第66話 死の大地と真実の種
ボルガとの夜の語らいによって、俺の心に立ち込めていた分厚い暗雲は、ようやく晴れ間を見せ始めていた。
自分が守れなかった命の重さに押し潰されるのではなく、今、自分の手の中にある命をしっかりと抱きしめ、仲間と共に前へ進む。
その覚悟が決まった時、俺の意識はふと、遥か東の彼方――俺が『真実の暁』のテロリストたちを追放した、あの過酷な荒野へと向いていた。
俺が彼らに下した裁き。
それは、五百年前から草木一本生えない「死の大地」を、彼ら自身の手で耕し、緑を取り戻させるというものだった。
魔力と戦士としての力を根こそぎ奪われた彼らが、あの過酷な環境でどうしているのか。俺は守護竜として、彼らの「罰」を見届ける義務がある。
俺は誰にも告げず、夜明け前の空へとひっそりと飛び立ち、光学迷彩を展開して大陸の東の果てへと向かった。
かつての魔王城ゼノギアスの跡地。
五百年前に魔王が討たれたあの日、空を覆っていた分厚い瘴気の雲は晴れ渡り、太陽の光がこの地に降り注ぐようになった。
だが、それは決して恵みの光ではなかった。
大地の栄養分は魔王の強大な魔力によって完全に死滅し、保水力を失った土壌は、遮るもののない容赦ない直射日光によって極限まで乾燥しきっていた。
ギラギラと肌を焼く白熱の太陽。ひび割れた赤茶けた岩盤が、地平線の彼方まで続く、文字通りの「死の大地」。
吹き荒れる熱風は喉を焼き、舞い上がる土埃が容赦なく視界を奪う。
その荒涼たる大地に、カン、カン、という乾いた金属音が、単調なリズムで響き渡っていた。
「……くそっ。また岩盤か……!」
泥と汗にまみれた粗末な麻の作業着を着た若い男が、硬い地面に弾き返されたツルハシを放り投げ、ひび割れた唇から毒づいた。
彼の手のひらは、何度もマメが潰れては裂け、赤黒い血と泥が混じり合って悲惨な状態になっている。
かつて、彼は純白の法衣の上に不気味な鉄仮面を被り、自らを『預言者』と名乗って、数多くの信者を熱狂の渦に巻き込んでいた。
本名を、アベルという。
ほんの数ヶ月前まで大陸を恐怖と混乱に陥れた過激派組織の絶対的な指導者は、今やかつてのカリスマ性の欠片もなく、ただの疲れ切った一人の非力な青年として、荒野の熱砂に膝をついていた。
「……こんな石っころばかりの死んだ土地に、クワを入れて種を蒔いて、一体何になるってんだ……!」
アベルは荒い息を吐きながら、しゃがみ込んで硬い土の塊を力任せに握りつぶした。
パラパラと崩れ落ちる乾いた土くれは、彼の今の心境そのものだった。
あの日、リンドブルムの王城で風竜ヴァイスによって全ての魔力と戦士としての力を奪われた彼らに与えられたのは、武器ではなく、無骨なクワとツルハシ、そして少しの種もみだけだった。
『この大地を耕し、緑を取り戻せ。……それが、お前たちの犯した罪への唯一の償いだ』
竜のその冷徹な言葉は、呪いのようにアベルの耳にこびりついて離れない。
最初は、彼も他のテロリストたちも、この理不尽な労働に激しく抵抗した。監視役として派遣されてきたドワーフやエルフの兵士たちに悪態をつき、作業をサボり、時には素手で反乱を起こそうとすらした。
だが、魔力を失った彼らの身体は、あまりにも無力だった。
ドワーフの強靭な腕力に軽く小突かれただけで地面に転がり、エルフの魔法によって容赦なく縛り上げられる。彼らは、自分たちがいかに「力」という下駄を履かされて威張っていただけの、脆い存在であるかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。
「……おい、アベル。水だ。少し飲め。倒れられたらこっちの作業まで遅れる」
傍らから、同じように泥だらけになった初老の男が、古びた革袋を差し出した。かつて『真実の暁』で彼の副官を務めていた、元聖騎士の男だ。
アベルは無言で革袋を受け取ると、中に残された生温かい濁った泥水を、まるで極上の美酒のように喉に流し込んだ。
「……すまない」
アベルが革袋を返すと、初老の男は隣に座り込み、陽炎の揺れる地平線を見つめた。
かつて彼らは、この若者を「預言者様」と呼び、絶対的な服従を誓っていた。力と恐怖で支配する組織だったからだ。
だが、全員が力を失い、同じように泥にまみれて太陽に焼かれる今、そこにはかつての主従関係はなく、ただ生き残るために支え合う「対等な人間」としての姿があった。
「……俺は、間違っていたのだろうか」
アベルは、血の滲む自分の手を見つめながら、ぽつりと呟いた。
その声には、かつて王城の中庭で吠えていたような傲慢さはなく、ただ迷子になった子供のような響きがあった。
「俺はただ……親父の誇りを取り戻したかっただけなんだ」
過酷な労働の中で意識が朦朧とするたび、アベルの脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇る。
彼の父親は、聖アルド教国の名もなき末端の騎士だった。
亜人との国境での小競り合いで片足を失い、傷病兵として除隊を余儀なくされた父。だが、教国は「戦えない兵士」には冷酷だった。
わずかな恩給はすぐに打ち切られ、一家はスラムへと追いやられた。父親は酒に溺れ、「俺は教国のために戦ったのに、なぜこんな目に遭わなければならないんだ」と呪詛を吐きながら、惨めに死んでいった。
残された幼いアベルは、泥水をすすりながら誓ったのだ。
『俺は、父さんのような負け犬にはならない。誰よりも強くなり、この国の中枢に上り詰めてやる。力だけが、この世界で自分を守る唯一の手段なのだ』と。
彼は血を吐くような努力を重ね、持ち前の魔力の才能を開花させ、ついに最年少で聖騎士団のエリート部隊に抜擢された。マルクスの右腕として、亜人討伐の最前線で武功を上げ、輝かしい未来が約束されているはずだった。
だが、その全てを、あの風竜がぶち壊したのだ。
リンドブルムの攻城戦での敗北。そして、竜がもたらした「平和協定」という名の生温かい時代。
戦争がなくなったことで、武勲を立てる場は失われ、彼のような「戦うことしか知らない者」の価値は暴落した。彼が必死に這い上がって掴み取った『力』は、平和な社会ではただの「危険な暴力」として忌み嫌われるようになった。
『ふざけるな。俺のこれまでの努力は、父さんの苦しみは、何だったんだ』
その行き場のない絶望と怒りが、彼を『真実の暁』の創設へと駆り立てた。
世界が俺を必要としないなら、俺を必要とする世界(戦乱)を、俺の手で作ってやる。
それが、預言者アベルの狂気の正体だった。
「……だが、結局俺は、何一つ守れなかった。親父の誇りどころか、自分自身の力すら奪われ、こうして泥を舐めている」
アベルは自嘲するように笑い、乾いた土を握りしめた。
「あの竜の言う通りだ。俺は自分の弱さを社会のせいにして、ただ他人のものを壊そうとしていただけの……哀れな子供だったんだ」
力を失い、過酷な自然の中で己の矮小さを思い知らされたことで、数ヶ月かけて、彼に取り憑いていた狂信の熱は完全に冷めきっていた。
残ったのは、激しい後悔と、自分が奪ってきた命の重さという、耐え難い罪の意識だけだ。
「……アベル」
初老の副官が、静かに口を開いた。
「俺たちには、もう剣を握る力はない。魔法も使えない。だが……この手は、まだ動く」
彼は、自らのマメだらけの手をアベルに見せた。
「あの竜は言った。この死の大地に緑を取り戻せば、罪は許されると。……最初は、俺たちを嬲り殺しにするための口実だと思っていた。だがな、アベル」
「なんだ?」
「……俺は最近、この土を耕すのが、少しだけ……嫌いじゃなくなってきたんだ」
副官は、日焼けした顔に、不器用な笑みを浮かべた。
「剣で誰かを斬る時、手には嫌な感触と、命が消える不気味な冷たさが残る。……だが、この重いクワを振るって土を掘り返す時は、違う。しんどいし、痛いが……自分の手で、何かが『始まっている』ような、確かな熱を感じるんだよ」
その言葉に、アベルはハッとして顔を上げた。
破壊することしか知らなかった彼らが、今、生まれて初めて「創造」という行為に向き合っているのだ。
「……おい! みんな! ちょっと来てくれ!!」
その時、少し離れた場所で土を耕していた若い元兵士が、ひっくり返ったような大声を上げた。
ただ事ではないその声に、アベルたちは慌てて立ち上がり、足をもつれさせながら彼のもとへ駆け寄った。
他のメンバーたちも、何事かとツルハシを放り出して集まってくる。
「どうした!? 岩盤でも崩れたか!」
アベルが息を切らして尋ねると、若い元兵士は、腰を抜かしたまま、震える指で、自らが先ほどまで耕していた足元の土を指差した。
「ち、違うんです……!これ……これを見てください!」
アベルは、彼が指差す先、赤茶けた乾いた土の塊に目を凝らした。
そして、信じられないものを見た。
―――緑色だ。
カチカチに干からびていた岩盤のような土。彼らが何ヶ月もかけてクワで砕き、遠くのオアシスから何往復もして泥水を運び、祈るようにして蒔いた種。
その無骨な土の隙間から。
ほんの数ミリほどの、小さく、か弱く、しかし間違いなく生きている『緑の双葉』が、ギラギラと照りつける太陽の光を求めて、懸命に顔を出していたのだ。
「……芽が……出た……」
アベルは、その場に両膝をついた。
五百年間、いかなる魔法を使っても生命が根付かなかった死の大地に。
魔力を奪われた、ただの非力な人間たちの、泥と汗と血の結晶が、ついに「新しい命」を生み出したのだ。
「う、嘘だろ……。本当に、生えてきたぞ……」
「俺たちが……俺たちの手で……」
集まった男たちが、その小さな命を囲み、まるで神の奇跡でも見るかのように息を呑む。
アベルは、震える両手を、その小さな緑の芽にそっと、触れないように近づけた。
なんて小さいのだろう。
自分がかつて、魔法一つで簡単に吹き飛ばし、奪ってきた命の数々。
それを、たった一つ、この小さな芽を生み出すために、これほどの時間と、これほどの苦痛と、これほどの思いが必要だったのか。
命を奪うのは一瞬だ。
だが、命を創り、育むことは、これほどまでに途方もない奇跡の連続なのだ。
「……あ、ああ……」
アベルの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、乾いた土に吸い込まれていった。
「……俺は……俺たちは……なんてことを……」
彼は、自分が『正義』の名の下に切り捨ててきた命の重さを、この時初めて、魂の底から理解した。
テロの犠牲になった人々にも、この小さな芽のように、懸命に生きた時間があり、彼らを愛し育んだ誰かの膨大な想いがあったはずだ。
それを、自分は身勝手な絶望で、いとも簡単に奪ってしまった。
「うおおおおおおおぉぉぉぉっ!!!」
アベルは、地に額を擦り付け、子供のように声を上げて泣き崩れた。
それは、過去の罪への痛切な懺悔であり、そして同時に、新しい自分へと生まれ変わるための、魂の産声だった。
彼の周りにいた副官も、若い兵士たちも、皆、ボロボロと涙を流し、互いの肩を抱き合いながら、その小さな命の芽生えを囲んで泣いていた。
彼らの心の中にあった憎しみと絶望の氷は、ギラギラと照りつける太陽の下で、今、完全に溶け去ったのだ。
上空の雲の隙間から、俺はその光景の全てを、静かに見届けていた。
俺の心に、温かい風が吹き抜けるのを感じた。
彼らはもう、大丈夫だ。
過酷な罰はまだ何十年と続くだろう。この荒野が森になるまでには、気の遠くなるような時間が必要だ。
だが、彼らの心はすでに救済の道を歩み始めている。彼らはもう二度と、誰かの命を理不尽に奪うようなことはしないだろう。
『……立派な仕事ぶりだ。頑張れよ、人間』
俺は誰にも聞こえない念話を短く残し、ゆっくりと翼を翻した。
帰ろう。俺の仲間たちが待つ、あの世界へ。
俺は風に乗りながら、下界で起きた小さな奇跡を反芻していた。
悲劇の跡地に、新しい命を育む。
破壊された場所にこそ、希望の種を蒔くことができる。
彼らが死の大地を耕したように、俺たちもまた、あの悲劇に見舞われたリンドブルムの地に、新しい希望の種を蒔くことができるのではないか。
テロによって吹き飛ばされた王城の中庭。
そして、俺の血から咲いた、あのリンドブルム城外の白い花畑。
(……そうだ。あそこを、ただの慰霊碑で終わらせてはいけない)
俺の頭の中に、ある明確なインスピレーションが閃いた。
あの場所を、誰もが心安らぎ、未来を語り合える『公園』にしよう。人間も亜人も関係なく、共に笑い合える、希望の象徴となるような場所に。
そして、あの自責の念に苦しむリリに、その公園作りを任せよう。
彼女ならきっと、その作業を通じて、己の心の傷を癒し、再び前を向いて歩き出せるはずだ。
俺は、確かな希望を胸に抱き、翼の羽ばたきを強めた。
この不完全で、愚かで、だけれども時に奇跡を起こす愛おしい世界を、もう少しだけ、信じてみようと思う。
目指すは、俺の小さな相棒が待つ、リンドブルムの王都だ。




