死んだ誰かの生き様から、最後の選択だけを現在へ引きずり出したにすぎない。


「何をした」


 ガルドが低く問う。強がりの混じった声だった。


 レインは答えない。


 説明したところで理解されない。理解できないものを、人はまず侮る。侮りが剥がれたあとで、ようやく恐れる。


 ガルドは再び前へ出る。今度は焦りを押し隠す余裕すらなかった。


「小細工だろうが!」


 鋭い突き。


 続けて下段からの斬り上げ。


 レインは一歩だけ踏み替える。足の裏に伝わる砂の感触。重心のずれ。視界の端で、別の死が重なる。


 二度目の世界。泥に足を取られながらも踏み込みを捨てなかった槍兵。


三度目の世界。片目を焼かれてなお、首の角度だけで致命傷を外した老剣士。


 五度目の世界。逃げ遅れた子どもを庇うため、半身を差し出した騎士。


 どれも敗北だった。誰も最後には勝てなかった。守り切れなかった。生き延びられなかった。


 それでも、その瞬間だけは確かに“正しかった”。


 レインの身体が、それらを薄くなぞる。


 大きく避けるのではない。相手の剣が最も届かない角度へ、ほんのわずかずつ身体を置き換えていく。その動きは美しくも華やかでもない。ただ、ひどく生々しく、死に慣れた者のそれだった。


「くそっ……!」


 ガルドの呼吸が乱れ始めた。


 焦りは型を崩す。剣は強いが、精神はまだ若い。周囲から期待され、負けることを想定していない人間ほど、一度の齟齬に弱い。


 観客席にも不安が広がっていく。


「今の、見えたか?」「見えない。だが、ガルド様の剣が当たらない」


「召喚しているようにも見えないぞ」


「本当に召喚士なのか……?」


 審判役の軍人でさえ、眉をひそめている。神官は口を結び、何かを確かめるようにレインの手元を見ていた。


 レインはその視線を感じながら、静かにガルドを見据える。


 まだ終わらせない。


 相手が剣を折られるより先に、侮蔑の形が崩れる瞬間が必要だ。


 ガルドが吠えるように踏み込んだ。


「当たれッ!」


 上段から、全体重を乗せた渾身の一撃。美しさより威力に寄せた、半ば強引な剣だった。だが速さと重さは十分にある。いまのガルドができる最善に近い。


 レインは初めて、自分から前へ出た。


 観客席の何人かが息を呑む。


 わずか半歩。相手の踏み込みに合わせて、その懐へ滑り込む。普通なら自殺行為だ。だが、レインの指先は迷いなく伸びた。


 剣の鍔元へ、軽く触れる。


 その瞬間、背後にもうひとつの影が走った。


 処刑人のような大斧を持つ、黒ずんだ影。首を落とすためではない。裏切られた王を最後まで守れず、折れた斧を握ったまま膝をついた男の、悔恨だけが形を持ったような残像。


 それも一瞬で消える。


 次の瞬間、乾いた音が訓練場に響いた。


 ガルドの剣が、鍔元から先で折れていた。


 ぽとり、と折れた刃の半分が地面へ落ちる。


 場が静まり返る。


 誰も声を上げない。


 歓声も、悲鳴もない。ただ結果だけがそこにあって、理解が追いついていない沈黙が満ちていた。


 ガルドは目を見開いたまま、自分の手元を見ている。折れた剣。震える指。信じられないというより、理解不能の色だった。


「な、にを……」


 レインは一歩だけ退いた。距離を戻し、それ以上追撃する気はないと示す。


 そして初めて、口を開く。


「切れない剣を振るうな」


 低く、平坦な声だった。


「その先で、誰も守れない」


 それは挑発の言葉としては妙だった。


 勝者が敗者を嘲るには、あまりに重い。まるで自分自身にも向けた戒めのような響きがあった。


 ガルドの顔が、屈辱で赤くなる。


「……貴様ッ!」


 折れた剣の残りを構えようとしたところで、審判役の軍人が間に入った。


「そこまでだ!」


 はっきりとした制止。ガルドは反射的に足を止める。


「武器の完全破損。勝者、レイン・ヴァルハルト」


 その宣言が、ようやく場を現実へ引き戻した。


 ざわめきが一気に広がる。驚き、困惑、戸惑い、恐れ。だがそれは賞賛とは少し違った。


「どうやって折った?」「召喚は見えなかったぞ」


「今、何か影のような……」


「いや、気のせいだろう」


「だが、あれは」


 人々は言葉を探している。


 それが、レインにはよくわかった。


 侮蔑は、理解できるうちは簡単だ。格下だと決めつけて笑っていればいい。だが理解の外に出た瞬間、人は言葉を失う。その次に来るのが恐れだ。


 ガルドはまだ納得できない顔でレインを睨みつけていたが、足元の折れた刃が現実だった。取り繕う余裕もなく、ただ自尊心だけが軋んでいるのが見て取れる。


 レインは彼から視線を外した。


 勝った。


 だが、胸の内にあるのは爽快感だけではない。


 右手の甲が熱い。


 見れば、そこに細い亀裂のような紋が一本、昨日よりもはっきり浮かんでいる。皮膚の下にひびが走っているような、不吉な模様だった。指先に力を込めるたび、そこからじわりと熱が滲む。


 視界の端で、崩れた塔が見えた気がした。


 一瞬だ。春の訓練場は消え、灰色の空と瓦礫の街が重なる。耳の奥で、またあの終焉の音が鳴る。


 レインは静かに息を吐き、瞬きをひとつして幻を追い払った。


 再接続が深くなれば、こうなる。


 過去世界の残響を引くたび、自分の中の継ぎ目もまた開いていく。


「レイン・ヴァルハルト」


 名を呼ばれ、顔を上げる。


 観客席の上段、白い衣の間にセレスティアが立っていた。護衛と神官たちに囲まれているのに、彼女だけが妙に遠く、そして鮮明に見える。


 青い瞳が揺れていた。


 恐れか、困惑か、それとも既視感か。彼女自身にも判断できていない表情だった。


 レインが剣を折った瞬間、彼女には見えてしまったのだ。


 彼の背後に、一瞬だけ重なった“顔のない英雄”の輪郭が。


 セレスティアの唇が小さく動く。


「どうして……」


 誰にも聞こえない声だった。


「あなたが、その影を……」


 レインの胸の奥で、何かが軋む。


 彼女はまだ思い出していない。思い出すはずもない。だが、神託に近すぎる彼女の感覚だけが、過去世界の残響を薄く拾っているのかもしれなかった。


 審判が退場を促す。


 レインは黙って踵を返した。


 観客の視線が背中に刺さる。昨日までの軽い侮りではない。答えを求める戸惑いと、名づけられないものに触れた不安とが混ざった視線だ。


 それでいい、とレインは思う。


 最初のひびは入った。


 この世界は、自分を外れ職だと思い込んでいる。なら、その思い込みの内側から崩していけばいい。


 試合場の出口に向かいながら、レインは右手を軽く握った。


 熱い。痛い。だが、まだ耐えられる。


 そのとき、不意に背筋が冷えた。


 見られている。


 観客席でも、神官でも、セレスティアでもない。もっと別の、測るような視線だった。


 レインは足を止めず、ほんのわずかに目だけを動かす。


 観客席の最上段、その影になった通路に、ひとりの男が立っていた。


 黒い外套。長身。表情の読めない顔。周囲のざわめきとは切り離されたように静かで、まるで最初からそこにいたのに今初めて輪郭が見えたような、不思議な存在感だった。


 男はレインを見ていた。


 まっすぐに。


 そして、かすかに口元を動かす。


「……なるほど」


 低い声だった。観客の喧騒に紛れて、すぐに消えてしまいそうなほど小さい。それでもレインの耳には、はっきり届いた。


「そちらは、そうやって繋いだか」


 意味のわからない言葉。


 なのに、その一言だけで空気の温度が変わる。


 レインが振り返ったときには、もう男の姿はなかった。通路には誰もいない。風だけが石壁を撫でていく。


 ぞくり、と背骨を冷たいものが這い上がる。


 いまのは誰だ。


 神託側の観測者か。別の回帰者か。それとも、もっと別の何かか。

 訓練場の喧騒が遠くなる。


 春の日差しは変わらず明るいのに、レインの足元にだけ薄い影がまとわりついている気がした。


 出口の先、石壁に落ちた自分の影を見下ろす。


 その影の足元に、ほんの一瞬だけ黒い獣の耳のような輪郭が混じった。


 まばたきをしたときには消えている。


 レインは何も言わず、訓練場を後にした。


 侮蔑は崩れた。 理解は、まだ追いついていない。


 そして、こちらを見ているものは、もう一つではない。


 八度目の世界は、思っていたよりも早く軋み始めていた。

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