第93話 破壊神の覚醒
地下五百メートルの巨大空洞。
時が止まったかのような絶対的な静寂は、赤黒い巨竜の瞼がわずかに震えたその瞬間に、永遠に破られた。
デストロイドラゴンの、虚無そのもののような赤い瞳が、俺たちを捉えた。
その瞬間。
俺の本能が、千七百年の長きにわたる生の中で、ただの一度も鳴らしたことのない最大級の警鐘を、魂の芯でけたたましく打ち鳴らした。
勝てないかもしれない。
それは、単なる強敵と対峙した際の武者震いとは全く異質の感覚だった。存在の根幹を揺さぶられるような、絶対的な死の予感。まるで、俺という生命の概念そのものが、目の前の存在によって否定され、消し去られようとしているかのような、根源的な恐怖。
骨の髄まで凍てつかせる、この純粋な「死」の恐怖を、俺は初めて知った。
目の前の存在は、俺がこれまで対峙してきたどんな敵とも、その次元が根本的に違う。
かつて世界を恐怖のどん底に陥れた魔王ゼノン。彼の力は確かに強大だったが、その根底には「世界を支配する」という歪んだ形であれ、明確な意志と欲望があった。意志があるからこそ、そこには隙が生まれ、対話の(たとえそれが戦いという形であれ)余地があった。
だが、こいつには何もない。
心も、魂も、痛みすらも感じていない。
ただ、数百年前の愚かな科学者たちによってプログラムされた「破壊」という絶対的な衝動だけが、その禍々しい巨体を動かしている、純粋な破壊の権化。それは生物ではなく、歩く天災。知性を持った世界の終わりそのものだった。
「……ヴァイスさん……、あれは……あれは、ダメだ……」
俺の背中で、アキラが恐怖に染まった声で、か細く呟いている。彼の腕に埋め込まれたインプラント・デバイスに接続されたエネルギー探知機は、もはや計測不能を意味するけたたましい警告音を、彼の聴覚野にだけ直接鳴らし続けているのだろう。その顔は蒼白を通り越し、土気色に変わっていた。
「……俺たちが戦ってきた、どんなものとも違う……。あれは、敵じゃない……ただの『災害』だ……!」
アキラの言葉を裏付けるように、デストロイドラゴンを包んでいたエネルギーの繭が、パチパチとプラズマの火花を散らしながら、急速に薄れていく。数百年という永い歳月をかけて蓄積された莫大なエネルギーが、覚醒した主の糧となり、その巨体へとみるみる吸収されていくのだ。
グポ、ゴポポ……と、まるで地獄の釜が煮え立つような音が、繭の消えゆく表面から響く。
やがて繭が完全に消え去り、その禍々しい巨体が、ついにそのおぞましい全貌を現した。
血のように赤黒く、ぬらりとした光沢を放つ鱗。それは生物的なぬめりと、金属的な硬質感を併せ持っていた。背中から長く伸びる尻尾の先まで、まるで死神の鎌のように鋭利な無数の棘が、自己防衛の本能を示すかのように逆立っている。関節部は装甲ではなく、むき出しのシリンダーと動力パイプが、まるでグロテスクな内臓のように脈打っていた。
そして、最も異様なのは、その胸の中央に埋め込まれている巨大なクリスタル状のコアだった。ドクン、ドクン、と邪悪な心臓のように不気味な赤い光を明滅させ、周囲の空間を歪ませるほどの重圧を放っている。
あれが、奴の動力源。そして、おそらく唯一の弱点。
デストロイドラゴンは、生まれたての赤子が世界を確かめるように、ゆっくりと、ぎこちなく手足を動かし、首を一振りした。ギチギチ、ギギ……と、長い眠りで錆び付いた機械的な関節音が、不気味に洞窟内へと反響する。
長い眠りからの覚醒が、完了してしまったのだ。
「ヴァイスさん……! に、逃げよう!」
我に返ったアキラが、俺の背中の棘に必死にしがみつき、絶叫した。
「……あんなものに、勝てるわけがない! エネルギー反応が桁違いすぎる! 探知機が焼き切れた! ……一旦退いて、軍に報告して、態勢を立て直すべきだ!」
彼の判断は、この上なく正しい。冷静で、合理的で、生存確率を最大限に高めるための最善手だ。
この閉鎖された地下空間で、何のデータもない未知の敵と戦うのは、あまりにも不利で、あまりにも無謀だ。それは戦いですらなく、ただの自殺行為に等しい。
わかっている。頭では、痛いほど理解している。
だが、俺の四本の足は、まるで大地に根を張ったかのように縫い付けられ、一歩も動かなかった。
逃げられない。
ここで俺が逃げれば、こいつは必ず地上に出る。
そして、あの哀れな研究者が遺した最後の言葉通り、この星の文明を、そこに生きる全ての生命を、脅威とみなして「リセット」するだろう。
俺が目覚めてから出会った、この千年後の世界。
最初は息苦しい鋼鉄の檻だと思った。だが、そこには確かに人々の営みがあり、希望があった。
タカギたちが必死に守ろうとしている都市も、ガストンやシルビアのような、憎まれ口を叩きながらも俺を案じてくれる仲間たちも、そして、千年の時を超えて、俺が愛したカイルやリリたちの子孫が築き上げた、この不器用で、けれど愛おしい世界も。
その全てが、等しく、無慈悲に破壊し尽くされる。
それだけは、絶対にさせられない。
俺は、この世界を守ると誓ったのだ。千年前も、五百年前も、そして今も。
その誓いを、自らの恐怖を理由に違えることなど、断じてできなかった。
『……アキラ。……お前だけ、逃げろ』
俺は、心の奥底から湧き上がる恐怖を理性で押し殺し、テレパシーで短く、しかし揺るぎない意志を込めて告げた。
『……ここを出て、タカギに伝えろ。……人類の持てる全ての兵器を、この場所に集中させろ、と。……オオトリが使おうとしていた、例の『フェニックス』とかいう切り札も含めてな。躊躇している暇はない』
「……え、でも通信機で……」
アキラが、最後の望みを託すように腕の端末を取り出そうとするが、そのスクリーンは激しいノイズに覆われ、砂嵐が映るだけで何の機能も果たしていなかった。デストロイドラゴンが放つ高密度のエネルギー粒子が、あらゆる電子機器を無力化するジャミングフィールドを形成しているのだ。
「……くそっ、やっぱりダメだ! こいつの放つ高密度のジャミングで、通信が完全に遮断されてる! ここからじゃ地上に届かない!」
『だろうな。……だから、お前が直接行くんだ。お前の足で、お前の口で、この危機を伝えるんだ』
その、あまりにも静かで、覚悟に満ちた俺の言葉に、アキラは全てを悟ったのだろう。彼の顔から血の気が引き、その瞳にみるみる涙が浮かび上がった。彼は、子供のように首を激しく横に振った。
「……な、何言ってんだよ! ヴァイスさん! あんたをここに一人残して、俺だけ逃げろってのか!?」
彼の声は、恐怖と怒りと、そして懇願がないまぜになって裏返っていた。
「そんなことできるわけないだろ! ……あんたは俺の相棒じゃないか! 俺はトレジャーハンターで、あんたは俺が見つけた最高の『宝』なんだぞ! 一緒に戦うか、一緒に逃げるか、どっちかだ! それ以外の選択肢なんて、あるわけない!」
『……だからこそだ、アキラ』
俺は、彼を振り返らなかった。振り返ってしまえば、この決意が揺らいでしまいそうだったからだ。ただ前方の、ゆっくりと動き出す赤い巨体を見据えたまま、言葉を続けた。
『……相棒だからこそ、信じて託すんだ。……俺は、お前を信じている。その知恵と、勇気と、そして何より、その諦めの悪いしぶとさをな。お前なら、必ず地上にたどり着き、タカギたちにこの危機を伝えられると。……そして、タカギたちも、最善の手を打ってくれると信じている』
「でも……! でも、それじゃあんたが!」
『……俺はお前の相棒で、お前は俺の相棒だ。違うか?』
「……っ、違わないけど……! だからこそ!」
『なら、行け』
俺の声は、もはや何の感情も乗らない、氷のように冷たい響きを帯びていた。自分自身に、そして彼に、これ以上の躊躇を許さないために。
『……これは、俺からお前に託す、最初の、そして最後の……『命令』だ』
俺は、残された魔力の一部を練り上げ、アキラの身体を優しく包み込む半透明の「風の繭」を瞬時に作り出した。それは、外部からの衝撃や岩盤の崩落から彼を守る、絶対的な風の盾。俺が彼にしてやれる、最後の贈り物だった。
「やめろ! ヴァイスさん! 解除しろ! 俺を一人にしないでくれ……!」
アキラが繭の内側から必死に叫び、拳で叩くが、風の結界はびくともしない。彼の悲痛な叫びが、俺の心をナイフのように抉る。
すまない、アキラ。
俺は心の中で、ただ一度だけ謝った。
『……達者でな、相棒。……お前と旅したこの数ヶ月、存外、楽しかったぞ』
俺は、彼に最後の言葉を送ると、俺たちが降りてきたリフトの竪穴――遥か頭上の暗い一点に向けて、風の魔力を解放し、その繭を弾丸のように撃ち出した。
「うわあああ! ヴァイスさぁぁぁぁん!!」
彼の悲痛な叫び声が、風の推進音と共に空洞内に響き渡り、やがて小さな残響となって闇の中へと吸い込まれていく。
俺の視界の端で、彼を乗せた光の球が、流れ星のように上昇していくのが見えた。
これでいい。
これで、心置きなく戦える。
アキラの気配が完全に消えた地下空洞に、再び静寂が戻る。
いや、静寂ではない。
ドクン、ドクン、という、目の前の破壊神のコアが脈打つ重低音だけが、まるで世界の終焉を告げるカウントダウンのように、俺の鼓膜を叩いていた。
俺は一人、ゆっくりと向き直った。
目の前には、完全に覚醒し、臨戦態勢に入ったデストロイドラゴンがいた。
恐怖は、もうない。
アキラを未来へ送り出した今、俺の心を満たしているのは、不思議なほどの静けさと、この世界を守り抜くという、ただ一つの純粋な使命感だけだった。
怒りでも、憎しみでもない。
これは、この星の生命を背負う守護者としての、聖なる戦いだ。
俺は竜の王として、侵略者をただ、屠る。
未来を繋ぐための、絶望的な時間稼ぎが、今、始まろうとしていた。




