第49話 封印された記憶
ルシルという名の若きエルフから託されたのは、一冊の古びた革張りの手帳だった。
それは、俺の巨大な爪の先にかかれば、まるで薄い枯葉のように頼りなく、少しでも力の加減を間違えれば塵になってしまいそうなほど脆く見えた。
俺は呼吸を整え、己の指先に宿る剛力を極限まで殺すと、前足の爪の平を器用に使って、その表紙を慎重にめくった。
足元では、リリとボルガが息を呑み、固唾を飲んで俺の手元を見上げている。彼らの視線にもまた、歴史の闇、その最深部を覗き込むようなヒリヒリとした緊張が走っていた。
羊皮紙は長い歳月によってひどく変色し、インクは所々掠れていた。しかし、そこに走る流麗なエルフ文字は、五百年という途方もない時間を超えてなお、書き手の息遣いと切実な想いを鮮烈に伝えていた。
筆跡には、エルフ特有の凛とした美しさの中に、隠しきれない深い悲しみと無念が滲んでいる。
書き手の名は、エリアーナ。
あの大精霊使いルナミリアの影のように寄り添っていた、控えめだが芯の強い侍女だ。彼女はルナミリアを主としてだけでなく、姉妹のように慕い、魔王大戦という激動の時代をその傍らで生き抜いた証人だった。
日記の前半に綴られていたのは、かつて俺たちが共に駆け抜けた、泥にまみれながらも眩いばかりの光を放っていた時代の記録だった。
魔王の出現、種族を超えた連合軍の結成、そして五人の勇者と一頭の竜が紡いだ絆。
エリアーナの筆致は、ルナミリアがいかに勇敢であり、どれほど深く他種族との共存を願っていたかを、憧憬と誇りに満ちた言葉で謳い上げていた。
【今日、ルナミリア様は人間の勇者カイル様と焚き火を囲み、子供のように笑い合っておられた。寿命も文化も違う二人だが、魂の根底で響き合えば、心は必ず通じるのだと、あの方は目を細めて仰った】
【ドワーフの戦士ギルバート殿とは、今日も些細なことで口論になってしまった。けれど、戦場でお互いの背中を一切の迷いなく預け合う姿は、何よりも気高く美しい。種族の壁を超えた、絶対の信頼。あれこそが、私たちが夢見、目指すべき未来の縮図なのだ】
【森の外に広がる世界は、なんと彩りに満ちているのだろう。恐れることはない。世界はこんなにも広く、そして温かい】
文字の一つひとつから、希望の熱が伝わってくるようだった。
そうだ、俺たちは確かにそう信じていた。人間も、エルフも、ドワーフも、そして竜も。互いに手を取り合い、新しい時代を築けるのだと。
あの頃の張り詰めた空気、焚き火の爆ぜる音、そしてルナミリアの鈴を転がすような笑い声までもが、昨日のことのように鮮明に思い出される。
だが、ページが進むにつれ、その筆致は急速に重く、暗い影を帯び始めていく。
魔王大戦が終結し、生き残った英雄たちがそれぞれの故郷へ凱旋した記述を境に、日記は「希望」から「絶望の記録」へと変貌していった。
【大戦は終わった。けれど、この森に真の平和は訪れなかった】
次のページをめくろうとした俺の指先が、わずかに震えた。
それは物理的な本の重さのせいではない。そこに記された言葉が放つ、冷たく、あまりにも救いのない怨嗟の念に触れたからだ。
【大戦で、あまりにも多くの同胞を失いすぎた。エルフの森は、かつてない深い悲しみの霧に包まれている。……そして、その悲嘆の矛先は、魔王軍という明確な敵を失った今、あろうことか「他種族との関わり」そのものへと向けられ始めている】
【長老会の声が、日増しに大きくなっていく。「人間などと手を組むから穢れたのだ」「ドワーフの蛮勇に付き合ったせいで、戦火が拡大し、被害が増えたのだ」と。……悲しみは容易に憎しみへと形を変え、森の民の心を蝕んでいく】
俺の胸の奥が、物理的な痛みを伴って締め付けられた。
共通の敵を失った時、傷ついた人々は自らの痛みを癒やすための生贄を求める。自分たちの不幸の原因を、自分たち以外の「異物」に押し付けることで、どうにか心の平穏を保とうとするのだ。
それは、愚かで寿命の短い人間の専売特許だと思っていた。だが、長命で賢明とされるエルフでさえ、喪失という巨大な闇の前では等しく脆く、迷いやすい生き物だったということか。
【ルナミリア様は、ひどく心を痛めておられた。連日長老会へ足を運び、再び閉ざされようとする扉をこじ開けようと、各種族との融和と共存の必要性を説き続けていた。……だが、ああ、なんということだろう。そのお身体は、魔王軍との最終決戦で受けた「魂の呪い」に、既に深く、深く蝕まれていたのだ……】
呪い?
俺は、思考が停止するのを感じた。
カッと目を見開き、その単語を凝視する。
ルナミリアは、天寿を全うしたのではなかったのか? 大戦の後の別れの時、彼女は穏やかな笑顔で「また会いましょう」と言ってくれたではないか。あの時、彼女の命の灯火は既に尽きかけていたというのか?
なぜ、彼女だけが呪いを?
俺の脳裏に、魔王城の手前、『死の渓谷』での光景がフラッシュバックした。
そうだ。あの時、俺とカイルを先へ進ませるため、ルナミリアとギルバートはたった二人で、死霊魔術師ネクロスや巨大な多頭蛇といった絶望的な敵を足止めするために残ったのだ。
彼女はギルバートを、そして後方の兵士たちを守るために、ネクロスが放つおぞましい魔法の数々を、自らの身を盾にして真っ向から受け止めていたはずだ。
魔王城が崩壊した後、ボロボロになりながらも「少し魔力を使っちゃったわ」と笑っていたが……あれは、単なる疲労などではなかったのだ。
俺の動揺を知る由もなく、日記は残酷な真実を淡々と、しかし血を吐くような無念さを伴って告げていた。
魔王大戦の終結から、わずか数年後のこと。
ルナミリアは、死の渓谷での死闘の最中に、仲間を庇って受けたその一撃……肉体ではなく魂そのものを緩慢に腐らせていく死霊の「死の呪い」によって、ついにその命を散らせたのだという。
彼女はその耐え難い苦痛を、誰にも、俺やカイルにさえも、決して打ち明けることはなかった。
周囲に心配をかけまいと、そして「他種族との関わりのせいで呪われた」と排斥派の長老たちに口実を与えまいと、最期の瞬間まで痛みを笑顔の裏に隠し、平和の尊さを説き続けていたのだ。
誰にも真実を語れず、看取られることもなく、孤独な寝室で、静かに息を引き取った彼女の姿を想像し、俺は奥歯が砕けるほどに噛み締めた。
あの別れ際の笑顔は、命を削って灯した最後の光だったのか。
なぜ俺は、あの時彼女の痛みに気づいてやれなかったのだ。
そして、彼女の死を、絶好の政治的機会と捉えたハイエナたちがいた。
変化を恐れ、森の純潔という名の停滞を守ろうとする、排斥主義の長老たちだ。
彼らは、森の実権を完全に掌握するために、英雄の死さえも自らのどす黒い思想の道具として利用したのだ。
【長老会は、ルナミリア様の死因を完全に偽った。「他種族との接触による穢れ」が原因の「原因不明の衰弱死」であると公表したのだ】
【彼らは声高に叫んだ。「外の世界との関わりは、我ら高潔なエルフを汚し、弱らせ、滅びへと導く猛毒である」と。そうして、歪んだ教義を作り上げ、民の恐怖を煽った】
インクの激しい滲みは、エリアーナが流した涙の跡だろうか。文字が乱れ、怒りに震えているのがわかる。
【彼らは恐れたのだ。ルナミリア様が命を懸けて築こうとした、共存という新しい歴史を。自分たちの権威を脅かす、輝かしい「変革」の記憶を】
【全ての公式記録は改ざんされ、焚書された。大戦の真実を記した書物は禁書となり、我ら真実を知る者は、あるいは追放され、あるいは闇に葬られ、固く口を封じられた。……私は無力だ。あまりにも無力だ】
日記の最後のページには、エリアーナの悲痛な叫びが、祈りのように綴られていた。
【……未来の誰かよ、どうかこの偽りの沈黙を破ってほしい。
ルナミリア様の本当の願いを、あの温かな笑顔を、思い出して。
どうか、この閉ざされた森に、再び本当の光が訪れますように…… 】
俺は静かに、日記を閉じた。
パタン、という乾いた音が、森の静寂に吸い込まれていく。
全てを理解した。この五百年の空白が意味するものを。
エルフの森の、長寿ゆえの悲劇。
彼らは過去の辛い記憶から目を背けるために、自らその歴史に蓋をした。そして、五百年という長すぎる時間は、その偽りの歴史を揺るぎない「真実」として、森の木々のように深く根付かせてしまったのだ。
「……これが、真実か」
足元から、絞り出すような声が聞こえた。
見れば、ボルガが悔しそうに歯を食いしばり、鉄の拳を地面に叩きつけんばかりに力強く握りしめている。その目には、ドワーフの戦士としての烈火のような義憤が燃えていた。
「なんという……なんという冒涜だ! 英雄の死を、己が保身と権力のために利用するとは!」
「……ルナミリア様……。そんな、独りで……どれほど痛くて、寂しかったでしょうに……」
リリは両手で顔を覆い、指の隙間から大粒の涙をこぼしていた。彼女の優しい心は、ルナミリアの孤独な最期に寄り添い、震えている。
俺の胸の内にも、かつての友を失った喪失感が、五百年の時を超えて鮮烈な痛みとなり蘇っていた。
だが、それ以上に激流のように湧き上がってくる感情がある。
それは、長老たちへの冷たく、底なしの怒りだ。
ルナミリアの想いを踏みにじり、友の死すら政治の道具とし、偽りの平穏というぬるま湯に安住する臆病者ども。
聖アルド教国の狂信者たちとはまた違う、陰湿で、静かで、だからこそ許しがたい背信行為。
俺の喉の奥で、低い唸り声が自然と漏れた。周囲の大気が、俺の怒りに呼応してビリビリと震える。
「……ルシルだったな」
俺は、この日記を託してくれた、震える若いエルフの女性に向き直った。
彼女は俺の威圧感に怯えながらも、その瞳には真実を求める確かな光を宿して俺を見返していた。かつてのエリアーナがそうであったように。
『……お前の勇気に、感謝する』
俺はテレパシーで語りかけた。その声は、自分でも驚くほど静かで、しかしマグマのような熱を孕んでいた。
決意は固まった。
この森を覆う欺瞞の霧を、払わねばならない。それが、生き残った友としての、俺にしかできない手向けだ。
『……この偽りの沈黙は、我らが友の名において、この俺自身が打ち破ってくれる』
俺が発した言葉は絶対の誓いとなり、風に乗って森の奥深くへと運ばれていった。




