第48話 長寿の森の沈黙
大樹の議会での一触即発の事態は、ドワーフの戦士団長ボルガの豪快なとりなしによって、どうにか最悪の結末を免れた。
俺はアーベル亜人連合の首都『大樹の都エアレンディル』に、「厳重な監視付きの客人」として一時的に滞在することを許された。
とはいえ、全長数十メートルに及ぶ俺の巨体が入れるような建物など、この森には存在しない。結果として、俺は首都を見下ろす世界樹の、広場のように平らで太い枝の一つを、仮の寝床とすることになった。
そこからの眺めは、悪くなかった。
眼下には、樹々の間に頑丈な吊り橋や螺旋階段で結ばれた美しい空中都市が広がり、夜になれば発光苔のランタンや精霊の淡い光が、まるで星空を地上に降ろしたかのように瞬く。
滞在して最初の数日は、亜人たちの多くが俺を遠巻きに警戒していた。
教国の「聖獣」として恐れられてきた存在が、いきなり自分たちの頭上に居座っているのだから当然だろう。見張りのエルフの戦士たちは、いつでも魔法を放てるように神経を尖らせていた。
だが、俺がただ枝の上で大人しく昼寝を続け、時折大きなあくびをするだけの「無害な巨大生物」であるとわかると、彼らの警戒も少しずつ緩んでいった。
最近では、好奇心の強い獣人の子供たちが、見張りの目を盗んで葉の陰からこっそりと俺を覗きに来るようになった。
「おーい! 竜のおじちゃーん!」
「ほんとに動かないねぇ、石なのかな?」
俺がわざと大きな鼻息を鳴らしてやると、彼らは「キャー!」と楽しげな悲鳴を上げて一目散に逃げていく。そして翌日には、また懲りずにやってくるのだ。
そんな他愛のない、平和なやり取りが、五百年の眠りでこわばっていた俺の心を少しずつ癒やしてくれた。
俺の世話役であるリリと、意外にも俺に好意的だったドワーフのボルガは、公務の合間を縫って俺の元を頻繁に訪れた。
彼らは、俺の背中に凭れかかりながら、この五百年の間に亜人たちがどのように生きてきたか、その血の滲むような苦難の歴史と、現在の緊迫した情勢を語ってくれた。
「つい先日も、教国の聖騎士団が国境付近の森に火を放ちました。彼らは『浄化』と呼んでいますが、ただの嫌がらせです。……多くの獣人の村が焼け出され、怪我人がこちらへ逃げてきています」
リリが、持参した果物をかじりながら、沈んだ声で報告する。
「おまけに、西側からの鉄や麦の輸入は完全にストップされたままだ。ワシらドワーフがいくら鉱石を掘り出しても、食い物がなきゃあ腹は膨れん。教国の奴ら、経済封鎖でワシらを干し上がらせる気だぜ」
ボルガも、持っていた酒樽をドンと置いて忌々しげに吐き捨てる。
それは、教国からの絶え間ない軍事的な圧力と、苛烈な経済封鎖による貧困に耐え忍んできた歴史だった。
彼らが、人間に対して強い不信感と憎悪を抱くのも無理はない。教国は彼らを「汚れた劣等種族」と呼び、彼らは人間を「強欲で残酷な略奪者」と呼ぶ。
互いの血を流し合った憎しみの連鎖は、断ち切られるどころか、五百年という歳月を経てより強固な鎖となって彼らの精神を縛り付けていた。
ある晴れた午後。俺は彼らのそんな愚痴めいた報告を聞きながら、以前から抱いていた一つの疑問を口にした。
『……リリ、そしてボルガよ。今、お前たちが教国の横暴に苦しんでいるのはよくわかった。だが、エルフたちはどうしている?エルフという種族は、千年を生きると聞いている』
俺は、眼下に広がるエルフたちの居住区、ひときわ静謐な空気に包まれた白銀の樹冠を見下ろしながら尋ねた。
『ならば、この国には五百年前の「魔王大戦」をその目で見た者が、まだ生きているのではないのか? 我が友、ルナミリアを知る者が、彼女の言葉を覚えている者が、いるのではないか?』
俺の記憶の中のルナミリアは、魔王ゼノンを討ち果たし、カイルと共に平和な世界を築くために奔走していた。
俺が長い休眠に入る前、彼女は森の復興に生涯を捧げると笑っていた。長命なエルフである彼女なら、俺が眠っている間に天寿を全うしたとしても、彼女から直接教えを受けた弟子や、当時の様子を知る者が必ずいるはずだ。
彼女の残した「種族の共存」という願いは、どうなってしまったのか。
俺が、かつての戦友であり、大精霊使いだったエルフの名を出すと、リリとボルガは顔を見合わせ、ひどく気まずそうに沈黙した。
「……はい。理屈の上では、その通りです。長寿のエルフ族なら、五百年前はまだ現役の若者だった世代も多く存命のはずです。ですが……」
リリは、言葉を選ぶように、慎重に続けた。
「……今のエルフの森は、少しおかしいのです。彼らは五百年前の大戦について、決して語ろうとはしません。まるで、その時代の記憶に完全に蓋をしてしまったかのように……」
『……蓋をした?』
「はい。特に、現在のエルフ族を束ねる長老会は、極端な孤立主義を掲げています。他の種族との交流を最小限に留め、『森の平穏を乱すべからず』という、閉鎖的な古い掟を何よりも重んじているのです。教国への対抗策も、積極的な防衛や対話ではなく、ただ森に強力な結界を張って内側に閉じこもるだけ……」
ボルガも太い腕を組み、苦々しい表情で深く頷いた。
「……まったくだ。ワシらドワーフが、教国に対抗するために新しい防衛兵器の共同開発を持ちかけても、『森の叡智は他族には開示できん』の一点張りよ。あの石頭の連中め、自分たちだけが清らかだと思い込みやがって」
おかしい。
俺の知るルナミリアは、誰よりも好奇心旺盛で、他種族との共存を心から願っていたエルフだった。
『森に閉じこもっていては、世界は見えませんわ』と笑い、人間であるカイルや、ドワーフのギルバートと肩を組んで最前線で戦った彼女。
彼女のその進歩的で温かい遺志は、同胞たちに全く受け継がれなかったというのか。それどころか、逆に閉鎖的になっているとは。
それとも何か、俺の知らない理由があるのか。
彼女の死に、何か隠された真実があるのではないか。
『……推測だけで話していても埒が明かん。直接、確かめる必要があるな』
俺は身を起こし、長い首をもたげた。
ボルガの案内で、俺たちはエルフの長老会が開かれている、世界樹の最上部にある巨大な議事堂へと向かった。
もちろん、俺の巨体では議事堂の中には入れない。
議事堂の入り口にある、美しい装飾が施された巨大な扉の前で俺は待機し、ボルガとリリが俺の代理として、長老たちに面会と大戦の記録の開示を求めてくれた。
しばらくして、重い扉が開き、二人は暗い顔で、肩を落として戻ってきた。
「……ダメでした」
リリが、悔しそうに唇を噛む。
「長老たちは、『伝説の竜と話すことは何もない』と……。『我らは森の掟に従い、静寂を守るのみ。過去の戦乱の記憶を掘り起こす必要はない』と。完全な門前払いです」
「……ちっ、あの石頭どもが。世界の危機だってのに、まだ自分たちだけ平和な夢でも見てるつもりか」
ボルガが苛立たしげに地面に唾を吐いた。
やはり、正規のルートでは無理か。そう諦めかけ、俺が重いため息をつこうとした、その時だった。
議事堂の出口に並ぶ巨大な柱の陰から、一人の若いエルフの女性が、恐る恐るこちらの様子を窺っているのに、俺は気づいた。
彼女は、周囲の衛兵の目を警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせていたが、俺の巨大な金色の瞳と目が合うと、ビクリと肩を震わせた。
だが、逃げ出しはしなかった。
深呼吸を一つすると、意を決したようにローブのフードを目深に被り直し、足音を忍ばせて俺たちの元へと小走りで駆け寄ってきた。
その華奢な胸には、一冊の古びた革張りの本を、まるで赤子を抱くように大切に、しっかりと抱えている。
「……あ、あの……!」
彼女は俺の巨体を見上げ、極度の緊張に声を震わせながらも、必死に言葉を絞り出した。
「……あなたが、伝説の風竜ヴァイス様……ですね?」
『……いかにも。お前は?』
「わ、私は、ルシルと申します。この議事堂の地下にある、書庫の管理をしております」
ルシルと名乗った若いエルフは、俺とボルガたちを交互に見ると、さらに声を潜めて言った。
「……長老たちの、こと……。ごめんなさい。彼らの非礼をお許しください。彼らは……彼らは、恐れているのです」
「……恐れている?」
リリが、訝しげに聞き返した。長寿で賢明なはずのエルフの長老が、一体何を恐れるというのか。
「はい。……過去を思い出すことを。そして、五百年間守り続けてきた『沈黙』が破られ、真実が暴かれることを……」
ルシルはそう言うと、抱えていた古い本を、震える両手で俺の鼻先の前に差し出した。
それは、時の流れで変色し、角が擦り切れた分厚い革の手帳だった。表紙には、今はもう一般的には使われていない古代エルフ語の文字が刻まれている。
「……これは、わたくしの曾祖母が密かに遺した、日記です。……曾祖母は五百年前、あの大精霊使いルナミリア様の、身の回りの世話をする直属の侍女をしておりました」
その言葉に、俺とリリ、そしてボルガは息をのんだ。
ルナミリアの侍女。
ならば、この日記には、当時の彼女の言葉や行動、そして戦後のエルフの森で何が起きたのか、長老たちが隠したがる「真実」が記されているはずだ。
「……長老会は、魔王大戦に関する全ての記録を『禁書』として地下深くに封印してしまいました。英雄ルナミリア様の名を口にすることさえ、今の森ではタブーなのです」
ルシルの声に、悲しみと、そして静かな憤りが混じる。
「この日記も、もし見つかれば、すぐに焼かれ、持ち出した私も重い処罰を受けるでしょう。……でも、わたくしは思うのです。このまま、真実に蓋をし続け、過去を恐れて偽りの平和の中に閉じこもっているのは、絶対に間違っていると」
ルシルの澄んだ緑色の瞳には、恐怖を乗り越えた、強い意志の光が宿っていた。
彼女もまた、この歪んだ世界に疑問を持ち、自分の力で変えようとしている一人なのだ。
「……ヴァイス様。どうか、これをお読みください。そして、知ってください。……五百年前、この森で本当に何があったのかを。なぜルナミリア様が、歴史から消されなければならなかったのかを」
俺は、巨大な前足の爪先で、壊さないように細心の注意を払いながら、慎重にその古びた日記を受け取った。
物理的には羽のように軽いはずのその本が、今の俺にはずっしりと、岩のように重く感じられた。
五百年という時の重みと、そこに封じられた誰かの切実な想いの重さ。
『……確かに受け取った。ルシルよ、お前の勇気、決して無駄にはしない』
俺が重々しく答えると、彼女は安堵したように深く一礼し、誰かに見られる前にと、慌ただしく森の奥へと走り去っていった。
エルフの森が抱える、異常な沈黙の理由。
そして、俺の友ルナミリアの、その後の真実。
その謎を解く鍵は今、俺の手の中にあった。
俺はリリとボルガに目配せをし、誰にも邪魔されない聖域である、世界樹のさらに高い梢の上へと移動した。
そこで、俺たちは、五百年間封印されていた歴史のページを、静かに開いた。




