第83話 翼の記憶
翌日。
俺はアキラを背中に乗せて、人工島に作られた全長三キロに及ぶ巨大な滑走路の端に立っていた。
周囲には、俺の飛行を観測するための最新鋭のレーダー、高速度カメラ、そしてあらゆる種類のセンサー機器がずらりと並べられている。
管制塔では、タカギをはじめとする軍の首脳陣や科学者たちが、固唾をのんでモニターを見つめていた。
「……風速、良好。視界、クリア。全システム、計測準備完了」
「いよいよですね、司令。神話の飛翔が、この目で見られるとは」
「ああ。……しっかりと目に焼き付けろ。これが伝説の力だ」
俺の背中の上では、アキラが興奮した声で叫んでいた。
まるで宇宙飛行士のような大仰な格好をした彼が、俺の背ビレをしっかりと掴み、計器の最終確認をしている。
「……準備はいいかい、ヴァイスさん! 俺の計器はオールグリーンだぜ!」
『……お前こそな。……振り落とされても知らんぞ』
俺は、懐かしいセリフを口にした。
千六百年前、魔王城へ向かう勇者カイルを乗せた時。
千年前、探検家リリを乗せた時。
俺の背中はいつだって、誰かの「想い」や「希望」を乗せて飛んでいた。
だが、今はただのデータ収集のためのフライトだ。世界を救う悲壮な覚悟も、大義名分もない。少しだけ、寂しい気もする。
けれど、背中に感じるアキラの震えるような体温と、彼のワクワクした鼓動が、俺に新しい時代の風を感じさせてくれた。
『――ヴァイス殿、離陸を許可する! いつでも行ってくれ!』
タカギからの許可が下りた。
俺は、巨大な翼にマナを込めた。
千年ぶりに、この身体の奥底に眠る「飛翔」の本能を完全に解き放つ。太い血管の中を、熱い血が奔流となって駆け巡る。
俺はコンクリートの大地を力強く蹴り、巨大な翼を一度、一気に羽ばたかせた。
バサァアアアアアアアアッッ!!
凄まじい暴風が滑走路を薙ぎ払い、俺の周囲に設置されていた観測機器のいくつかが、たまらずなぎ倒されて吹き飛んでいく。
「うわあっ!?」
「第3、第4センサーが吹き飛びました! まあいい、データは取れてる!」
科学者たちの悲鳴を置き去りにして、俺の巨体はまるで重力など最初から存在しないかのように、軽々と、そして弾丸のような速度で空へと舞い上がった。
「うおおおおおおっ! すっげええええ!!」
アキラの歓声と、地上の兵士たちのどよめきが、あっという間に遠ざかる。
俺は滑走路を蹴った勢いのまま、急角度で空へと上昇していく。
眼下に広がる、幾何学模様のように整然と並んだ鋼鉄の森。無数のビル群が、見る見るうちに小さくなり、まるで精巧なミニチュア模型のようになっていく。
やがて、都市の上空を蓋のように覆っていた、分厚い灰色のスモッグの層に突入した。視界が悪くなり、排気ガスと化学物質の混じった淀んだ空気が肌を撫でる。
「げほっ、げほっ……! やっぱり、この辺の空気はくせぇな……!」
アキラがマスク越しに咳き込む。
だが、それも一瞬のことだ。
俺はさらに推進力を上げ、分厚いスモッグの雲を力任せに突き破った。
――バッ! と、視界が開ける。
そこには、俺の知っている、どこまでも高く、澄み渡った青い空が広がっていた。
遮るもののない純粋な太陽の光が降り注ぎ、俺の純白の鱗を黄金色に煌びやかに輝かせる。下を見れば、汚れた灰色の雲海が眼下に広がっているが、ここは全くの別世界だ。
『……ああ、そうだ。これだ』
肺いっぱいに、清浄な薄い空気を吸い込む。
これこそが、俺の愛した世界だ。
「……ははっ……。きれいだ……。信じられないな……」
アキラが、息を呑んで呟いた。
「俺たちのあの息苦しい街の上に……ずっと、こんなきれいな空があったなんて……」
彼の瞳には、生まれて初めて見る「本当の空」の青さが、鮮烈に焼き付けられていた。
俺は喜びのあまり、思う存分大空を駆け巡った。
急上昇からの垂直降下、背面飛行、鋭いきりもみ回転。俺の翼は、千年の時を経ても、少しも衰えてはいなかった。
それどころか、長い眠りの間に蓄えられた膨大なマナによって、以前よりもさらに力強く、速く、鋭く大気を切り裂けるようになっていた。
グングンと加速する。
やがて、音の壁を突き破る衝撃波が、俺の遥か後方で炸裂した。
「うわわわわわっ! ヴァ、ヴァイスさん速すぎっ! 目が回るうぅぅ!」
アキラが情けない悲鳴を上げている。
本来なら、生身の人間が耐えられるG(重力加速度)ではない。だが、俺は無意識のうちに背中の周囲に風の結界を張り、彼にかかる空気抵抗と負荷を極限まで軽減していた。そうでなければ、彼はとっくに気絶しているか、首の骨が折れていただろう。
『……信じられん……!』
地上の管制塔で、モニターに表示される異常な数値を睨みつけていたタカギが呻いた。
『……現在、マッハ3を突破! まだ加速しています!』
『……上昇限界も計測不能! このままでは成層圏まで行く気か!? ……生物の限界を、遥かに超えているぞ……!』
科学者たちが次々と、悲鳴に近い歓喜の報告を上げる。
俺の飛行能力は、彼らが積み上げてきた科学の常識を、文字通り置き去りにしていたのだ。
俺は存分に空の散歩を楽しんだ後、満足してゆっくりと高度を下げ、夕暮れが迫る基地へと帰還した。
滑走路にふわりと音もなく降り立つと、そこには、俺が飛び立つ前とは全く違う、張り詰めたような空気が流れていた。
駆け寄ってきた兵士も、科学者たちも、そしてタカギ司令でさえも、俺を見る目が決定的に変わっていた。
それは、単なる珍しい古代生物や、強大な兵器を見る目ではない。
人智の及ばない絶対的な力を持つ、「超越者」を見る目。
深い畏怖。そして、圧倒的な力への、生物としての純粋な憧れ。
「……すごい……。本当に、神話の竜なんだな……」
「あんなのが本気で街で暴れたら、俺たちの軍隊なんて一瞬で……」
兵士たちが息を呑み、小声で囁き合っている。
彼らは、データという明確な数字を見せつけられて、完全に理解したのだ。
俺という存在は、彼らが管理や制御できるような、ちっぽけなものではないということを。
俺がその気になれば、いつでもこの鳥かごから飛び立ち、そしてこの世界そのものを破壊することすら可能なのだと。
俺と千年後の人類との力関係が、明確に、そして決定的に位置づけられた瞬間だった。
俺は彼らの管理下に「置かれている」のではない。
俺が、気まぐれで彼らの元に「いてやっている」のだ。その平和的な気まぐれが続く限りは。
俺は、翼に宿る千年の記憶と、身体に溢れる力を再確認し、静かな満足感に浸っていた。
背中から降りたアキラが、足をもつれさせてフラフラになりながらも、ヘルメットを脱いで満面の笑みで親指を立ててきた。
「……最ッ高だったぜ、ヴァイスさん! 俺、これを一生の自慢話にするよ!」
『ふん。これくらいの飛行でへばっているようでは、俺の相棒は務まらんぞ。鍛え直してやる』
俺は鼻で笑い、軽口を叩きながら、人工島を吹き抜ける心地よい風を全身で感じていた。




