第63話 逆鱗
俺の全身から解放された怒りの魔力は、もはや「風」などという生易しいものではなかった。
それは、純粋な破壊の衝動そのもの。
世界の理をねじ曲げるような、原初の混沌。
俺が咆哮するより先に、周囲の大気が、その絶対的で途方もないプレッシャーに耐えきれず、自壊するように爆ぜた。
ドドオオオオオン!!
不可視の衝撃波が、音速を超えて同心円状に広がり、王城の美しい中庭を、大理石の噴水も、緻密な彫刻も、全て等しく粉々に砕き散らした。
そして、何百年もの歴史を誇る分厚い城壁の一部を、まるで乾いた砂の城のように、跡形もなく吹き飛ばした。
街で暴れまわっていたテロリストたちも、王城で必死に応戦していた騎士たちも、そのあまりにも理不尽な力の奔流に巻き込まれ、敵も味方も関係なく、意識を失い地に伏す。
「……なっ、なんだこの魔力は……!?」
吹き飛んだ城壁の瓦礫の上に立ち、辛うじて直撃を免れた預言者と、その少数の配下たちが、凄まじい衝撃波になぎ倒されそうになりながら、驚愕の声を上げる。
「よ、預言者様!話が違います!『竜殺しの魔玉』を使えば、奴の魔力回路を封じて無力化できるはずでは!?」
「慌てるな! 見ろ、奴は動いていない!」
預言者は、強風に煽られるマントを必死に抑えながら、俺の姿を指差して叫んだ。
彼らは、俺がその場から一歩も動いていないのを見て、致命的な誤解をしていた。
「あの娘が盾になったことで効果が遅れているようだが、呪いは確かに竜とリンクしているはずだ! 奴が動けないのは、魔玉の呪いによって魔力が内部で暴走し、金縛りにあっている証拠だ!」
違う。
俺が動かないのは、動けば、この場にいる者たちを、王城ごと貴様らを消し飛ばしてしまうからだ。
俺は、今、自らの内に渦巻く破壊衝動を抑え込むのに、全ての精神力を使い果たしていたのだ。
だが、俺の我慢など知る由もない預言者は、鉄仮面の奥で歪んだ笑みを浮かべ、俺を見下ろして嘲笑った。
「……どうした、竜よ。……呪いの恐怖で、声も出んか? ククク……。伝説の聖獣も、地に堕ちればただの惨めなトカゲにすぎんな!」
その、無知で傲慢な嘲笑が、俺の怒りの、最後の引き金を完全に引いた。
『―――黙れ、下郎』
俺が放ったテレパシーは、もはや声ではなかった。
それは、この場に存在する全ての生命の、その精神を直接握り潰すかのような、純粋な殺意の波動だった。
バタバタバタッ……!
その波動をまともに浴びた預言者の周りにいた数人のテロリストが、悲鳴を上げる間もなく、白目をむき、口から魂が抜けたかのように泡を吹いて、城壁の瓦礫から崩れ落ちた。
彼らの精神は、その存在の根源から、恐怖によって完全に破壊されたのだ。
「……ば、馬鹿な……!?」
預言者は、信じられないという顔で、思わず後ずさった。鉄仮面の下の顔が、ようやく恐怖に歪んでいるのが、はっきりと気配でわかる。
「……な、ぜだ……!?これほどの魔力……呪いが、効いていないというのか……!?」
効いていないわけではない。
俺の魂も今、リリと繋がった絆を通して、確かにあの忌まわしい呪いの余波を感じている。だがそれは、魔玉による直接的な痛みではない。
目の前で、俺が守ると誓った大切な者が、自分の代わりに苦しんでいる。その光景が、俺の心臓を直接、氷の爪で鷲掴みにし、魂を引き裂くような激痛を与えているのだ。
だが、俺の怒りは。リリを傷つけられたことへの絶望的な怒りは、そんな魂の痛みなど、物の数ではないほどに、遥かに、遥かに凌駕していた。
俺は、巨大な前足の爪を、細心の注意を払って動かし、地に倒れるリリの小さな身体を、そっと掬い上げた。
彼女の身体は、まるで冬の日の石のように、氷のように冷たくなっている。
背中に張り付いた魔玉が、ドクンドクンと不快な音を立てて、彼女の生命力を貪っている。
だが、まだ、かろうじて息はあった。胸が、ほんのわずかに、頼りなげに上下している。
……助けられるかもしれない。
俺の血。
あのリンドブルムの攻城戦で、枯れた大地に奇跡の白い花を咲かせた、俺の生命力そのもの。あの一滴一滴に宿る、原初の生命の力。それさえあれば、この強力な呪いを相殺し、彼女の命を繋ぎ止められるかもしれない。
だが、どうやって?
俺の鱗は、この世界で最も硬い物質の一つだ。
人間の武器はもちろん、並大抵の魔法すら通さない、神が与えた絶対防御。
自らを傷つけ、血を流すことなど、今の俺にはできない。自分の爪で自分の腕を引き裂こうにも、硬度が同じで激しく弾かれるだけだ。
(……いや、一つだけ、方法がある)
俺の脳裏に、一つの、あまりにも無謀で、破壊的な覚悟が決まった。
外部から傷つけられないのなら、内部から壊すしかない。
俺は、リリをそっと地面に、中庭で唯一破壊を免れた、柔らかな芝生の上に横たえた。
そして俺は、天を仰いだ。
俺の喉の奥、その灼熱の魔力核が、ありえないほどのマナを収束させ、内側から、まるで新たな太陽が生まれようとしているかのように、眩い純白の輝きを放ち始める。
「……ま、まさか、自爆する気か!?」
預言者が、俺の異常な魔力膨張を察知し、意図を誤解して恐怖に歪んだ声で叫んだ。
違う。
俺は、俺自身の体内、その喉の奥で、極限まで圧縮した最強のブレスを、あえて炸裂させるつもりだった。
体外へ放出すれば山をも消し飛ばすエネルギーを、体内で暴発させる。
それは、俺の身体を、内側から破壊し尽くす、諸刃の剣。口腔内は焼け爛れ、内臓は破裂し、俺自身も、ただでは済まないだろう。最悪、命を落とすかもしれない。
だが、それしかない。
そうすれば、喉の奥の柔らかい部分が切れ、俺の血が、確実に溢れ出すはずだ。その血を、リリに飲ませれば……。
俺が、その身を犠牲にして、全ての力を解放しようとした、まさにその時。
―――一方、その数分前。
王城の大広間では、血みどろの激戦がようやく決着を迎えようとしていた。
「ハァッ!!」
エルフのルシルが放った不可視の風の刃が、最後に残っていたテロリストの杖を弾き飛ばす。
「オラァッ!! 大人しく寝てな!」
すかさずドワーフの戦士団長ボルガが、巨大な戦斧の「腹」を使って男を殴り飛ばし、壁に叩きつけて気絶させた。
これで、広間に乱入してきたテロリストたちは全て制圧された。
「……ふぅ。なんとか片付いたな」
ボルガが額の汗を拭いながら、戦斧を肩に担ぎ直す。
彼らの迅速な連携と、近衛騎士たちの奮闘により、アルフレッド国王をはじめとする各国の要人たちに死傷者は出ていなかった。
「皆、無事か!? 怪我人はいないか!」
アルフレッド国王が、息を切らしながらも力強い声で確認を取る。
「我々は無事です、陛下! ですが……外が!」
ルシルが、血の気の引いた顔で、粉々に吹き飛んだバルコニーの窓の外を指差した。
そこには、全身から怒りの波動を放ち、空を暗雲で覆い尽くさんばかりの殺気を立ち昇らせている、ヴァイスの巨大な姿があった。
そして、その足元に倒れている、純白のドレスを血と黒い呪いで汚した、リリの小さな身体も。
「……リリ!なんてことだ……あの子が竜の盾に……!」
アルフレッド王が悲痛な声を上げる。
ボルガの顔色が、一瞬にして険しいものに変わった。
彼は、ヴァイスの喉元が異常なまでに白く輝き始めているのを見て、竜が何をしようとしているのかを、その戦士としての直感と、かつて祖父から聞かされた話から瞬時に悟ったのだ。
「……いけねえ!あの馬鹿野郎、リリを助けるために、自分の身体を内側からぶっ壊して血を出そうとしてやがる!」
「なんですって!? そんなことをすれば、ヴァイス様ご自身が……!」
ルシルが悲鳴を上げる。
「ああ、命に関わる! ルシル、国王を頼む! 俺はあの馬鹿を止めに行く!」
ボルガはそう叫ぶや否や、崩れかけたバルコニーから中庭へと、弾丸のような速度で飛び降りていった。
「―――待て、ヴァイス!!」
中庭に響き渡ったのは、雷鳴のようなボルガの怒号だった。
俺の頭の中に、その懐かしくも力強い声が届いた。
彼は、泥と返り血にまみれながらも、その瞳には、かつてのギルバートと同じ、友を信じる揺るぎない光を宿して、俺の足元まで走ってきた。
『早まるな相棒! お前がそんな馬鹿な真似をして死んだら、リリが悲しむだろうが! 手はあんだよ!』
その声は、絶望の淵にいて、視野が狭くなっていた俺にとって、唯一の光に思えた。
『リリをこっちへ! そして、お前は少し身体を傾けて、あの「古傷」を俺に見せろ!』
『……古傷?』
ボルガの言葉に、俺はハッとした。
俺の白銀の鱗は、剣などの鋭利な「斬撃」に対してはダイヤモンドのごとき絶対の硬度を誇る。人間の魔法剣が何百本束になっても、かすり傷一つ付かない。
だが、その硬さゆえに「靭性(割れにくさ)」は低く、巨大な質量による「鈍器の打撃」には比較的弱いという物理的な弱点があった。
あのリンドブルムの攻城戦で、俺が盾となって受け続けた、投石機による数え切れないほどの巨大な岩の打撃。
その時についた無数の鱗の亀裂は、リリの手当てがあったとはいえ、竜の再生能力でもまだ完全には塞がりきっていなかったのだ。
ボルガの、迷いのない力強い言葉が、俺の怒りで沸騰していた思考に、わずかな冷静さを取り戻させた。
彼に、俺の鱗が砕けるのか。
だが、彼の武器は「戦斧」。斬撃の鋭さと、ハンマーのような極大の質量(打撃)を併せ持つ、今の俺の鱗を割るには最適の武器だ。
あの日、亜人連合の広場で、俺を信じてくれた、あの真っ直ぐな響き。
俺は彼を信じることにした。
喉の奥で輝いていた破壊的な光を、少しずつ、ゆっくりと鎮めていく。
そして、巨大な前足の爪で、そっとリリの体を再び掬い上げると、彼の足元に、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく横たえた。
俺は身体を少し捻り、投石機の岩を最も多く浴び、未だにヒビが深く残っている右の脇腹付近の鱗を、彼に向けて晒した。
「見てりゃわかる」
ボルガは、兜の下で汗を拭きながら、不敵に笑った。
「……感謝するぜ、竜の旦那。俺たちのリリを、守ってくれてな」
ボルガは、俺の赤黒く光る瞳を真っ直ぐに見つめ、ニヤリと笑うと、背負っていた巨大な戦斧を構えた。
その戦斧は、彼の一族に代々伝わる伝説の武具。聖なる金属ミスリルと、魔法を打ち破るアダマンタイトを、ドワーフの秘術で鍛え上げて作られた、一族の至宝『大地割り(グランドブレイカー)』。
かつて、ギルバートが振るい、魔王軍の巨大なゴーレムを粉砕したあの斧だ。
「……五百年前、我が爺さん、ギルバートがあんたの相棒、勇者カイルと誓ったそうだ」
ボルガは、斧を大きく、天高く振りかぶった。
その屈強な肉体が、ありえないほどに膨れ上がり、全身の筋肉が、黄金色の闘気によって激しく脈打っている。
「……もし、あの不器用な竜が、怒りで道を踏み外しそうになったら、この斧でぶん殴ってでも目を覚まさせてやれ、と!」
彼の言葉に、俺の心が震えた。
カイル。ギルバート。お前たちは……。
五百年前の約束が、今ここで果たされようとしている。
「……そしてもし、竜が友のために血を必要とするなら、この斧で、そのクソ硬い鱗を叩き割ってやれとな!」
ボルガは、大地が震えるほどの、凄まじい雄叫びを上げた。
「うおおおおおおおっ!! スキル発動!『竜鱗断ち(ドラゴンスレイヤー)』!!」
戦斧に、彼の生命力そのものである莫大な闘気が収束し、その刃が、太陽のように白く、極限の輝きを放つ。
かつて竜を殺すためだけに編み出されたその技が、今は、竜を、そしてその友を救うためだけに振るわれる。
そして彼は、俺の脇腹にある最も脆い古傷の亀裂、太い血管が走るそのただ一点に向かって、渾身の打撃を、全力で振り下ろした。
ドガァァァァァァァンッ!!
斬撃の甲高い音ではなく、巨大な岩石が砕けるような、凄まじい破砕音が響き渡った。
激しい火花が散り、俺の絶対防御である白銀の鱗が、古傷の亀裂を起点にして、ついに大きく砕け散った。
そこから、俺の、生命力に満ちた鮮血が、止めどなく流れ出した。
「……痛ってぇな、これ。爺さん、よくこんな硬いもん殴れたな」
ボルガはビリビリと痺れた手を振りながら、すぐに俺の血を、自らの兜を器代わりにして受け止めた。そして、急いでリリの口元へと運んでいく。
「……飲め、リリ!生きろ!お前は俺たちの、そしてコイツの大事な仲間だろうが!」
奇跡は、再び起こった。
俺の血を、その血の気のない唇から少しずつ流し込まれたリリの身体から、彼女を蝕んでいた黒い呪いのオーラが、まるで眩い光に浄化されるかのように、シュワシュワと音を立てて霧散していく。
リリの背中に張り付いていた魔玉が、俺の生命力に耐えきれずに、パキンと甲高い音を立てて砕け散った。
彼女の蒼白だった顔に、ゆっくりと温かい血の気が戻り、やがて、か細いながらも、安らかな寝息が聞こえ始めた。
……助かったのだ。
あの日、見知らぬ人間たちを守るために俺が負った名誉ある古傷が、回り回って、今、大切な友の命を救ったのだ。
俺は、その光景に、心の底から安堵し、そして、友であるボルガに、深い感謝の視線を送った。
俺は、また友に救われた。一人で抱え込み、怒りで暴走しかけた俺を、正しい道へと引き戻してくれた。
あの時、自爆を選んでいたら、俺はリリを救えたかもしれないが、俺自身は死に、リリを一生悲しませることになっただろう。
共に生きる道を示してくれたボルガに、俺は頭を垂れた。
そして。
俺の心は、リリの命が繋ぎ止められた安堵と共に、灼熱の怒りから解放され、絶対的な、氷のような静けさと、冷徹さを取り戻していた。
俺は、ゆっくりと、城壁の上にいる預言者たちに向き直った。
俺の瞳の色は、もう赤くはなかった。元の澄んだ青色に戻っていた。
だが、それは、以前の青色よりも、さらに冷たく、そして、底なしの深淵を思わせる、恐ろしい輝きを放っていた。
感情のない、絶対零度の瞳。
「……ひっ……」
預言者が、腰を抜かしてへたり込んだ。鉄仮面の下から、おびただしい冷や汗が流れているのがわかる。
彼らは理解したのだ。怒り狂う獣よりも、静かに裁きを下す神の方が、遥かに恐ろしいということを。
「……さてと」
俺は、静かに、そして全ての者の魂に、その言葉を刻み込むように、告げた。
「……お前たちには、もう、死ぬ権利すら与えん」
俺の、本当の裁きが、始まろうとしていた。




