第1話 終焉の音は、まだ耳の奥にある
空が裂ける音を、レインは知っている。
雷とも爆発とも違う、世界そのものが歪み、引き剥がされるような音だ。耳で聞くというより、骨の奥に直接ねじ込まれる痛みに近い。空を見上げれば、夜でも昼でもない色をした裂け目が幾重にも走り、その向こうで何か巨大なものが蠢いているのが見えた。
王都アストラは燃えていた。
白亜の聖堂は塔の中ほどから崩れ、石畳には血と灰がまだらに広がり、遠くで人が叫んでいる。助けを求める声、誰かの名を呼ぶ声、祈りの言葉。だが、そのどれも空の裂け目に吸い込まれて、届く前に千切れていった。
レインは膝をついていた。
右肩から腰にかけて裂けた傷口は熱く、なのに手足の感覚はもう薄い。血に濡れた自分の手の中には、白銀の指輪がひとつあった。細身で、装飾の少ない、見慣れた指輪だ。ひび割れたそれを握りしめるたび、冷たい金属が手のひらに食い込む。
―まだだ。
立ち上がらなければならなかった。
ここで終われば、また救えない。
けれど指先に力が入らない。視界は赤く滲み、崩れた塔の向こうで、白い衣が揺れた気がした。誰かが泣いている。幼い子どものようにも、祈りを捧げる娘のようにも聞こえる、ひどく掠れた声だった。
「……レイン」
呼ばれた気がした。
顔を上げる。けれど、視界の端に映るものは炎と瓦礫ばかりで、声の主は見えない。
そのとき、足元の影が動いた。
黒い獣のような輪郭が、崩れた石の隙間から這い出してくる。金の瞳だけが不自然なほど鮮やかに光り、レインの膝に鼻先を寄せた。小さな体。だが、その気配はひどく懐かしく、同時に、底のない奈落のように不穏だった。
影が喉を鳴らす。
それが合図だったかのように、空気が変わった。
頭上でも足元でもない、もっと近い場所で声が響く。神託のようでいて、祈りの匂いは一切ない。人の声色を真似ただけの冷たい読み上げだった。
世界維持機構の再起動を確認。
不適合因子の再配置を開始します。
白銀の指輪に、ぴしりと亀裂が入った。
その一瞬、レインは理解する。
ああ、まだ終わっていない。
終わったのではない。終わらせてもらえないのだ、と。
次の瞬間、世界が白く反転した。
◇
息が、喉に刺さった。
レインは跳ね起きた。肺が焼けるように熱く、胸の内側で心臓が激しく暴れている。耳を塞いでも、空の裂けるあの音が消えない。骨の奥に、まだ残っている。
暗い天蓋も、焼け落ちた天井もない。
粗末だが清潔な木の寝台。薄いカーテン越しに差し込む朝の光。狭い部屋の隅に置かれた古い剣架。磨耗した床板。窓辺の鉢植え。見慣れた、見慣れすぎた景色だった。
ヴァルハルト家の離れ。
自分にあてがわれていた、あの薄暗い部屋。
レインは荒い息のまま、両手を見下ろした。傷はない。ひび割れた白銀の指輪もない。肩も、腹も、痛まない。若い手だ。細く、まだ剣だこも浅い。
「……戻ったのか」
口にした声は、自分でも驚くほど掠れていた。
戻った。
その言葉だけなら希望に聞こえるはずだった。もう一度やり直せる。失ったものを取り戻せる。ふつうなら、そう考えるのだろう。
だがレインの胸に広がったのは、歓喜ではなかった。
吐き気に似た安堵と、どうしようもない恐怖だけだ。
まだ生きている。誰も死んでいない。まだ、あの終わりに辿り着いていない。
それは救いであるはずなのに、あまりにも眩しすぎて、息が詰まる。
部屋の外から、食器の触れ合う音がした。誰かの話し声。使用人が廊下を歩く足音。ごく当たり前の朝の気配だ。だが、レインは一瞬それだけで泣きそうになる。
こんな音を、何度失ったかわからない。
彼は乱暴に顔を覆い、深く息を吸った。
落ち着け。今は朝だ。世界はまだ割れていない。王都も燃えていない。聖堂も崩れていない。空は青い。空の向こうに、あれはまだ見えていない。
見えていないだけだ。
「レイン様。お起きですか」
扉の向こうから控えめな声がした。年老いた使用人の女の声だ。懐かしい、と感じた直後、胸の奥に鈍い痛みが走る。
彼女は三度目の世界で、王都が陥落した日に死んだ。
そんなことを覚えているのは、自分だけだ。
「……ああ」
返すと、扉越しに安堵したような気配がした。
「本日は刻印の儀の日です。皆さま、食堂に」
刻印の儀。
その言葉に、レインはゆっくりと目を閉じた。
やはり、そこまで戻っている。
十五の春。神託に職能を与えられ、人としての価値の大半を決められる日。家の者も、街の者も、誰もがそれを祝福と呼ぶ。だがレインは知っている。あれは祝福などではない。人生の振り分けだ。役割の配置だ。神の気まぐれを装った、もっと冷たい何かの割り当てだ。
――今回も、同じところから始まる。
いや。
始まるのではない。終わらせ損ねた続きを、また引きずらされるだけだ。
◇
食堂には、すでに家族が揃っていた。
長机の上に並ぶのは、硬い黒パンと薄いスープ、塩漬け肉が少し。没落寸前の騎士家らしい、慎ましい朝食だ。かつてはそれなりの栄華を誇ったヴァルハルト家も、今では地方の領地を維持するのがやっとだった。
席についたレインに、義母はちらりと視線を向けただけで、すぐに皿へと目を戻した。異母兄のルークはあからさまに口元を歪める。
「珍しいな。今日は震えて逃げ出していないだけ上等か」
レインは返事をしなかった。
使用人が切り分けたパンが、皿の上でぱきりと割れる。
その乾いた音に、レインの手が止まった。
音だけで、喉が締まる。呼吸が浅くなる。あれは――いつの世界だったか。誰かが折れた槍を掴み直した瞬間の音に似ていた。あるいは、砕けた骨の音だったかもしれない。曖昧なはずなのに、身体だけが正確に覚えている。
「おい」
ルークの怪訝そうな声で、レインは我に返った。
「ぼんやりするなよ。今日のお前の職が家の面目に関わるんだ。せめて騎士か魔導師であれ。召喚士や調教師なんぞ出たら、笑いものだぞ」
笑いもの。
その響きに、レインは内心で乾いた笑みをこぼす。
何度聞いても、人間の侮蔑は形を変えない。語尾が少し違うだけで、本質は驚くほど同じだ。
義母がナイフを置いた。
「騎士か、せめて軍務に就ける職であればいいのだけれどね。今の我が家に、神託に外された子を抱える余裕はないのよ」
柔らかな口調だった。だが、その内容は十分に冷たかった。
神託に外された子。
たったその一言で、人生の大半が決まる世界だった。
高位の職能を得れば、王都守護軍に推薦される道が開ける。良縁にも恵まれる。家の継承にも関わる。逆に“外れ職”であれば、軍務も官職も制限され、家の恥とさえ見なされる。人は神託を敬う。だが本当に敬っているのは、そこにぶら下がる利権と安寧だ。
レインはスープを口に運びながら、淡々と思う。
この食卓も、家も、会話も、いずれ失われる。
そう知っているのに、目の前の誰かを嫌い切れないのは厄介だった。ルークは二度目の世界で戦場に出る前夜、震える声で「生きて帰れると思うか」と聞いた。義母は四度目の世界で屋敷に火が回ったとき、最後まで使用人たちを先に逃がそうとした。
今ここにいる家族は、まだ何も失っていない。まだ、ただの嫌な人間でしかない。
それでも、まだ生きている。
そのことが、どうしようもなく苦しい。
「何か言いなさいよ、レイン」
義母の声に、彼はようやく顔を上げた。
「……別に」
「別に、ではないでしょう。あなたにだって自覚はあるはずよ。今日の結果次第では」
「わかっています」
思いのほか低い声が出た。
義母が少しだけ目を見開く。ルークも一瞬黙った。レインはそれ以上言わなかった。
わかっている。
今日の結果ひとつで、自分の立場がさらに軽くなることも。神託が人の価値を決めるこの世界で、外れ職は最初から多くを奪われることも。わかっている。
そのうえで、どうでもよかった。
職の名そのものは、本質ではないからだ。
問題は、その職を通して何が振り分けられるか。誰が選ばれ、誰が切り捨てられるか。その構造のほうだ。
レインは残りのパンを静かに食べ終えると、席を立った。
「先に行きます」
ルークが鼻で笑う。
「ひとりで気負うなよ。どうせ結果は変わらない」
レインは扉に手をかけたまま、振り返らずに答えた。
「……変わるさ」
それが自分の職能を指すのか、この先の世界を指すのか。家族にはわからなかっただろう。
だがレインにとっては、どちらでもよかった。
◇
王都へ向かう街道は、春の光に満ちていた。
石畳の脇には露店が並び、遠方から来た若者たちとその家族で賑わっている。刻印の儀は祝祭でもある。屋台の菓子の甘い匂い。駆け回る子ども。職能の吉凶を語り合う大人たち。希望に満ちたざわめき。
どれも見覚えがある。
そして、そのほとんどがどこでどう壊れるかを、レインは知っていた。
角を曲がればパン屋がある。三年後には火災で焼ける。橋の手前の薬屋は、四度目の世界で魔獣に踏み荒らされた。噴水広場の彫像は、七度目の終盤、落ちた塔の破片で砕けた。
視界が過去と現在の間でぶれる。
レインは歩みを緩め、息を整えた。
知っている、ではない。忘れられないのだ。いま目に見えている街よりも、失われた街のほうが鮮明に脳裏へ浮かぶことすらある。
「見ろよ、聖女候補様だ」
前方で誰かが声を上げた。
人々が自然と道を開ける。白を基調とした衣装の一団が、大聖堂へ向かって進んでいた。中心にいるのは、ひときわ目を引く少女だ。
金の髪が陽光を受けて淡く輝いている。白い肌、透き通るような青い瞳。整った顔立ちには微笑が浮かび、歩く姿は絵画のように美しかった。誰もが息を呑み、祈るような目を向ける。
セレスティア・ルミナ。
王都で最も有名な聖女候補のひとり。
レインの視線が、すっと細くなる。
彼女が歩くたび、白布の裾が揺れる。だが、その揺れが一拍だけ遅れている。風に吹かれたあと、ほんのわずか遅れて追いかけるように布が動くのだ。近くの旗も同じだった。水盤に落ちた雫の波紋も、ひどく小さな時差を帯びて広がっていく。
普通の人間なら気づかない。たとえ気づいても、見間違いだと思う。
だがレインは、これを知っている。
彼女の周囲でだけ起こる、世界の同期ずれ。神託が深く降りるときに起きる歪み。
「……またか」
小さく漏れた声は、自分にしか聞こえなかった。
セレスティアがふと顔を上げる。ほんの一瞬だけ、彼女の視線がこちらを掠めた。
その瞬間、レインの胸の奥で、ひどく古い痛みが動いた。
あの目を、何度見ただろう。
祈りの前に震える目を。誰にも見せない疲弊を押し隠した目を。助けを求めることすら諦めた目を。
セレスティアはすぐに視線を逸らし、一団は大聖堂の門をくぐっていく。
人々は憧れと敬意を乗せた声でその名を囁いた。
聖女候補。
救いの象徴。
祝福された娘。
レインは何も言わず、その背を見送った。
祝福、か。
その言葉ほど、彼には空虚に聞こえるものもなかった。
◇
大聖堂は王都の中心にそびえていた。
白い石で組まれた高い壁面。金で縁取られた巨大な扉。天へ伸びる尖塔。広場には刻印の儀に集まった若者たちが緊張した面持ちで並び、その家族や見物客が幾重にも取り巻いている。
神官たちが規律正しく立ち、聖歌隊の歌が高く響く。
誰もが、この日を人生の始まりだと信じている。
レインだけが、その祭壇の向こう側を見ていた。
大聖堂の奥、金の装飾に半ば隠れるように、古い壁画の痕跡が残っている。塗り重ねられ、削られ、もはや判別しづらいほど薄くなっているが、そこには確かに人影があった。
鎧姿の、英雄の輪郭。
だが顔だけが、意図的に削られている。
レインの背筋を、冷たいものが走った。
あれを知っている。
どの世界で見たのか、もう思い出せない。けれど、あの削られた顔を前にしたときの、言いようのない不快感だけは覚えている。
鐘が鳴った。
大聖堂の空気が張りつめる。
神官長が一歩前に出て、朗々と声を響かせる。だがその文言は、祈りというより報告のように整いすぎていた。
「これより刻印の儀を執り行う。神託は適性を認証し、役割を定め、諸君らの歩むべき道を示す」
適性を認証。役割を定める。
人の人生に向ける言葉としては、ひどく乾いている。
レインは、その言い回しを何度も聞いた。世界が違っても、戦争の有無が違っても、神託はいつも同じ調子で人間を振り分ける。
祝福の仮面を被った、選別の言葉。
列がゆっくりと前へ進み始めた。
レインは祭壇へ続く石段を見つめながら、静かに息を吐く。
また始まる、ではない。
これは、終わらせ損ねた続きだ。
あの空の裂け目も、崩れた王都も、砕けた指輪も、まだ過去にはなっていない。耳の奥には終焉の音が残ったままだ。自分だけが、まだあの終わりの中にいる。
ならば。
今度こそ、あそこまで行き着く前に壊すしかない。
神託も、役割も、選別も。
全部。
レインは薄く目を細めた。
前方では、白い衣のセレスティアが祭壇脇に立ち、祈りの準備をしている。その横顔は完璧に整っていて、ひどく壊れそうだった。
列がまた一歩進む。
レインの番が近づく。
神に選ばれる日。
誰もがそう呼ぶこの日を、彼は別の名で覚えていた。
――最初の切り捨てが始まる日。
鐘がもう一度鳴り響いた。
その音の向こうで、誰にも聞こえないはずの黒い獣の唸りを、レインは確かに聞いた気がした。




