第82話 退屈な日常と科学の挑戦
俺が統合平和維持軍の管理下……という名目の「賓客」として、この人工島の巨大格納庫で暮らすようになってから、数週間の月日が流れた。
防爆シャッターを半開きにすれば、そこからはいつでも灰色の海が見渡せる。無機質な鉄骨とコンクリートに囲まれた生活はお世辞にも自然豊かとは言えなかったが、息の詰まるようなビルの谷間よりはずっとマシだ。
何より、三食昼寝付きの隠居生活は、思いのほか悪くない。
「ヴァイスさん、今日のランチです。軍の補給部から回してもらいましたよ」
特務リエゾンという立派な肩書きをもらったアキラが、小型の運搬カートを運転して俺の顔の前にやってきた。荷台には、一辺がニメートルほどある巨大な半透明のゼリー状のブロックが積まれている。
『……またこれか』
「贅沢言わないでくださいよ。これでも軍の最新技術が詰まった『超高密度合成タンパク質ブロック』なんですから。栄養価だけは保証しますよ」
俺はため息をつきながら、その巨大なゼリーを一口でパクリと丸呑みした。
……うん、不味い。味付けのされていないゴムタイヤを噛んでいるような気分だ。
実のところ、今の俺は周囲の大気中に満ちるマナを鱗から呼吸していれば、食事をとらなくても生きていける。だが、ずっと口を動かさないのも口寂しいし、暇つぶしにはなるのだ。
「あんまり美味しくなさそうですね……。今度、俺のポケットマネーで、市場から本物の牛を何頭か丸ごと買ってきましょうか?」
『ほう、リエゾンの給料はそんなに良いのか?』
「いや、冗談です。破産します」
アキラが苦笑いして肩をすくめる。こういう気安いやり取りができるのも、こいつが相棒だからこそだ。
俺のここでの主な仕事……というか日課は、軍の科学者や歴史学者たちが抱く、度を越した好奇心を満たすための「調査」に協力することだった。
「ヴァイス殿! 本日は血液サンプルの採取と、鱗の硬度テストを行わせていただきます!」
白衣を着た主任科学者が、血走った目で十数人の助手たちを引き連れて格納庫に入ってきた。彼らの後ろには、フォークリフトで運ばれてくる巨大な計測機器や、物々しい医療用カートが続いている。
彼らは俺の巨体の周囲に、テキパキと機材をセッティングし始めた。俺の腕や足の太さに合わせた特注の固定用アームが組まれ、数台の高解像度スキャナーが俺の皮膚に向けられる。
「よし、スキャン開始。……脈拍、血圧、マナ濃度の基礎データは正常だ」
「では、第一フェーズ、血液の採取に入ります。今回は絶対に折れない、最新鋭のカーボンナノチューブ製の極太注射針を用意しました!」
主任科学者が、工事用のドリルのような巨大な注射器を両手で抱え、俺の前足へと近づいてくる。
俺は呆れながらも、大人しく前足を差し出してやった。科学者は俺の鱗のわずかな隙間、比較的皮膚が柔らかそうに見える関節部を狙い、渾身の体重をかけて針を突き立てた。
――ガキンッ!
「……また折れたァァァッ!?」
科学者が頭を抱えて床に崩れ落ちる。見事にへの字にひしゃげたカーボンナノチューブの針が、虚しく床に転がった。
「馬鹿な……! ダイヤモンドすら貫く硬度だぞ!? 皮膚の表面張力と密度が、現代の物理法則を完全に無視している……!」
彼らはその後も、医療用レーザーメスや超音波カッターなどを次々と持ち出し、数時間ほど交代で俺の皮膚と格闘した。だが、俺の鱗には傷一つ、煤一つ付かなかった。
最終的に見かねた俺が、自分の爪で少しだけ皮膚を引っ掻いて血を一滴滲ませてやると、彼らはそれを神の雫でも見るかのように、震える手でありがたがって試験管に収めていった。
「では、続いて第二フェーズ。装甲強度の限界テストに移行します!」
別の日は、格納庫の奥にある頑強な防爆テストエリアに連れ出され、装甲強度テストに付き合わされた。
「ヴァイス殿、少々強い衝撃を与えてもよろしいでしょうか?」
そう言って彼らがクレーンで持ち出してきたのは、対重装甲用の『電磁パイルバンカー(杭打ち機)』だった。都市防衛用の巨大兵器で、戦車の分厚い複合装甲すらも紙のように貫く代物らしい。
『……ふむ。手加減は無用だ』
俺が許可を出すと、科学者たちは分厚い防弾ガラスの奥にある制御室へと退避し、カウントダウンを始めた。
「出力120%に設定! 3、2、1……発射!」
ズドォォォォン!!
鼓膜を破るような轟音と青白いスパークと共に、極太の特殊合金製の鉄杭が、マッハの速度で俺の脇腹に直撃した。
ズガァァァンッ!!
さすがの俺も、その規格外の凄まじい衝撃には巨体をわずかに揺らされ、腹の底にズシリとした重い鈍痛が響いた。
直撃した箇所からパラパラと白い粉が舞い散る。だが、それ以上の貫通を許さず、鉄杭は限界を超えて根元から無惨にひしゃげ、ひん曲がって床に転がり落ちた。
濛々たる煙が晴れた後、俺の脇腹の鱗には、ついに一条の浅い傷跡が刻まれていた。
「……計測不能!? 装甲値がセンサーの限界を突破しています!」
「なんてこった……。都市防衛用のパイルバンカーを最大出力で撃ち込んで、やっと鱗に浅い傷一つつけられただけだというのか……!」
モニターに表示された真っ赤なエラー画面を見て、科学者たちが顎を外れんばかりに開けて驚愕している。歩く要塞、いや、息をする天災。それが彼らの俺に対する評価のようだった。
また、歴史学者たちの質問攻めも熱心だった。
彼らにとって、失われた「魔法時代」の真実は、何にも代えがたい宝だ。
俺が、古代の魔法体系の仕組みや、魔王軍との凄惨な戦い、そして人間とエルフやドワーフたちが肩を並べて笑い合っていた酒場の光景について語るたび、彼らは狂ったようにホログラムのメモを走らせ、時には感極まって涙を流していた。
「教科書の記述は、やはり一部の権力者によって捻じ曲げられていたのか……! 人間と亜人は、確かに共存し、強固な絆で結ばれていたんだ!」
「これは歴史学を根底から覆す、世紀の大発見ですよ……!」
俺はさながら、博物館の生きた展示品か、言葉を話すオーパーツのような扱いだった。
面倒くさいと思いながらも、俺はアキラを介して彼らの調査に大人しく付き合ってやった。彼らが採取した俺の血液や鱗のデータは、行き詰まっていたエーテル科学を飛躍的に進歩させる可能性を秘めているらしい。
それに、俺自身も彼らとの会話を通じて、この千年間の空白の歴史や、進化した科学技術について学ぶことができた。それは、奇妙な形での「文化交流」のようなもので、存外悪くない時間だった。
そんなある日のこと。
司令官のタカギが、数名の幕僚を引き連れて俺の格納庫を訪れた。
彼は真剣な面持ちで、アキラを通して俺に一つの依頼をしてきた。
「……ヴァイス殿。単刀直入にお願いする。……貴殿に一度、本気で空を飛んでもらいたい」
『……飛ぶ?』
「そうだ。……我々は、貴殿の飛行能力を正確なデータとして把握しておきたいのだ。……最高速度、上昇限界、旋回性能、そして高高度での生体反応などだ」
タカギは、警戒させないように手のひらを見せながら言葉を続ける。
「……もちろん、これは貴殿を軍事兵器として利用するためのデータ収集ではない。……あくまで、貴殿という規格外の存在を正しく理解し、我々が共存していくための、純粋な科学的調査だ」
その提案に、俺の心は静かに、しかし大きく躍った。
この数週間、いくら広い格納庫とはいえ、寝返りを打つのも気を使う生活には、いい加減身体が鈍り切っていたところだ。
千年ぶりに、この世界の空を、何の気兼ねもなく翼を広げて自由に飛べる。断る理由など、どこにもなかった。
フライトテストは翌日に決定した。
その日の午後から、アキラは俺の背中に乗るための準備に追われることになった。
軍の技術班が格納庫にやってきて、アキラの体型に合わせて特注された重厚な『高高度耐Gスーツ』と、酸素マスク付きのフルフェイスヘルメットのフィッティングが行われる。
「うわっ、重い……。これ、歩くだけでも一苦労ですよ」
真っ黒なスーツを着込んだアキラが、ロボットのようにぎこちない動きで歩き回る。
「我慢してくれ、アキラ君。ヴァイス殿の飛行速度と高度に生身で耐えるには、戦闘機パイロット以上の装備が必要なんだ」
技術者が、アキラの胸元に小型の生体センサーを取り付け、ヘルメットの通信テストを行う。
「テスト、テスト。こちらアキラ。感度良好です」
「よし、酸素供給システムも正常だ。万が一、ヴァイス殿の背中から振り落とされた時のために、パラシュートの展開コードは右腕にある。絶対に忘れるなよ」
その物々しい準備風景を見下ろしながら、俺は鼻を鳴らした。
『……大袈裟だな。俺が結界を張ってやるから、振り落とされる心配などないというのに』
「いやいや、ヴァイスさん! 油断は禁物ですよ。俺の命がかかってるんですから!」
アキラが必死の形相で叫ぶ。
リエゾンとしての初仕事が「竜の背中に乗って前人未到の飛行テストに付き合うこと」だとは、彼も夢にも思わなかっただろう。だが、その瞳の奥には、恐怖よりも未知の空へのロマンを求める、彼特有の好奇心が燃えていた。




