第71話 悠久への帰還
燃えるような夕陽が、大陸の端から端までを赤銅色に染め上げていた。
俺はその光の中に溶け込むようにして、ただ一人、西の空へと翼を動かし続けていた。
眼下をゆっくりと流れていくのは、俺が仲間たちと共に守り、この三十年間、慈しむように見守ってきた世界の姿だ。
かつて教国の圧政に震えていた小国リンドブルム。そこには今、機構の象徴である青い旗が至る所ではためき、活気に満ちた人々の営みが街の灯りとなって輝き始めている。夕暮れの風に乗って、街のどこからか祭りの余韻を楽しむような楽器の音色が届いた気がした。
俺の血から芽吹いた白い花々が咲き誇る『竜涙の庭園』。その周囲に広がる黄金色の麦畑。
すべてが愛おしく、そして目も眩むほどに眩しかった。
かつては戦火に焼かれ、土埃と悲鳴だけが支配していたこの大地が、今はこんなにも穏やかに、幸せそうな息遣いをしている。
――ああ、これでもう、思い残すことはない。
俺はふっと肩の力を抜いた。
高度をさらに上げると、空気は急速に冷たくなり、肺の奥まで清涼なマナが満たされる。
人間たちの喧騒が遠ざかり、代わりに星々の瞬きが近づいてくる。この高い空こそが、俺という竜の本来の居場所なのだと、改めて実感する。
数時間の飛行の後、紫色の霞の向こうから、懐かしい稜線が黒い巨大なシルエットとなって姿を現した。
あの不器用な勇者カイルと出会った「始まりの場所」。
俺は山脈の懐深く、分厚い雲海の下にひっそりと隠された、あの巨大な洞窟へと狙いを定めた。
俺がここを飛び立ってから、もう三十年以上。
主を欠いていた洞窟の入り口は、年月を感じさせる分厚い蔦や苔に覆われていたが、俺が接近すると風が自ら渦を巻き、それらを優しくかき分けて、王の帰還を歓迎するかのように道を空けた。
ズシン……!!
大地を揺らして着地すると、かつてのワイバーンの巣の匂いと、土の冷たい香りが鼻をくすぐった。
俺はゆっくりと、その懐かしい暗闇の中へと歩みを進めた。
外の光を拒絶するような洞窟の奥は、高揚し、火照りきった俺の鱗を優しく冷ましてくれる。
さらに奥へ。
そこには、俺が初めてこの場所を見つけた時と何一つ変わらぬ静寂の中で、古代の神殿が佇んでいた。
壁面にびっしりと生い茂る発光苔が、淡い青白い光を放ち、崩れかけた荘厳な石柱や、古びた祭壇を幻想的に照らし出している。外の時間は激流のように流れても、この場所だけは、神の気まぐれによって切り取られたかのように、悠久の静寂が凍りついたまま残っていた。
ここは俺にとって、ただの寝ぐらではない。
五百年前、カイルの死を知って絶望のままに眠りにつき、そしてリリの手によって再び目覚めた、俺という竜の魂が還るべき、唯一無二の聖域だ。
俺は神殿の最も奥、ひときわ高い位置に鎮座する巨大な石の祭壇へと、最後の一歩を踏みしめるようにして歩み寄った。
かつて俺が、五百年の永い眠りについたその場所。
俺は冷たい石の上に、ゆっくりと巨大な巨体を横たえた。首を長く伸ばし、尾を身体に巻き付け、最もリラックスできる姿勢でとぐろを巻く。
石の冷たさが、身体の芯にある熱を吸い取っていく。それがなんとも心地よく、全身の強張った筋肉から、ようやく一本ずつ力が抜けていくのがわかった。
抗いがたい、甘く重い眠気が、深い霧のように俺の意識を優しく包み込み始めた。
重い瞼を閉じると、暗闇の中に、これまでの出来事が鮮やかな走馬灯となって蘇ってきた。
優しかった母の温もりと、最期の咆哮。「生きなさい」と託されたあの重い愛。
若き日のカイルの、あの向こう見ずで、太陽のように真っ直ぐな笑顔。共に焚き火を囲み、アップルパイの話をしたあの静かな夜。
豪快に笑いながら伝説の戦斧を振るったギルバートと、その誇りを受け継ぎ、俺の鱗を叩き割って友を救ってくれたボルガの逞しい背中。
森と世界を誰よりも愛し、命を懸けて未来への種を蒔いたルナミリアの清らかな眼差しと、彼女の涙を拭って立派な指導者へと成長したルシルの姿。
そして。
三十数年前、冷たい洞窟で震えながらも俺を呼び覚まし、一生消えない痣を背負ってまで俺の盾になろうとした、リリのあの金色の瞳。
――ああ、俺は、本当の意味で一人ではなかった。
ただの異形として恐れられ、孤独な怪物として終わるはずだった俺の生は、彼らとの出会いによって、想像もしなかったほど豊かで、鮮やかな色彩に彩られた。
彼らと過ごした時間は、竜の悠久の寿命からすれば、瞬きをするほどの短い一瞬に過ぎないのかもしれない。
だが、その一瞬の中にこそ、俺が生きてきた意味のすべてが詰まっていた。
悪くない竜生だった。
いや、最高に面白く、胸が震えるほどに誇らしい、最高の旅だった。
次に俺が目を覚ます時、世界はどんな姿になっているだろうか。
機構の旗の下で手を取り合った人間と亜人たちは、まだこの広い空の下で、平和に笑い合っているだろうか。
リリが書き記した「真実の英雄譚」は、風化することなく次の世代へと語り継がれているだろうか。
それとも、また人間たちは愚かな過ちを繰り返し、争いと憎しみの螺旋に身を投じているだろうか。
俺は、微かに鼻を鳴らした。
正直に言えば、どちらであっても構わない。
どんな未来が待っていようと、それもまた、俺たちが守り抜き、必死に繋いできた愛おしい世界の「続き」なのだ。
もし人間たちが再び道を見失うなら、その時はまた、誰かが俺という「導き」を求めて、この神殿の扉を叩くことだろう。
意識が、深い、深い時の海の底へと、ゆっくりと沈んでいく。
俺の巨大な心臓の鼓動が、一拍、また一拍と、そのテンポを落としていく。
ドクン……。
ドクン……。
やがてそれは、一年に一度しか打たない、大地のリズムと同調した悠久の鼓動へと変わる。
竜の眠りは、ただ時間が経てば覚めるようなものではない。
かつてリリが、命がけの探検の末に俺を見つけた時のように。
外部からの明確な刺激、誰かの強い「意志」、あるいは世界の理を根本から揺るがすような巨大な異変がない限り、俺はこのまま石となり、永遠の静寂を眠り続けることになるだろう。
それが、この世界の守護者として俺が受け入れた、聖なる契約であり、代償。
だが、俺の心には一点の曇りも、微塵の恐れもなかった。
もし、この世界が再び俺という「翼」を、俺という「盾」を必要とする時が来れば、運命は必ず俺を呼び覚ますはずだからだ。
その時まで、俺はここで、世界がより美しくなっていく「夢」を見続けるとしよう。
俺の身体はゆっくりと周囲の冷気と混ざり合い、鱗は石の質感を帯びていく。
神殿の苔が、俺の足を、翼を、優しく覆い隠していく。
風竜ヴァイスの第二の物語は、ここで静かに幕を下ろす。
彼の存在は、再び人々にとってのおとぎ話となり、古ぼけた伝説となり、そして誰もがその真実を忘れた遠い神話となっていく。
だが、風が吹く。
人々が空を見上げる限り、彼の翼の記憶は、魂のどこかに残り続ける。
次なる時代の、新たなる誰かが。
この神殿の重い、重い扉を再び開ける、その遥かなる未来の朝まで。
おやすみ、ヴァイス。
おやすみ、俺の大切な相棒たち。
……良い、夢を。
―――第二部・完―――
―――第三部・覚醒のサイバーパンク編へと続く――――
最後までお読みいただきありがとうございました!
これにて第二部『偽りの平和と伝説の再臨編』は完結となります。
第一部でカイルたちと共に魔王を倒し、一度眠りについたヴァイス。
第二部で
五百年後の時を経て目覚めた彼を待っていたのは英雄たちの思いが歪められ、種族同士が再び反目し合う「偽りの平和」
新しい相棒である狐獣人の少女リリ、そしてかつての戦友の意志を継ぐボルガやルシルたちと共に、ヴァイスが「歴史の真実」を取り戻し、力ではなく「対話」によって新しい平和を築き上げるまでを描きました。
三十年と言う人間にとっては長く、竜にとっては短い時間。
リリが綴った「真実の英雄譚」が教科書となり、かつての戦場が竜涙の庭園として人々の憩いの場となる…。
ヴァイスが最後に見届けたあの景色は、きっと五百年前にカイルと語り合った理想の姿だったと思います。
大切に思い、守り抜いた仲間たちが老いて先立っていく切なさと、それでも次の世代へ希望を託して再び眠りにつくヴァイスの姿に深く胸を打たれるものがありました。
さて、物語はここから、誰も予想しなかった未知の領域へと突入します。
第三部で、ヴァイスが次に目を覚ます時、かつて彼が守った平和はどうなったのか。リリやカイルこ物語は、未来でどのような形で残っているのか。
そして、神話の存在となった「白き風竜」が、新たな世界で何をもたらすのかーー。
全く新しいヴァイスの冒険が始まります。
少しの充電期間をいただいた後、【第三部】を連載する予定です。(1〜2日後)
ヴァイスと世界の運命を、ぜひ最後までお届けいただければ幸いです。
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それでは、また次の時代でお会いしましょう。
ーーー風竜ヴァイスの伝説はまだ終わらない




