第2話 神に選ばれるということ
大聖堂の内部は、外から見上げたとき以上に白く、冷たかった。
高い天井を支える無数の柱には金の装飾が施され、壁面には神話や聖人の偉業を描いた大きな壁画が並んでいる。どこもかしこも磨き上げられていて、神の住まう場所にふさわしい厳かさがあった。
けれどレインには、そのどれもが薄い舞台装置のように見えた。
床の石目。祭壇の段差。聖歌の反響する角度。神官たちの立ち位置。全部覚えているわけではない。だが、身体のどこかが知っている。この場所で誰が泣き、誰が跪き、誰が選ばれ、誰が切り捨てられてきたのかを。
「貴族階位第四位まで、前列へ」
神官の声が響く。
整列していた若者たちが、家格によって少しずつ位置を変える。最前列には名門貴族の子らが並び、その後ろに準貴族、さらに平民出の者たちが続いた。形式上は神の前で平等。だが現実には、始まる前から立ち位置が違う。
レインは列の中ほど、貴族としては末席に近い場所へ押しやられる。
ヴァルハルト家は騎士の家系ではあるが、今では名ばかりだ。家格でいえば辛うじて貴族の顔をしているにすぎず、王都で重みを持つ名ではない。
ルークは少し前の列に立ち、肩越しにちらりとレインを振り返った。その目には、同情ではなく安堵が浮かんでいる。もしレインが高位職を得れば、家の中で面倒なことになる。そう考えているのが見え透いていた。
レインは視線を逸らし、祭壇の方を見る。
神官長が中央へ進み出ると、聖歌隊の声が静まり、堂内を満たしていたざわめきも次第に消えていった。誰もが息を詰める。親たちは祈り、若者たちは緊張に背筋を伸ばす。
神官長が両手を広げた。
「これより刻印の儀を執り行う。神託は適性を認証し、役割を付与し、諸君らの歩むべき道を示す」
その言葉に、人々は敬虔な顔で頭を垂れた。
レインだけは眉ひとつ動かさない。
適性を認証。役割を付与。
何度聞いても、祈りの言葉には聞こえなかった。神が人を愛しているのなら、もっと別の語彙を使うはずだ。そこにあるのは祝福ではなく、分類と配置だ。必要な場所へ必要な駒を置く、ただそれだけの響きだった。
列の先頭から、ひとりずつ名を呼ばれて祭壇へ上がっていく。
最初に選ばれたのは大貴族の嫡男だった。緊張と誇りを張りつかせた顔で神具に手を置くと、柔らかな青白い光が走る。神官が目を閉じ、耳を澄ませるように一拍置いてから、高らかに告げた。
「騎士」
歓声が上がった。
母親らしい女が涙ぐみ、父親は満足げに頷く。周囲からも祝福の声が飛んだ。王都守護軍への道が開ける、良縁に恵まれる、家名がさらに高まる――そんな言葉があちこちから聞こえる。
次は魔導師、その次は聖職者。ひとり、またひとりと職能が与えられるたびに空気が波立ち、期待と安堵が堂内を満たした。
レインは黙ってそれを見ていた。
人々は本気で信じている。神託は未来を照らす光なのだと。ここで与えられた名が人生を導いてくれるのだと。だからこそ残酷だ。自ら喜んで鎖を受け取り、それを祝福と呼んでしまうのだから。
祭壇脇で控えていた白い影が動く。
セレスティア・ルミナだった。
彼女が一歩前へ出ただけで、空気が変わる。視線が集まり、堂内の温度が少しだけ下がった気がした。金の髪は燭台の光を受けて淡く輝き、その横顔は精巧な彫像のように整っている。誰もが神に愛された娘を見つめる眼差しで彼女を見る。
セレスティアは神具の前に進むと、静かに祈りの文句を口にした。
「清き光よ、迷いし子らに道を――」
その瞬間だった。
祭壇の脇に置かれた水盤の水面が、わずかに遅れて震えた。
燭台の炎が、不自然なほど真っ直ぐに立ち、次の瞬間だけ遅れて揺らぐ。壁際の白布も、風に吹かれたあとで追いかけるように動いた。
ほんの一拍。
気づく者などいない。いたとしても目の錯覚で片づけるだろう。
レインの喉の奥が、冷たく引き攣る。
また、同じだ。
神託が深く降りるとき、セレスティアの周囲だけ世界が少しだけずれる。あれは奇跡などではない。世界と世界の継ぎ目が、彼女のそばでだけ薄くなるのだ。
セレスティアは何事もない顔で祈りを終えた。だがレインにはわかる。彼女の指先はごくわずかに震え、その呼吸は少しだけ浅い。完璧に見える微笑みの下で、彼女の身体は確実に何かを削られている。
やはり、まだここにいる。
まだ、あの役割の中に閉じ込められたままだ。
「次。レイン・ヴァルハルト」
呼ばれて、レインは意識を引き戻した。
石段を上る。
人々の視線が集まるのを感じる。期待は薄い。むしろ、どんな職が出るかを興味本位で見ている視線だ。没落騎士家の庶子。社交界でも話題にならない立場の人間に向けられる眼差しとしては、十分にましな部類かもしれない。
祭壇の正面へ立つと、神官が神具を示した。
「手を」
レインは黙って右手を置く。
石とも金属ともつかない冷たい感触が掌に触れた、その瞬間。
光が走った。
白でも青でもない。深い井戸の底を覗き込んだときのような、黒に近い光だった。ほんの一瞬だけ、祭壇の奥の壁画がその光を弾いて、不自然な影を浮かび上がらせる。
神官の表情が、わずかに強張った。
すぐに彼は取り繕い、いつもの抑揚を崩さぬまま声を張り上げる。
「汝に与えられしは――召喚士」
一拍、静寂。
それから、ざわりと空気が揺れた。
「召喚士だってよ」「外れ職じゃないか」
「よりにもよって」
「ヴァルハルト家も終わりだな」
失笑が、さざ波のように広がる。
誰も恐れない。ただ、価値がないものを見たように口元を歪めるだけだ。その方が、レインにはよほど馴染み深かった。
義母は露骨に目を伏せ、ルークは胸の奥でほっと息をついたような顔をする。期待していなかったくせに、期待外れだとでも言いたげな周囲の視線が皮膚に刺さった。
レインはまばたきひとつしなかった。
何度聞いても同じ響きだ、と彼は思う。
侮蔑は驚くほど形を変えない。言葉の表面だけを新しくして、いつだって同じ中身を押しつけてくる。
だが本当に価値がないのは、召喚士という職そのものではない。こいつらの目のほうだ。
神官が続ける。
「なお、召喚士の職能は高位任官の推薦対象外とする。王都守護軍への優先登用資格なし。聖域指定区画への出入りは制限あり。王国中央騎士団選抜試験への参加権は認められない」
堂内のどこかで、小さく笑う声がした。
その瞬間だけ、レインの目がわずかに細くなる。
資格なし。制限あり。認められない。
それは単なる職業差別ではない。人生の幅そのものを、最初から狭める宣告だ。この一文で、どれだけの未来が削がれるのかを、彼は知っている。
かつて、推薦資格がないというだけで王都守護軍に入れず、ある戦場に立てなかった。その結果、救えなかった命があった。どの世界だったかは曖昧でも、その喪失だけは痛みとして残っている。
それなのに、今ここで周囲が向けるのは同情ですらない。面白がる視線。あるいは、そんなものだと処理する無関心だ。
レインはゆっくりと手を引いた。
掌の中心に、熱が残っている。
召喚士。
やはり、同じか。
だが、今回はそれでいい。いや、むしろ好都合だ。価値がないと思われるほど、人目は鈍る。神託がそう配置したのなら、その穴を使わせてもらうだけだ。
石段を下りようとしたとき、不意に視線が絡んだ。
セレスティアだった。
少し離れた位置で控えていた彼女が、珍しく微かに眉を寄せている。神に愛された娘の完璧な仮面に、ほんのわずかなひびが入っていた。
レインは足を止めない。
けれど彼女の指先が白くなるほど強く握られているのが見えた。聖痕の浮かぶ手首。細い喉が、息を呑むように上下する。
だめだ、と彼は思う。
あれは、もう近い。祈るたびに何かを削られていく段階に入っている。
そのとき、セレスティアの肩がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。誰も気づかないほど小さなふらつきだ。だがレインの身体は、考えるより先に反応していた。石段を降りかけた足が止まり、右手がわずかに伸びる。
――また、届かないのか。
伸ばした手は、途中で止まった。
指先が空を掴む。届く前に、レインは自分で止めていた。
昔もこうして手を伸ばしたことがある。助けるために。救うために。だがそれで足りたことはなかった。足りないまま終わった記憶ばかりが重なっている。
セレスティアは、はっとしたように顔を上げた。
青い瞳が、まっすぐにレインを捉える。
「……あなた」
声は小さかった。堂内のざわめきに溶けるほどに。
「どこかで……」
そこまで言いかけて、彼女は自分で言葉を呑み込んだ。ありえない、とでも言いたげに目を揺らし、すぐに唇を引き結ぶ。
レインは答えなかった。
答えられるはずもない。
お前は何度も死んだ。何度も祈った。何度も壊れた。そして何度も、俺は間に合わなかった――そんなことを、いまの彼女に告げられるわけがない。
祭壇を降りたレインの耳に、背後からルークの声が飛ぶ。
「見たかよ。やっぱり外れだ」
近くにいた貴族の少年たちがくすくす笑う。
「召喚士で何ができるんだ」「犬でも呼ぶのか?」
「いや、せいぜい鼠じゃないか」
レインは振り返らない。
それでも、彼らの笑い声の輪郭だけは不思議と鮮明だった。軽い。薄い。だがそれを軽いまま終わらせてはくれないのが、この世界だ。こういう笑いが制度と結びついたとき、人は平然と誰かの人生を削る。
儀式はまだ続いていた。次々と若者たちが職能を与えられ、歓声が上がる。剣士、魔導師、聖職者、斥候。神託に名を呼ばれた者たちは安堵と誇りに顔を輝かせ、外れ職を引いた者は肩を落とし、家族は露骨に沈んだ顔をする。
神に選ばれるということ。
それは結局のところ、この世界で許される人生の幅を決められるということだ。
レインは堂内を見渡し、息を吐いた。
壊すべきものの形が、あまりにも明確だった。
◇
儀式が終わって大聖堂の外へ出ると、春の光がまぶしかった。
人々は結果を語り合い、職能の格を品評し、早くも今後の進路や縁談や推薦の話を始めている。たった今、十五になったばかりの若者たちの未来が、祭壇の一言で振り分けられていく。
石壁に大きな羊皮紙が貼り出された。若者たちが一斉に群がる。
「公開試験の告知だ」「今年は王都守護軍の視察も来るらしいぞ」
「騎士と剣士は有利だな」
ざわめきに押されるように、レインも足を止めた。
羊皮紙には明日以降の試験内容が記されている。模擬戦、適性測定、神官立ち会いの実地審査。王都守護軍や中央機関が推薦候補を見定めるための、いわば公開の品評会だ。
当然ながら、召喚士には不利な形式だった。
準備の時間も与えられず、単体戦を重視し、呼び出した存在の維持時間には制限が設けられる。外れ職を外れ職のまま証明するための試験と言ってもよかった。
「やはりな」
レインは小さく呟く。
神託だけでは終わらない。制度は制度を補強し、外れ職が上へ上がれないよう、最初から形を整えている。
「おい」
背後から声がした。
振り返ると、そこには王都でも名の通った若手剣士が立っていた。整えられた金髪、仕立ての良い訓練服、腰に佩いた細身の剣。自信に満ちた立ち姿。周囲の視線が自然と集まる。
ガルド・フェンリス。
名門子爵家の嫡男。王都守護軍入りを確実視されている、今年の有力候補のひとりだ。
ガルドはレインを上から下まで値踏みするように見て、口の端を吊り上げた。
「ちょうどいい。明日の模擬戦、俺がお前の相手をしてやる」
周囲がざわつく。
「ガルド様が?」「外れ職相手に?」
「見せしめだな」
あからさまな愉悦が、空気に滲んだ。
ガルドはそれを気にも留めず、続ける。
「召喚士がどれほど無価値か、皆の前で証明してやるよ。神託に逆らえないこともな」
レインは黙って彼を見た。
挑発に満ちた、若く自信に溢れた目だった。剣の腕も本物だろう。少なくとも、ここで鼻で笑って終わるだけの軽い相手ではない。そのことが逆に都合がいい。
レインの沈黙を怯えと取ったのか、ガルドはさらに声を張った。
「逃げるなよ。どうせ外れ職でも、試験への参加自体は認められているんだろう?」
羊皮紙の試験項目を見れば、その通りだ。高位任官の推薦対象外であっても、試験の一部に名を連ねることはできる。そこで無様を晒すことで、外れ職の格を再確認させる役目も兼ねているのだろう。
レインは視線をわずかに羊皮紙へ向け、それからガルドへ戻した。
「……逃げない」
短い返答だった。
ガルドは満足げに笑う。
「そうか。なら明日、思い知らせてやる。切れない剣も、呼べない召喚も、この王都では価値がないと」
それだけ言って、彼は取り巻きを連れて去っていく。後に残ったのは好奇と嘲りの視線ばかりだった。
レインは表情を変えずに立ち尽くす。
視界の端で、誰かがこちらを見ていた。
セレスティアだ。
少し離れた回廊の陰。護衛や侍女に囲まれながら、それでも彼女だけはまっすぐレインを見ていた。青い瞳の奥にあるのは侮蔑ではなく、困惑と、説明できない怯えだ。
彼女には何かが見えているのかもしれない。
自分の背後に引きずってきた、過去の影のようなものが。
だが、いまはそれでいい。
レインは彼女から目を逸らし、右手を軽く握った。
その手の甲に、見間違いかと思うほど薄い線が一本、浮かび上がっている気がした。ひび割れのような、傷痕のような、細い亀裂の紋だ。
熱い。
刻印の儀の瞬間から、ずっとそこだけ温度が違う。
また始まったのだ、とレインは思う。
いや、違う。
始まったのではない。繋がったのだ。切れたはずのどこかへ、また。
大聖堂の鐘が鳴る。
春の光の下で、王都は今日も美しかった。何も壊れていない。誰もまだ死んでいない。だからこそ、この静かな景色の下に何が埋まっているのかを知る者にとっては、残酷だった。
レインはゆっくりと歩き出す。
明日、試験がある。
見下されるのは構わない。笑われるのもどうでもいい。
ただひとつ、変わらないことがある。
侮蔑はいつだって、理解できないものを恐れる前触れにすぎない。
そのことを、まだ誰も知らない。




