第65話 残された傷跡
『真実の暁』による、平和の祭典への無差別襲撃。
後に歴史書に『朱の調印式』として刻まれることになるこの悲劇的なテロ事件は、俺の圧倒的な力による介入と、首謀者一味の一網打尽という形で、一応の幕を閉じた。
だが、彼らがリンドブルムの美しい街並みと、人々の心に深く刻み込んでいった爪痕は、あまりにも深く、そして見るに堪えないほど痛ましいものだった。
リリは、俺の生命力に満ちた血を飲まされたことで、奇跡的に一命を取り留めた。
しかし、『竜殺しの魔玉』が彼女の小さな身体に流し込んだ呪いは、完全に消え去ったわけではなかったのだ。
あのおぞましい、黒い荊の痣は、彼女の華奢な背中に、まるで消えない焼き印のようにくっきりと刻み込まれてしまっていた。
それだけではない。
呪いの後遺症として、彼女は時折、手足の先が氷のように冷たくなり、激しい痛みを伴って身体が麻痺し、数分間全く動けなくなるという発作を抱えることになってしまった。
事件から数週間が過ぎた、ある日の午後。
俺は、王城に設けられたリリの療養部屋の窓の外から、彼女の眠る姿を静かに見下ろしていた。
彼女のベッドの傍らには、エルフのルシルが付きっきりで座り、汗ばむ彼女の額を冷たい布で拭い、自らの固有マナを削りながら治癒魔法をかけ続けている。
「……ルシル。リリの具合はどうだ」
俺が窓越しに念話で低く語りかけると、ルシルはビクッと肩を震わせ、振り返った。
その目元には、連日の徹夜の看護による深い疲労の色が濃く刻まれていた。
「……ヴァイス様」
ルシルは、眠るリリを起こさないようにそっと立ち上がり、窓辺まで歩み寄って深々と頭を下げた。彼女は悔しそうに唇を強く噛み締めている。
「……申し訳ありません。私の力不足です。エルフの森の秘薬も、古代の治癒魔法も、全て試しました。ですが……あの魔玉の呪いは、あまりにも根深く、彼女の魂の奥底に絡みついて離れません」
『……治らない、というのか』
「魔玉が強引に吸い上げた生命力は、ヴァイス様の血によって補われ、肉体的な死は免れました。しかし、魔力回路が深刻なダメージを受けてしまったのです。……発作の頻度は少しずつ減ってきてはいますが、一生、この痛みを伴う麻痺と付き合っていかねばならないかもしれません」
『…………』
俺は言葉を失い、ただ眠るリリの青白い顔を見つめた。
ルシルは、絞り出すような声で続けた。
「彼女は……痛みに耐えながら、うなされるようにして、毎日、毎日、謝り続けているのです。……『私がもっと強ければ』『私が軽率に飛び出さなければ、ヴァイス様があんな悲しい、恐ろしい顔をすることもなかったのに』と」
『……馬鹿なことを。あいつが俺を庇う必要なんて、どこにもなかったんだ』
俺が奥歯を噛み締めながら吐き捨てると、ルシルは悲しげに首を振った。
「いいえ、ヴァイス様。彼女のその勇気ある行動は、間違いなく、彼女のあなた様への深い愛と、献身の証でした。……だからこそ、結果としてあなた様の逆鱗に触れ、怒りの引き金を引くきっかけとなり、事態を悪化させてしまったのではないかと、彼女は……自分自身を、決して許せずにいるのです」
自責の念が、発作の痛み以上に彼女の心を蝕んでいたのだ。
彼女は目を覚ましている時も、見舞いに来た俺に無理に作った笑顔を見せるだけで、一人になるとただ虚ろな目で、窓の外の青空をいつまでも眺めていることが多くなった。
活発で、好奇心に満ち溢れていた狐の獣人の少女の面影は薄れ、その小さな背中は、以前よりもずっと小さく、頼りなく、そして今にも消えてしまいそうに見えた。
被害は、リリ一人にとどまらなかった。
会議場や街の広場で、襲撃者の狂気の凶刃に倒れた犠牲者の数は、決して少なくはなかったのだ。
その中には、身を挺して要人を守ろうとした勇敢な騎士たちや、近隣の国から平和の調印式を祝いに来ていた使節団の者たち。そして、ただ祭りの熱気を楽しみに来ていただけの、何の罪もない多くの一般の民衆が含まれていた。
瓦礫の下からは、花束を握りしめたまま息絶えていた子供や、孫を庇うようにして倒れていた老人の遺体も発見されたという。
リンドブルムの王都は、歓喜の祝祭ムードから一転、街全体が喪服を着たかのような、深く、重い悲しみと喪失感に包まれた。
合同の葬儀が執り行われた日。
空は、まるで世界そのものが悲劇を嘆き、泣いているかのように、朝から冷たく、重い雨を降らせ続けていた。
王城前の広場には、数え切れないほどの白い棺が整然と並べられ、雨に濡れた遺族たちのすすり泣く声と、神官たちの悲痛な祈りの声だけが、灰色の静寂の中に響き渡っていた。
俺は、その葬儀の場に、直接姿を現すことはしなかった。
俺の存在そのものが、この悲劇の引き金になった一因であることは間違いないからだ。
『真実の暁』の狂信者たちは、俺という「偽りの平和の象徴」を否定し、俺に絶望を与えるために、わざわざこの日、この場所を選んでテロを起こしたのだ。
俺が遺族たちの前にのこのこと姿を現せば、彼らの悲しみをさらに深く抉るだけだろう。あるいは、行き場のない怒りと絶望の矛先が、俺に向けられるかもしれない。
俺はただ、王都から遠く離れた渓谷の、切り立った岩場の上から、冷たい雨に打たれながらその光景を見下ろしていた。
小さな命の灯火たちが、白い煙となって天に昇っていくのを、静かに、ただ静かに見送っていた。
(……守護竜、か)
俺は、雨に濡れる自分の巨大な爪を見つめ、心の中で自嘲した。
俺は一体、何を守れたというのだろうか。
大切な友であるリリには、一生消えない呪いの傷を負わせた。
罪なき人々を巻き込み、平和の象徴であるはずの式典を、血と悲鳴で汚してしまった。
俺の力は、魔王を倒し、軍隊を蹴散らすことはできても、人間の心に潜む悪意から、弱き者たちを守り切ることはできなかったのだ。
無力感が、雨水を含んだ鉛のように重く、俺の心にのしかかる。
雨が俺の硬い鱗を伝って頬を濡らしていくが、それがただの雨なのか、それとも俺自身の涙なのか、自分でもわからなかった。
そして、この『朱の調印式』事件は、命を奪っただけでなく、生き残った人々の心にも、目に見えない深い、致命的な傷跡を残していた。
ようやく芽生え始め、花開こうとしていた「人間と亜人の融和」という希望のムードに、決定的な冷や水を浴びせる、最悪の結果となってしまったのだ。
『真実の暁』の中心メンバーが、元教国の人間たち、それも聖騎士団の残党だったという事実は、亜人たちの心に、再び人間への根深い不信の種を蒔いてしまった。
「……やはり、人間という種族は信用できない。言葉では平和を謳いながら、裏ではいつでも我々の寝首を掻く準備をしているのだ」
「平和だなどと浮かれて、教国側の人間を街に入れた我らが愚かだったのだ。奴らは結局、我々亜人を皆殺しにしたいだけなのだ!」
そんな声が、アーベル亜人連合の議会の中で、再び公然と囁かれ始めた。
議長代行となったルシルたち穏健派がどれだけ「あれは一部の狂信者による過激派の暴走だ。人間の全てが敵ではない」と必死に説得しても、テロの恐怖に駆られた大衆の感情は簡単には収まらない。
「人間との早期の融和は危険すぎる」
「再び国境を封鎖すべきだ」
という強い慎重論と反発が、議会を二分する勢いで唱えられ始めていた。
一方、同盟側の人間たちもまた、亜人に対して複雑で、歪んだ感情を抱き始めていた。
あの時、俺を守ろうとして獣人の少女リリが盾となって倒れたという事実は、確かに多くの人間たちに亜人への同情と感謝を生んだ。
だが同時に、この事件の根源には「亜人との融和を快く思わない、急進的な人間たちが存在した」という、変えようのない事実がある。
人間たちの中にも、テロの恐怖からくる自己防衛の心理が働き始めていた。
「亜人たちと融和などと急いで進めなければ、こんな恐ろしいテロは起きなかったのではないか?」
「結局、考え方も寿命も違う種族同士が手を取り合うなど、土台無理な話だったんだ。自分たちの安全な生活を守るためには、やはり別々に、高い壁を隔てて暮らした方がいいのではないか?」
そんな後ろ向きな、諦めにも似た考えが、人々の心に暗い影を落とし始めていた。
街角で人間と亜人がすれ違う時、祭りの日に見せたような屈託のない笑顔はすっかり影を潜めた。互いに警戒するように視線を逸らし、関わりを避けるように足早に通り過ぎる光景が、日常になりつつあった。
せっかく同じテーブルにつき、手を取り合おうとした両者の心は、テロの恐怖と相互不信によって、再び遠く離れ離れになろうとしていた。
俺は、どうすればいいのかわからなかった。
俺が動けば動くほど、波紋が広がり、事態は悪化していくようにさえ思えた。
俺という規格外の存在がこの世界にいること、それ自体が、人々の対立を煽り、混乱を招く元凶なのではないか。
いっそまた、誰も知らない神殿の奥深くで、永い眠りについてしまった方が、この世界のためには良いのかもしれない。
そんな、弱気で逃避的な考えすら、冷たい雨の中で俺の頭をよぎっていた。
その夜。
俺が渓谷で一人、雨上がりの雲の隙間から覗く星空も見ずに、重い絶望の底に沈んでいると、遠くから、泥濘む道をザクッ、ザクッと力強く踏みしめる足音が近づいてきた。
ボルガだった。
彼の足取りは、いつもの豪快なものとは違い、どこか重く、疲労の色が滲んでいた。
それもそのはずだ。彼は事件後、亜人連合の議会とリンドブルムの王城を休む間もなく往復し、崩れかけた両者の関係を繋ぎ止めるために、文字通り泥まみれになって奔走していたのだから。
鎧は傷だらけで、立派な髭も泥で汚れている。
彼は俺の沈んだ顔を見るなり、何も言わず、俺の巨大な前足の横にある平らな岩に、どっかりと重い腰を下ろした。
そして、背負ってきた自身の背丈ほどもある巨大な木樽を地面に置き、その木の栓を太い指で豪快に引き抜くと、ラッパ飲みでぐびりと、音を立てて一口あおった。
「ぷはーっ! ……うめえな。雨上がりに飲む酒は格別だぜ」
彼は俺に慰めの言葉をかけるでもなく、ただ黙って酒を飲み、俺の隣で星空を見上げていた。
時折、口髭についた酒の雫を、無骨な手の甲で乱暴に拭う音がするだけだ。
だが、俺の隣に「友がいる」という確かな体温と、気を使わない飾らない空気感が、俺のささくれ立ち、凍りついていた心を、少しだけ癒してくれるのを感じていた。
しばらくして、彼がぽつりと、夜空に向かって呟いた。
「……ずいぶんと、へこんでるみてえだな、相棒」
『……別に。そんなことはない』
俺が強がって短く返すと、ボルガは鼻で笑った。
「嘘つけ。そのでけえ図体で、そんなこの世の終わりみたいなため息なんぞつかれたら、渓谷の山が崩れちまうぜ」
ボルガは俺の方を見ずに、星空を見上げたまま、静かな声で話し始めた。
「……うちの爺さん、ギルバートも、昔はよくお前さんみたいな顔をしてたそうだ」
『ギルバートが? あの豪快な男が、か?』
「ああ。……『何かを成し遂げるってのは、何かを失うことと同じだ』って、よく酒を飲みながらこぼしてたらしい」
ボルガの声は、いつもの荒々しい豪快さの中に、年長者としての深い慈しみと、戦士としての重みが込められていた。
「……何かを守ろうとすりゃあ、どうしても手が届かず、守れなかった何かが必ず出てくる。……全部の命を救って、全部うまくいくなんてこたあ、神様でも無理な話だってな」
『…………』
「爺さんも、魔王との戦いで多くの仲間を失った。そのたびに自分の無力さを呪って、泣いて、浴びるほど酒飲んで、暴れて……。それでも、翌日の朝には、欠けた斧を担いで、誰よりも早く先頭に立って歩き出したそうだ」
ボルガは酒樽を置き、ゆっくりと俺に向き直った。
その兜の奥の瞳は、どこまでも真っ直ぐで、岩のように揺るぎなく力強かった。
「……守れなかったもんを数えて下を向くより、今自分の手の中に残ってる『守れたもん』を強く抱きしめて、前に進むしかねえってな」
『……俺は、守護竜だぞ。守れなかったなどと、言い訳はしたくない』
「意地を張るな。お前さんだって、神様じゃねえんだ。血も流せば、心も痛む、ただの生き物だろうが」
ボルガは、俺の鼻先を太い指でドンと突いた。
「……それに、お前さんは一人じゃねえ。……そうだろ?」
『……』
「……お前が守れなかったもんは、俺たちが拾う。お前が背負いきれねえ重いもんは、俺たちが半分持ってやる。……そうやって、皆で支え合って進んでいくしかねえんじゃねえのか?」
彼はニヤリと笑い、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……五百年前、お前さんたちが、カイルや爺さんたちとそうしてきたようによ」
その不器用で、けれど何よりも温かい、友の言葉。
それは、五百年の時を超えて、カイルやギルバートから直接励まされているような気がした。
俺の心にかかっていた分厚く冷たい霧が、少しずつ、確実に晴れていくのを感じた。
そうだ。
俺はまた、一人で全てを抱え込み、自分の無力さに勝手に絶望していた。
俺には、仲間がいるのだ。
今は傷ついてベッドから動けないが、心までは折れていない、勇敢なリリ。
こうして疲労困憊の身体で、夜中に酒を持って駆けつけ、愚痴を聞いてくれるボルガ。
王城で必死に民を励まし、国を立て直そうとしているアルフレッド国王。
そして、森から世界を変えようと踏ん張っているエルフのルシル。
皆、同じ未来を目指し、同じ痛みを共有し、共に歩んでくれる仲間だ。
『……ありがとよ、ボルガ』
俺は、素直に礼を言った。声が少しだけ、震えていたかもしれない。
彼は「へっ」と照れくさそうに笑って、飲みかけの巨大な酒樽を、俺の鼻先に突きつけてきた。
「礼なんざいらねえ。……それより、一杯どうだ? まあ、お前さんのデカい身体が相手じゃ、一瞬でなくなっちまいそうだがな!」
「これはドワーフ秘伝の『火酒』だ。竜のクソ硬い喉でも、焼けるように熱いかもしれんぞ?」
『ふん、生意気な。もらおうか』
俺は前足で器用に樽を受け取り、中身を一気に喉の奥へ流し込んだ。
量は少ないが、カッと燃えるように熱い液体が胃の腑に落ち、冷たい雨で芯まで冷え切っていた身体を、一気に温めていく。
『ぶはっ!なんだこれは!強烈だな!』
「だろ!? これで明日も戦えるって寸法よ!」
俺たちは夜空の下で、声を上げて笑い合った。
残された傷跡はまだ生々しく痛む。
失われた命は、決して帰ってこない。
だが、俺たちはまた前を向いて歩き出せる。
何度倒れても、何度間違えても、そのたびに手を取り合って立ち上がればいいのだ。
一人ではない。仲間と共に。
笑い合う俺たちの頭上、夜明け前の澄んだ空に、一番星が静かに、そして力強く輝いていた。




