第64話 裁きの刻
俺の限界を突破した怒りが引き起こした魔力の衝撃波は、リンドブルムの王城の中庭を激しく揺さぶり、濛々(もうもう)とした土煙を巻き上げていた。
だが、風が土煙を払い、視界が晴れた後に広がっていた光景は、めちゃくちゃな物理的破壊の跡ではなかった。
俺は、怒りに我を忘れて全てを暴風で飲み込んでしまうその寸前。かつてアリア王女に、そして友であるカイルに教えられた「力のない普通の人々を、決して理不尽に傷つけない」という最後の理性が、かろうじて錨のように俺を繋ぎ止めていたのだ。
物理的な破壊エネルギーの代わりに、俺が放ったのは、俺という生物が持つ純粋で絶対的な「殺気」の波動だった。
それは、中庭にいたテロリストたちや、城壁の上に陣取っていた預言者の配下たちに向かって、ピンポイントで叩きつけられた。
「あ……がっ……!」
「息が……できな……」
強大な竜の本気の殺気をまともに浴びたテロリストたちは、目を見開き、口から泡を吹いて次々とその場に崩れ落ちた。物理的な怪我はないが、彼らの精神は恐怖のあまり完全にショートし、深い気絶状態へと陥ったのだ。
お祭りに集まっていた広場の人々や、会議場にいた各国の代表たちは、その殺気の「余波」と爆音に腰を抜かしてうずくまってはいたが、直接的な被害は奇跡的に免れていた。
ボルガの命懸けの機転と、俺の血によって、リリの命がなんとか助かった。
「……ふぅ。なんとか間に合ったか」
足元で、兜を血で汚したボルガが、安らかな寝息を立て始めたリリを見て、ドカッとその場に座り込み、深い安堵のため息をついた。
「無茶しやがって、竜の旦那。……だが、よく堪えたな。あのまま暴走してたら、王城ごとふっ飛んでたぜ」
『……すまん、ボルガ。助かった。……俺は、危うく全てを壊すところだった』
俺が本心から礼を言うと、ボルガはニヤリと笑って太い親指を立てた。
「気にするな。それがダチってもんだろ。……リリの嬢ちゃんは俺が見てる。あんたは、あのクソ野郎どもに、たっぷりと『お礼』をしてきな」
『……ああ。そうさせてもらう』
リリが助かったことへの深い安堵。
そして、その安堵の裏返しとして黒く湧き上がる、目の前の愚かで邪悪なテロリストたちへの、絶対的な処罰の意思。
俺は、彼らを殺さない。
殺して楽になど、絶対にさせてやるものか。死は、彼らにとって全ての罪から逃れるための、単なる「逃げ道」にしかならないからだ。
彼らには、自分たちが犯した罪の重さと、奪った命の尊さを、その身体に、その魂に刻み込み、一生をかけて泥にまみれながら背負って生きていってもらう。
それこそが、ただ怒りに任せて暴れる獣ではなく、この世界の「守護者」として俺が下す、唯一にして最大の「裁き」だった。
「ひ、ひいっ……! く、来るな……!」
吹き飛んだ城壁の上。俺の殺気を辛うじて耐え抜き、意識を保っていた預言者と、その少数の仲間たちが、俺の冷たい視線に見つめられ、ようやく自分たちがどんな状況にいるのかを理解して後ずさった。
先程までの、「俺たちこそが世界を変える」などと偉そうに言っていた熱狂は、今はもう跡形もなく消え失せている。
そこにあるのは、ただ死を怖がる小動物のような、原初的な恐怖だけだった。
「……て、撤収だ! 作戦は失敗した! 散開して逃げろ!」
預言者が金切り声を上げて叫び、彼らは蜘蛛の子を散らすように、我先にと瓦礫の隙間から逃げ出そうとした。
街の中に隠れ、暴れまわっていた残党たちも、王城のただならぬ異変に気づいて、慌てて路地裏へと姿を消そうとしている気配がする。
だが、遅い。
俺の目の前で、逃げられると思っているのか。
俺は、翼を羽ばたかせなかった。
ブレスを吐くこともしなかった。
ただ、静かに空を見上げ、この世界の全てを司る風の精霊たちへ、短く、絶対的な命令を下しただけだ。
『―――捕らえよ』
その一言で、リンドブルムの街を包む風のルールが変わった。
穏やかだったはずのそよ風が、急に鉛のように重くなり、まるで意思を持った巨大な透明の大蛇のようにうねり始めた。
ヒュオオオッ!
風は無数の手枷と足枷となって、逃げ惑うテロリストたちに襲いかかった。
路地裏の木箱の陰へ逃げ込んだ者、屋根を伝って走って逃げようとした者、その一人ひとりの手足を、風が正確に、そして容赦なく締め上げた。
「ぐわっ!?」
「な、なんだこれは!? 風が……巻き付いて……!」
「身体が、動かん! 離せ、離せぇ!」
彼らは、見えない鎖に縛られ、もがけばもがくほど強く締め付けられる風の檻に閉じ込められた。
そして、まるで大罪人が処刑台へと引かれていくように、風によって空高く宙吊りにされ、俺の目の前にある王城の中庭へと、ゆっくりと引き寄せられてきた。
街の中に潜み、無抵抗な民衆に刃を向けていた残党も、誰一人として逃れることはできなかった。蟻一匹逃さない、風の精霊による完璧な包囲網だ。
次々と空から運ばれ、王城の中庭に、まるで不要なゴミの山のように積み上げられていく。
『真実の暁』の主要なメンバーは、これで全てだった。
彼らが描いた、力による支配という歪んだ夢は、今、ここで完全に終わったのだ。
俺は、風の鎖に縛られ、地面に転がされている集団の中心へと、ゆっくりと歩み寄った。
ズシン、ズシンという俺の足音が響くたびに、彼らはビクッと体を震わせる。
そこには、あの不気味な鉄仮面をつけたリーダー、預言者が、恐怖で歯の根を鳴らしながらうずくまっていた。
「……さて、狂信者とやら」
俺は、恐怖に震えながらも虚勢を張ってこちらを睨みつけているその男の目の前に、巨大な顔を近づけた。
氷のように冷たい金色の瞳が、仮面の奥にある彼の濁った瞳を覗き込む。
「お前の言う、『真実』とやらを、もう一度、聞かせてもらおうか。……力こそが正義だと、闘争こそが真理だと言ったな?ならば、今の貴様の、その地に這いつくばった情けない姿は、何だ?」
「くっ……! 殺せ!」
預言者は、俺の瞳を睨みつけ、血の混じった唾を俺の足元に吐き捨てた。
「……我らは負けない!たとえここで俺たちが倒れようとも、我らの思いは、いずれ必ず誰かが受け継ぐ! この腐った偽善の世界を、いつか必ず綺麗にしてやる!」
まだ、夢を見ているのか。
その強がりが、恐怖で押し潰されそうな心を隠すための、薄っぺらい鎧であることなど、誰の目にも明らかだった。
俺は、巨大な前足の爪の先を、彼の鉄仮面の端に静かにひっかけた。
そして、まるで薄い紙を剥がすように、ゆっくりと、しかし人間には到底逆らえない力で、その仮面を無理やり剥ぎ取った。
カラン、と無骨な仮面が石畳に落ちて転がる。
その下に現れたのは、意外なほど、まだ若い……おそらく二十代半ばほどの、青年の顔だった。
(……なんだ。もっと年配の、権力欲にまみれた老獪な男かと思っていたが。……こんな若造だったのか)
俺は内心で少し驚いた。
その顔立ちは本来なら整っていたのだろうが、今は真っ青で、目元には慢性的な疲労を示す深いクマができている。
彼の瞳には、確かに狂ったような光が宿っている。だが、それ以上に、自分の無力さを悟ったことによる深い怯えと、社会から見捨てられた絶望の色が、色濃く浮かんでいた。
彼もまた、かつては希望を持っていた若者の一人だったのだろう。
平和な世界に適応できず、行き場のない不満を拗らせ、誰かに責任を押し付けることでしか、自分を保てなかった。
「……お前もまた、社会の歪みが生んだ、哀れな被害者の一人というわけか」
俺がポツリと言うと、青年の表情が、屈辱と激しい怒りに歪んだ。
「……黙れ! 化け物風情が! 同情などいらん! 高みから見下ろしている貴様ごときに、俺の何がわかる!」
「……同情ではない。哀れみだ」
俺は、静かに、そして全てのテロリストたちに聞こえるように告げた。
「……お前たちは、自分たちの弱さを社会のせいにして、破壊という楽な道に逃げただけだ。誰も救わず、ただ鬱憤を晴らすために、無関係な他人を傷つけた。……その罪は、万死に値するほどに重い」
俺は、捕らえられ、地面に転がっているテロリストたちをぐるりと見渡した。
彼らは武器を取り上げられてもなお、その身体の奥底に魔力や闘気を隠している。今は負けたふりをして、これを頼りに、いつかまた隙を見て悪さをしようと考えているのが、その目つきから透けて見えた。
ならば、まずはその「牙」を根こそぎ抜かねばならない。
「……お前たちから、『力』を奪う」
俺の宣言と共に、彼らを縛っていた風の性質が、ふっと変わった。
ただ身体を拘束していた風が、今度は彼らの皮膚を透過し、身体の内部、血管や魔力回路の中へと入り込んでいく。
俺は、風の精霊たちに命じ、彼らの身体に流れる魔力の通り道や、戦士としての闘気の源を、その根っこから、丁寧に、そして二度と修復できないように断ち切らせた。
プツン、プツンと、彼らの中の「強さの証」が切れる音がする。
「あ……ああ……!?」
「な、なんだ!? 力が……抜けていく……!?」
「俺の魔力が! 剣を握る力が……消えていく!」
彼らが、自分の唯一の自慢とし、他人を支配し傷つけるための道具としていた「戦うための力」が、まるで陽炎のようにその身体から消え失せていく。
彼らはもはや、剣を握る握力もなく、掌に小さな火を灯すことすらできない、ただの非力な、どこにでもいる普通の人間となったのだ。
力こそが正義だと信じていた彼らから、その力の全てを奪い去る。
それは、彼らにとって死ぬよりも辛い、戦士としての魂を殺されるような罰だった。
力を失い、ただの抜け殻のようになったテロリストたちは、絶望のあまりその場に崩れ落ちた。もはや、彼らに俺に逆らう気力も、逃げ出す体力も残されていなかった。
「……そして、お前たちには、生き恥を晒して償ってもらう」
俺がそう宣言した時、背後の王城の扉が開き、慌ただしい足音が近づいてきた。
乱入したテロリストの鎮圧を終え、大広間から急行してきたリンドブルム国王アルフレッドと、アーベル亜人連合の議長代行ルシル、そして数人の近衛騎士たちだった。
「ヴァイス様! ご無事ですか!」
アルフレッド王が、息を切らしながら俺の足元まで駆け寄ってくる。
その後ろから、ルシルが倒れているリリの元へ急ぎ、彼女の脈を確認してホッと胸を撫で下ろしているのが見えた。
「王よ。……騒がせてすまなかったな」
俺が声をかけると、アルフレッド王は顔に煤や血をつけながらも、深く頭を下げた。
「とんでもない。我々の警備の甘さが、このような悲劇を……。申し訳ありませんでした」
「……謝罪は後だ。それよりも、こいつらの処遇だが」
俺は、風で捕まえた預言者の青年を、まるで糸の切れた人形のように静かに彼らの前に下ろした。
『……アルフレッド王、ルシル、そしてボルガ。こいつらの身柄を、お前たちに預ける』
俺は念話で、三人のリーダーに語りかけた。
『殺すな。だが、決して許すな』
「……わかっております、ヴァイス様」
リンドブルム国王が、真剣な顔で深く頷いた。
彼は、力を失い地に伏す青年を、憎しみではなく、どこか深い悲しみを湛えた目で見下ろした。
「彼らをここで処刑すれば、それは新たな憎しみの種となり、第二、第三の『真実の暁』を生むことになるでしょう。我々は、この憎しみの連鎖を、ここで断ち切らねばなりません」
「その通りです」
エルフのルシルもまた、凛とした声で同意した。
「ですが、彼らの犯した罪は、あまりにも多くの血を流しました。相応の報いを受けていただかねば、犠牲者たちも決して浮かばれません」
『ああ。だからこそ、俺が「場所」を用意する』
俺は、東の空、遥か彼方……を顎で示した。
『こいつらには、この大陸で最も過酷な土地で、その罪を償うための「仕事」を与えてもらう』
俺が示したのは、かつての魔王城があった場所だ。
魔王ゼノンの死後、五百年の時が過ぎて毒気こそ消え去ったものの、大地から全ての栄養が奪われ、草木一本生えない「死の大地」となっている広大な荒野。
かつての魔王の魔力によって土壌が完全に死滅し、普通の人間が住むにはあまりにも過酷な環境だ。
『彼らには、武器の代わりにクワを持たせろ。その手で、死に絶えた荒野を耕し、岩を砕き、土を作り、新たな命を育む仕事をやらせるのだ』
俺の提案に、ボルガが目を丸くし、やがて「なるほどな」とニヤリと笑った。
「……壊すことしか知らなかったその手で、真逆の『創造』の苦しみと喜びを学ばせるってわけか。竜の旦那、あんた中々きつい罰を思いつくじゃねえか」
『……彼らが流した汗が、不毛の荒野に緑を取り戻し、彼らが植えた小さな苗木が、空に届くような大木となった時……。その時、初めて、彼らの罪は許されるだろう』
それは、ただ殺されるよりも、ある意味で死ぬよりも辛い罰かもしれない。
硬い岩盤と乾いた土を相手にした果てしない手作業は、彼らの命を削る行為だ。気の遠くなるような時間と、終わりが見えない重労働が彼らを待っている。
だが、それは同時に、彼らに与えられた、唯一の「やり直し」と「償い」の道でもあった。
自分たちが壊そうとした世界を、今度は自分たちの手で、泥にまみれて作り直す。
その過酷な作業の中で、彼らは命の大切さと、平和の重さを、嫌というほど学ぶことになるだろう。
預言者と呼ばれた青年も、他の者たちも、何も言えなかった。
ただ呆然と、涙を流しながら俺の言葉を聞いていた。
自分たちを殺すでもなく、ただ暗い牢屋に閉じ込めるでもない。
あまりにも大きくて、そしてあまりにも深いその裁きに、彼らは言い返す言葉すら見つけられなかったのだ。
彼らの瞳から、狂ったような色が消え、代わりに途方もない後悔の色が浮かび始めていた。
俺が下した裁き。
それは、憎しみの連鎖を断ち切り、罰を与えるだけでなく、未来へと繋がる、守護竜としての裁きだった。
こうして『真実の暁』によるテロ事件は、幕を閉じた。
彼らが残した傷跡は深かったが、同時にこの事件は大陸の民の心を、これまでにないほど一つにした。
平和は、ただ誰かから与えられるものではない。
それを脅かす影と戦い、そして皆で守り育てていくものなのだと。
人々はそのことを改めて、痛みを伴って学んだ。
俺の本当の役割は、ただ空から見守る守護者ではなく、時には厳しく道を示す導き手でもあるのかもしれない。
俺の旅はまだ続く。
この不完全で、愚かで、そしてどこまでも愛おしい世界と共に。




