第70話 希望を託す翼
東の友人たちへの別れを済ませた俺は、この旅の本当の出発点であり、そして三十年間という時間を過ごした魂の安住の地、リンドブルムへと再び翼を向けた。
眼下に広がる景色は、どこまでも穏やかだった。
かつては土埃と悲鳴に包まれていたあの城外の荒野。そこには今、俺の血から芽吹いた白い花々を基点として作られた『竜涙の庭園』が広がっている。
夕陽を浴びて波打つ大庭園には、色とりどりの季節の花が咲き、その香りは数千メートルの上空を飛ぶ俺の元まで、優しい風に乗って届けられてくる。
庭園のちょうど中心部。
そこには、俺がいつも昼寝をしていた場所を石畳で整えた『守護者の広場』がある。
俺の帰還を予期していたのだろう。その広場には、俺との別れを惜しむために、数えきれないほどの人々が静かに集まっていた。
俺は大きく翼をしならせ、その広場の中心へとゆっくりと降り立った。
地上に近づくにつれ、集まった人々の顔がはっきりと見えてくる。
俺が降り立つ正面には、今の時代を支える指導者たちが並んで立っていた。
中央には、亡きアルフレッド王の跡を継いだ現リンドブルム国王。その隣には、東方の亜人連合から駆けつけた代表者たちの姿もある。さらにその周囲を囲むように、かつて俺の鱗を磨いてくれた、今ではすっかり腰の曲がった元教国兵の老人たち。そして、俺の背中で育ち、今は親となったかつての子供たちが、我が子を抱きかかえながら並んでいた。
そして。
着地するまさにその地点。最前列のど真ん中に、彼女は一人で立っていた。
リリだ。
エルロードの洞窟で俺を呼び覚ました、あの狐の少女。
あの日、俺を庇って呪いを受け、一生消えない痣を背負いながらも、今日までずっと俺の隣で共に歩んできてくれた一番の相棒。
彼女は、かつて俺が贈った純白のドレスの切れ端で作ったスカーフを、大切そうに首に巻いている。
美しい栗色の髪には白髪が混じっていたが、その瞳に宿る、未知の世界を夢見るような好奇心の輝きだけは、最初に出会ったあの日から何一つ変わっていなかった。
ズシン……。
最後の一歩を刻むようにして、俺は広場の中心に降り立った。
巻き起こった風が庭園の白い花びらを舞い上げる。
広場には、重く、そしてどこか温かい沈黙が流れた。
『……皆、本当に世話になったな』
俺は、集まった全ての人々に聞こえるように、穏やかなテレパシーを送った。
『我は、少し長い眠りにつくだけだ。死ぬわけではない。……次に目が覚めた時、お前たちの子孫がどんな世界を作っているか、今から楽しみにしているぞ』
群衆の中から、鼻をすする音が聞こえてくる。
かつて俺を「兵器」と恐れた者も、今はただ、友を送り出す寂しさに肩を震わせていた。
『……だから、そんな顔をするな。俺たちは、共に平和を勝ち取ったのだからな』
俺は、目の前に立つリリを見つめた。
彼女は、溢れそうになる涙をぐっと堪え、俺をしっかりと見返してくれた。
「……ヴァイス様。……本当に行ってしまわれるのですね」
彼女の声は微かに震えていたが、そこには相棒としての強い意志があった。
『ああ。……身体が次の時代を求めている。竜の宿命だ。……リリよ、お前が書いてくれた本、あれは最高だったぞ。お前が俺の隣にいてくれたから、俺は人間という種族をもう一度信じることができたんだ。感謝している』
「……そんな……。感謝するのは、わたくしのほうです……! あなたと出会って、わたくしの世界は、色鮮やかに輝き出したんですから……!」
リリは一歩踏み出し、俺の巨大な鼻先に、その温かい両手をそっと添えた。
「……約束ですよ、ヴァイス様。次にあなたが目覚めた時も、またわたくしのような探検家を見つけてください。そして、その子に思い切り自慢してやってください。……伝説の守護竜の隣には、リリ・フォックスという最高の相棒がいたんだぞって」
『……フッ、努力しよう。お前のようなお節介な奴が、また現れればの話だがな』
俺が鼻を鳴らすと、リリは泣きながらも、あの日と同じように可笑しそうに笑った。その笑顔が見られただけで、もう十分だった。
『……我は、いつまでもお前たちの空にいる。……風が吹く時、雲が流れる時、俺がお前たちを見守っていることを忘れるな。……俺たちは、いつも繋がっているのだ』
俺は彼女に、そして人々に最後の手向けを告げると、大きく、白銀の翼を広げた。
沈みゆく夕陽が、俺の鱗を黄金色に染めていく。
バサァッ……!
俺は大地を蹴り、空へと舞い上がった。
凄まじい風が、広場に集まった人々の髪を揺らす。
眼下で、リリが両手を高く掲げ、大きく手を振っているのが見えた。
「行ってらっしゃい! ヴァイス様! また会う日まで!」
彼女の声が、風に乗って俺の耳に届く。
ありがとう、リリ。
ありがとう、ボルガ、ルシル。
そして――ありがとう、カイル。俺をこの世界に繋ぎ止めてくれた、大切な友よ。
俺は、高度を上げながら、一度だけ天に向かって咆哮した。
グルオオオオオオオオオオオオッッ!!
それは威嚇でも怒りでもない。
この世界への感謝と、彼らが紡ぐ未来への祝福を込めた、魂の歌だった。




