第61話 真実の暁
俺が見守る中で『未来創造会議』が実を結び、人間と亜人の両方を巻き込んで、大陸にかすかながらも真の融和の兆しが見え始めた、その頃。
東のアーベル亜人連合では、歴史的な変化が起きていた。
長年、亜人連合の最高評議会議長として強権を振るってきた獅子の獣人、レオニダスが、自らの老いと「新しい時代には新しい風が必要だ」という理由から、その座を退くことを表明したのだ。
そして、その後任となる『議長代行』として白羽の矢が立ったのは、なんとエルフの森から外界へと飛び出し、人間との対話の最前線に立ってきた若きエルフ、ルシルだった。
最初は「あのような若輩の、しかも閉鎖的だったエルフに何ができる」という反発もあったが、彼女の曾祖母エリアーナが遺した真実の日記、そして何よりも、ドワーフの戦士団長ボルガの後ろ盾があったことが決め手となった。
彼女は今、不器用ながらも種族間の融和の象徴として、その重責を懸命に果たそうと東奔西走している。
大陸を照らす希望の光は、少しずつ、しかし確実に強まっていた。
だが、その足元に落ちる影の部分では、行き場を失った不満の炎が、逆説的に、さらに激しく、そして歪んだ形で燃え上がっていた。
『真実の暁』。
彼らは、社会が対話によって徐々に安定を取り戻していくその穏やかな流れに、真っ向から逆行しようと暗躍していた。
その頃、リンドブルム王国の郊外。
会議で決定された大規模な街道整備の現場では、新しい事業が早くも形となり、活気が満ち溢れていた。
かつて戦場で槍を握り、敵の命を奪うことしか知らなかった男たちが、今は平和な未来へ続く道を作るためにツルハシを振るい、額に汗して働いている。
「おい、そっちの石、もう少し右だ!基礎が歪むぞ!」
「へいへい、わかってるよ!お前も口ばかり動かさずに手を動かせってんだ!」
休憩時間には、ドワーフの現場監督から配られた冷たい水を回し飲みし、彼らは泥にまみれた顔で笑い合っていた。
「いやあ、昨日の初めての給金でな、娘に新しい靴を買ってやったんだ。ボロボロの靴ばっかり履かせてたからな……。あいつ、飛び上がって喜んでさ。俺もまだまだ捨てたもんじゃないって思えたよ」
「いいな、俺も今夜は嫁に、市場で一番美味い肉でも買って帰るか。久しぶりのご馳走だ」
「違いねえ!剣を振るうしか能がないと思ってたが、こうやって自分の手で道を作って、家族を養える日が来るなんてな。あの会議で声を上げてくれた連中に感謝しなきゃな」
彼らの顔には、泥と汗がこびりついているが、その目は生き生きとしていた。
「自分は社会の役に立っている」
「自分の腕で家族を養える」
という労働の誇りが、彼らの曲がりかけていた背筋を真っ直ぐに伸ばしていたのだ。彼らはもう、過去の恨みや行き場のない怒りにしがみつく必要はなかった。
だが、そんな希望に満ちた光景を、遠く離れた物陰から、冷ややかに、そして憎悪に満ちた目で見つめる者たちがいた。
黒いローブを深く被った、二人の男だ。
「……見ろよ、あの情けない面を」
ローブの男の一人が、唾を吐き捨てるように言った。
「かつては誇り高き教国の兵士だった男が、今じゃ泥にまみれてドワーフの下働きだ。家族のために汗を流す?笑わせる。飼い慣らされた豚に成り下がっただけじゃないか」
「まったくだ。あの偽善者の竜がもたらした『平和』とやらが、戦士から牙を抜き、牙を研ぐことすら忘れさせた。……吐き気がする光景だ」
もう一人の男も、ギリッと歯ぎしりをして同意する。
彼ら、『真実の暁』の信奉者たちは、この社会の健全な変化をどうしても受け入れられなかった。
いや、彼らの歪んだ特権意識が、平和な世界で泥にまみれて働くことを「屈辱」として拒絶していたのだ。
彼らは、労働による救済など望んでいない。
彼らが心から望むのは、破壊と混沌。そして、その混沌の中で自分たちのような「力(暴力)ある者」だけが絶対的な支配者として君臨できる、血と鉄錆の匂いが満ちる戦乱の世の再来だったのだ。
彼らのアジトは、聖アルド教国の支配も、平和協定機構の目も届かない、大陸辺境の険しい山岳地帯に隠されていた。
かつて、初代聖騎士団が魔物討伐の前線基地として築いたという、古い石造りの砦。
その地下深く、松明の赤い灯りだけが頼りなげに揺らめく薄暗い広間には、黒いフード付きのローブを深く被った数百人の信者たちが、熱に浮かされたような瞳で集っていた。
その中心、山羊の髑髏が飾られた不気味な祭壇の前に、一人の男が立っていた。
無機質な鉄仮面で顔の上半分を隠しているが、その引き結ばれた口元からは、揺るぎない自信と傲慢さがうかがえる。
そして、その全身から放たれる異様なカリスマ性と、純粋な狂気は、この場にいる他の信者たちを完全に心酔させていた。
彼こそが、『真実の暁』の創設者にして、絶対的な指導者。自らを『預言者』と名乗る男だった。
「聞け、選ばれし我が同胞たちよ!」
預言者の声が、冷たい石壁に反響し、朗々と響き渡る。
「世界は、偽りの平和という甘い毒酒に酔いしれている!あの偽善者の竜が作り出した、生温い安寧に骨抜きにされ、戦士としての誇りをドブに捨てているのだ!」
その言葉に、信者たちが「そうだ!」「情けない奴らめ!」と、堰を切ったように呼応する。
彼らの声には、社会への理不尽な不満と、選ばれた自分たちだけが世界の真実を知っているのだという、歪んだ優越感が混じり合っていた。
「王も、商人も、そして今や、あの穢れた亜人どもまでが馴れ合い、手を取り合い、我らを忘れ去ろうとしている!かつて国のために戦う誇りを知っていた我らを、時代遅れの遺物として、社会の隅へと追いやろうとしているのだ!」
預言者は、芝居がかった大仰な仕草で両手を広げ、天を仰いだ。
「……だが、我らは屈しない!我らこそが、この腐りきった世界に、真実の光をもたらす『暁』なのだ!」
彼の声が、一段と熱を帯びる。
「この世界は、間違っている!弱者が強者に媚びへつらい、強者が弱者に情けをかける!そんな自然の摂理に反した歪んだ秩序は、我らの手で正されねばならないのだ!」
「力こそが秩序!闘争こそが、生命の輝きを増す神の試練!我らは、その原初の真理を、この惰眠を貪る世界に、再び取り戻す!」
彼の演説は、恐ろしいほどに巧みだった。
信者たちの心の中にある、最も暗く、最も脆い部分を的確に刺激する。社会への不満、富める者への嫉妬、そして、誰からも認められないことへの強烈な焦燥感。
彼は、それら全ての負の感情を、巧みな言葉で「偽りの平和への聖なる闘争」という、耳障りの良い大義名分へとすり替えていく。
信者たちは、自分たちが社会不適合者なのではなく、時代に先駆けた「真実の体現者」なのだと、心の底から信じ込み始めていた。
彼らの瞳には、狂信という名の危険な炎がメラメラと燃え盛っている。
そして、預言者は、聴衆の熱狂が最高潮に達したのを見計らって、声を張り上げた。
「……時は、来た!」
その一言に、堂内が水を打ったように静まり返る。松明の爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
「我らが聖戦の始まりを告げる、鐘を鳴らす時だ!この世界に、我らの存在を、その恐怖と共に知らしめるのだ!あの偽善者の竜に、絶対的な力の前には綺麗事など無力であるという真実を、思い出させてやるのだ!」
預言者は、信者たちの狂信的な眼差しを一身に浴びながら、その恐るべき計画の全貌を語り始めた。
「数日後、リンドブルムの王城にて、次回の『未来創造会議』が開催される。その会議の場には、機構とアーベル亜人連合の、主要な人物が全て一堂に会する」
彼の言葉は、まるで甘い蜜のように、信者たちの耳に染み込んでいく。
「リンドブルム国王アルフレッド、亜人連合の議長代行となった小生意気なエルフのルシル、目障りなドワーフのボルガ、そして、あの竜の側近気取りの獣人の小娘、リリ。……我らの敵対勢力の頭が、面白いように全て一箇所に揃うのだ」
「我らは、その会議の場を急襲し、各国の首脳陣を一網打尽にする」
そのあまりにも大胆で無謀な宣言に、信者たちの間から、ゴクリと息を呑む音が聞こえた。
「そして、その混乱に乗じて、大陸中に潜伏する我らの同胞が一斉に蜂起する。指導者を失った平和な世界など、脆い砂上の楼閣にすぎん。我らがその土台を突き崩し、再び、力による真の秩序を打ち立てるのだ!」
それは、世界を再び大戦の時代へと引き戻すための、狂気の計画だった。
彼らは、俺が仲間たちと共に、少しずつ築き上げてきた平和の全てを、一夜にして破壊し尽くそうとしていた。
「……だが、預言者様」
その時、信者の一人が、おずおずと手を挙げて尋ねた。
「……会議の場には、あのドラゴンもいるのでは……?」
その言葉に、熱狂に包まれていた堂内が一瞬、ざわついた。
いかに狂信的な彼らでも、五万の軍勢をたった一人で無力化した、ヴァイスの圧倒的な力への恐怖は、その魂の底に深く刻み込まれている。
あの巨大な竜が守護する王城を襲撃するなど、自殺行為に等しいのではないか。
しかし、預言者は、その問いを待っていたかのように、仮面の下で不敵に歪んだ笑みを浮かべた。
「案ずるな。……あの竜には、とっておきの『切り札』を用意してある」
彼はゆっくりと祭壇の奥へと進み、そこから重々しい一つの箱を取り出した。
厳重な封印が施された、黒曜石で作られたその箱。
預言者が呪文を唱えて箱を開けると、そこには、まるで生きているかのように脈打ち、邪悪な紫色の瘴気を放つ、不吉な宝玉が収められていた。
それは、ただ見るだけで魂が凍りつき、生命力が吸い取られるような、おぞましい気配を漂わせている。
「これは、我らが祖先……神の敵を討つために結成された『初代聖騎士団』が、その叡智の全てを結集して遺した、禁断の遺産」
預言者は、愛おしむようにその箱を撫でながら、声を潜めて言った。
「およそ七百年前……我らの偉大なる祖先は、この兵器を用いて、ある一頭の巨大な白竜を討ち取った。」
「……そう、今我らの障害となっている風竜ヴァイス、奴の『母親』を葬り去った、竜用最終兵器……『竜殺しの魔玉』だ」
その言葉に、信者たちはハッと息を呑んだ。
俺の母の命を奪い、俺に消えない心の傷を負わせた、あの忌まわしき禁忌の魔道具。
竜の魔力を内部から食い破り、その生命力を根こそぎ奪い取るという、おぞましい呪いの結晶。
あの夜、俺の母を討った騎士団こそが、聖アルド教国の武の象徴である「聖騎士団」のルーツであり、彼らはその製法と現物を、復讐の日のために、今日まで密かに受け継いでいたのだ。
「……あの竜は、慢心している」
預言者は、愉しげに魔玉を掲げた。紫色の不吉な光が、彼の仮面を不気味に照らし出す。
「……平和の守護者気取りで、もはや自分が狩られる存在であることなど、すっかり忘れ去っているだろう。その無防備な喉元に、我らは食らいつき、神話の終わりを告げてやるのだ。竜の時代は終わり、我ら人間の、力による真の時代が始まるのだ!」
「全ては、真実の暁のために!」
「「「全ては、真実の暁のために!!」」」
信者たちの狂信的なシュプレヒコールが、古い砦にこだました。
彼らの瞳には、もはや一抹の迷いもない。ただ破壊の陶酔だけがそこにあった。
俺が、仲間たちと共に、少しずつ、しかし着実に築き上げてきた平和な世界。
その土台を根こそぎ破壊しようとする邪悪な計画が、静かに、そして着実に進行していた。
俺も、リリも、そして未来創造会議に集う誰もが、その鋭い刃のような脅威が、自分たちのすぐ喉元まで迫っていることに、まだ気づいてはいなかった。




