第53話 動かぬ山の如く
聖騎士団長マルクスの狂気じみた号令の下、五万の教国軍から放たれた攻撃の第一波が、ついに俺の身体に叩きつけられた。
空を黒く染めるほどの無数の矢が、雨霰となって降り注ぐ。だが、それらは俺の鋼鉄の鱗に当たってカンカンと甲高い音を立てて無数に弾かれ、地面に虚しく突き刺さるだけだ。
並の魔道士たちが詠唱し放つ火球や氷槍も、俺が生まれながらに纏う高密度の魔力障壁の前では、少し熱いか冷たいシャワー程度の威力しか持たない。
問題は、対城塞用の攻城兵器である投石機が放つ、巨大な岩石だった。
ドゴッ! ズンッ! ガガガッ!
鈍く重い衝撃が、断続的に俺の背中と脇腹を襲う。
一撃一撃が、巨人が振るうハンマーで殴られるような重さだ。俺の頑強な鱗ですら、その運動エネルギーを完全には殺しきれず、衝撃波となって内臓にまで響いてくる。
肺が圧迫され、息が詰まる。胃の中身が逆流しそうな不快感。
だが、俺は歯を食いしばり、巨大な爪で大地を深く掴んで、一歩も退かなかった。
俺が少しでも退けば、後ろの城壁が完全に崩れ、そこにいるアルフレッド国王や兵士たちが死ぬ。
だから俺は、動かぬ山の如く、ただひたすらに耐え続ける。
「……な、なんてことだ……」
「ドラゴンが……我々の、盾になってくださっている……!」
俺の背後、城壁の上から、リンドブルム王国の兵士たちの、驚愕と感動の声が聞こえてくる。
彼らはもはや弓を放つことも忘れ、ただ涙を流して、自分たちを守るために傷つく俺の背中を見つめていた。
「怯むな! 撃ち続けろ! 休むことなく撃ち込めェッ!」
一方のマルクスは、馬上で剣を振り回し、顔を紅潮させて叫んでいる。
「いかに伝説の竜とて、反撃もせず、ただの的となればいずれは倒れる! 神の鉄槌を食らわせ続けろ! 粉微塵にしてくれるわ!」
攻撃は第二波、第三波と、容赦なく続いていく。
投石機から放たれた岩が、同じ箇所に何度も命中する。さすがに俺の身体にもダメージが蓄積し始めていた。
バキッ、という乾いた音がして、いくつかの白い鱗に亀裂が走り、砕け散る。そこから赤い血がじわりと滲み出し、純白の鱗を汚していく。
ズキンと走る痛みよりも、その執拗な攻撃に対する怒りが、俺の心を支配し始めていた。
(……こいつら全員、吹き飛ばしてやろうか)
そんな黒い衝動が、ふと頭をよぎる。
俺が本気で風のブレスを一発放てば、この五万の軍勢など、一瞬で消し炭にできる。投石機ごと兵士たちを空の彼方へ吹き飛ばすことなど、造作もないことだ。
彼らは俺を殺そうとしているのだ。正当防衛として、反撃する権利はあるはずだ。
だが、俺はそれをしなかった。
俺がここで感情に任せて彼らを皆殺しにすれば、それはマルクスと同じ、ただの「力を持つ虐殺者」になるだけだ。
それでは、憎しみの連鎖は断ち切れない。俺のこの血を流す無言の抵抗が、盲目になった彼らの目を覚まさせるきっかけになるはずだ。
しかし、教国軍の狂信は、俺が考えていた以上に深く、そして醜悪だった。
一方的な攻撃が始まってから、一時間近くが過ぎても、彼らの攻撃の手は一向に緩まない。それどころか、無抵抗な相手をいたぶることに愉悦を覚え始めている兵士さえいるようだった。
「よし! 奴の鱗が剥がれ始めたぞ! ここだ! 『あの兵器』を前線に引きずり出せ!」
マルクスが、忌々しげに舌打ちをして指示を出した。
陣地の後方から、数十人の兵士によって重々しく運ばれてきたのは、巨大な赤い砲身を持つ、大砲のような魔道具だった。
それは、教国が他国を威圧するために開発したとされる、範囲殲滅魔法兵器。
「聖獣の皮を被った悪魔め……。その鈍重な巨体ごと、後ろの異端の街もろとも灰にしてやる!」
マルクスは狂気に歪んだ笑顔で叫んだ。
その砲口に、周囲の空間が歪むほどの莫大な魔力がチャージされていく。
まずい。
あれは、俺の巨体すらも貫通し、背後の城壁や街にまで被害を及ぼす広範囲攻撃だ。俺の身体だけで全てを受け止めることはできない。
(……くそっ、ここまでか……!)
俺が、やむを得ず魔力障壁を最大に展開し、自らもブレスを放って相殺しようと決意した、その時だった。
「やめろおおおおおおおっ!!」
城壁の中から、悲鳴のような絶叫が響き渡った。
そして、信じられない光景が起こった。
ギギギィィ……と重い音を立てて、リンドブルム王国の城門が大きく開かれた。
中から雪崩を打って飛び出してきたのは、武装した兵士たちではない。
鍬を持った農民、エプロン姿の商人、そして、女や子供までもが、泥にまみれながら必死の形相で走り出てきたのだ。
「民よ、何をしている!? 戻れ!」
城壁の上でアルフレッド国王が制止するのも聞かず、彼らは俺の巨大な身体の前に、次々と立ち塞がった。
「撃つな! この方は我らの守り神だ!」
「私たちを助けてくれているのに、どうして背中に隠れて見殺しにできるものか!」
「死ぬときは、一緒だ!」
彼らは、震える両手を広げ、五万の軍勢と、今まさに火を噴こうとしている巨大な砲口の前に、自らの脆弱な肉体を盾にして立ちはだかったのだ。
「……お、お前たち……」
俺は、その小さな背中を見て、息を呑んだ。
彼らは恐怖に足の震えを止められないでいる。中には泣き出している子供もいる。それでも、かつてのカイルのように、絶対に一歩も退こうとはしなかった。
その光景は、攻撃の手を緩めなかった教国軍の兵士たちに、劇的な衝撃を与えた。
「……なんだ、あれは……」
「……異端の民たちが、悪魔であるはずの竜を……庇っている……?」
「武器も持たない、女子供まで……?」
最前線で殲滅魔法兵器のレバーを握っていた若い兵士が、ガタガタと震え出した。
「撃て!何を躊躇っている!異端どもをまとめて吹き飛ばせ!」
マルクスが怒鳴りつける。
「……だ、駄目です、隊長……!あそこには、子供も……武器を持たない女もいます! 我々は、悪魔を討つ聖騎士であって、無抵抗の民を焼き殺す虐殺者ではないはずだ!」
その若い兵士の悲痛な叫びが、静まり返った戦場の空気に波紋を広げた。
彼の疑問は、周囲にいた他の兵士たちの心にも、堰を切ったように伝染していく。
そうだ、おかしいじゃないか。
我らが崇める聖獣が、なぜ我らに牙を剥かず、血を流して無抵抗で耐えている?
そして、神の敵であるはずの異端の民が、なぜ自らの命を投げ出してまで、その竜を庇う?
自分たちのやっていることは本当に正しいのか?
神の御心に沿っているのか?
攻撃の手が、少しずつ、しかし確実に緩み始める。
「何をしている! 撃て! 撃たんか愚か者共め!」
マルクスが泡を飛ばして怒鳴りつけるが、兵士たちの動きは鈍い。絶対的だった命令と、彼らの心の奥底に残っていた良心の間で、ついに「疑念」という小さな種が芽を出したのだ。
そして、その種が花開く決定的な出来事が起こった。
俺の背後、城壁の上から、リンドブルム国王アルフレッドが、よろめきながらも前に進み出たのだ。
彼は腰の剣を抜き、それを城壁の下へと投げ捨てた。
彼は武器を捨て、両手を広げ、教国軍の兵士たちに向かって、老骨に鞭打って腹の底から叫んだ。
「……教国の兵士たちよ! もう、やめてくれ!」
その声は、魔法で拡声され、戦場全体に響き渡った。
「……我らは、戦いたくはない! 我らはただ、この地で静かに暮らしたいだけなのだ! ……見ろ! この偉大なる竜の姿を! そして、彼を守ろうとする我が民の姿を!」
国王の魂の叫び。
傷だらけになりながらも、決して倒れず、決して報復しない俺の巨大な姿。
そして、その俺を必死で守ろうとする、無力なはずの人間たち。
その光景の全てが、洗脳に近い信仰に縛られていた兵士たちの心を、強く、激しく揺さぶった。
「……そうだ……」
「……王の言う通りだ……俺たちは……」
「……俺たちは……間違っている……」
カシャン。
ついに、最前線にいた一人の兵士が、手にした槍を地面に落とした。
その音は波紋のように広がり、一人、また一人と連鎖していく。弓を下ろし、剣を捨て、砲台のレバーから手を離す。
五万の軍勢の攻撃が、完全に止んだ。
「……き、貴様らああああ! 何をしている! 命令違反だぞ! 神の敵に情けをかけるのか! 撃て! 撃ち殺せェェェッ!」
マルクスが髪を振り乱して絶叫するが、もはや彼の言葉に耳を貸す者はいなかった。
彼の狂信と傲慢は、俺の不動の覚悟の前に、そして民衆の勇気ある行動の前に、完全に敗れ去ったのだ。
戦いは、終わった。
一発のブレスも吐くことなく。一人の兵士も殺すことなく。
俺と、俺を信じてくれた人間たちの「耐え抜く力」が、この理不尽な戦いを終わらせたのだ。
俺はゆっくりと、軋む身体を起こした。
傷口からは血が流れていたが、その痛みは不思議と心地よかった。
何かを守り抜いた証、誇るべき勲章のようだったからだ。
俺は、呆然と立ち尽くし、わなわなと震えるマルクスを一瞥した。軽蔑の眼差しすら向けず、ただ「哀れな者」を見る目で。
そして、俺の前に立ちはだかってくれたリンドブルムの民たちに、低く、優しい喉鳴らしで感謝を伝えると、静かに翼を広げた。
風を巻き起こして、再び空へと舞い上がる。
リンドブルムの兵士たち、民衆たち、そして教国の兵士たちからも、「ありがとう……」「聖獣様万歳……」という感謝と懺悔の声が湧き上がるのを聞きながら。
俺がすべきことは終わった。
後の始末は、人間たちが自分たちで決めればいい。
俺が飛び去った後、戦場には奇妙な静寂と、そして一つの深い問いが残された。
本当の正義とは何か。
本当の強さとは何か。
その答えを、彼らはこれから自分たちの手で、痛みを伴いながら見つけていかなければならない。




