第46話 亜人連合の警戒
聖都アルドの大聖堂を一部粉砕し、教皇に向けて高らかに決別と警告を宣言した俺は、東を目指し、分厚い雲海の上を全速力で飛翔していた。
背中の上では、リリが凄まじい風圧に耐えるように、俺の純白の鬣に必死にしがみついている。彼女は聖都を飛び立ってからというもの、一言も発しようとしない。
華やかな聖都の裏側に隠されていた、亜人スラムの地獄のような惨状。そして、教皇から向けられた、同じ生き物に対するものとは思えない剥き出しの悪意と侮蔑。
それらは、歴史の真実を純粋に追い求めてきたまだ若い彼女の心に、消えない深い傷を残したのだろう。
『……リリよ』
俺は、彼女の周囲に展開している風避けの魔力結界を少し強め、飛翔速度をわずかに落としながら、少しだけ首を傾けてテレパシーで語りかけた。
『すまなかったな。結果的に、お前を危険な目に合わせた。あんな胸糞の悪いものを見せるつもりはなかったのだが』
「……いいえ」
リリはか細い声で、しかし気丈に顔を上げて答えた。その瞳には、涙の跡がまだ生々しく残っている。
「わたくしは、大丈夫です。むしろ、現実を知ることができてよかった。……教国の歴史書が嘘っぱちだと頭ではわかっていても、心のどこかで『少しはマシな部分もあるのでは』と期待していた自分が恥ずかしいです。……それよりも、ヴァイス様」
彼女は、心配そうに俺の背中を見つめ、前足の付け根の鱗をそっと撫でた。
「あなたは、これからどうなさるのですか?聖都のど真ん中で、教皇を完全に敵に回してしまいました。彼らはきっと、自分たちの威信を保つために『聖獣が悪魔に狂わされた』と大々的に宣伝して、大規模な討伐隊を差し向けてくるでしょう」
『敵に回したのは、奴らの方だ』
俺は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。
『我は我の道を行く。まずは、お前たちの故郷、アーベル亜人連合とやらを見せてもらう。彼らが、教国の連中のような、過去の歴史を知らぬ愚か者でないことを祈るがな』
俺の言葉に、リリの表情がわずかに、しかし確実に曇った。ピンと立っていた狐の耳が、不安げにぺたりと伏せられる。
「……ヴァイス様。どうか、誤解しないでいただきたいのですが……」
彼女は、言い淀みながらも、重い口を開いた。
「連合の同胞たちも、あなた様のことを手放しで歓迎するとは……限りません。いえ、十中八九、警戒し、敵対行動をとるはずです」
『……わかっている。奴らにとって、我は五百年前の「人間の味方をした竜」だからな』
「はい……。五百年前、あなたが人間の勇者様と共に戦い、魔王を倒したという事実は、亜人の間でも複雑な感情と共に語り継がれています」
リリは風に揺れる髪を抑えながら、悲痛な声で続けた。
「特に、教国との百年にわたる戦争で、家族や友人を人間に奪われた者たちにとっては……。あなたは、憎い人間の側に立ち、亜人の先祖を殺した『伝説の大量破壊兵器』という認識が強いのです。……ごめんなさい、命の恩人に向かってこんなこと申し上げて」
『……気にするな』
俺はため息をついた。
リリの懸念、そして亜人たちが抱く「亜人の先祖を殺した」という矛盾めいた感情の理由も、よくわかる。
魔王軍は、純粋な魔物だけでなく、オークやゴブリン、一部のダークエルフといった「亜人種」が、魔王の力に心酔し、あるいは恐怖に支配されて多数参加していた。
現在のアーベル亜人連合を構成する種族の中には、魔王大戦で魔王側に与した部族の末裔と、人間側に与した部族の出身部族などの末裔が混在しているのだ。
教国という共通の敵が現れたことで、彼らは過去の遺恨を飲み込んで「亜人連合」としてまとまっているが、その内部は決して一枚岩ではない。
特に、魔王軍側のルーツを持つ者たちにとって、俺は「先祖を焼き払った憎き竜」というわけだ。
聖アルド教国は、俺を「聖獣」として神輿に担ごうとした。
アーベル亜人連合は、俺を「人間の兵器」として敵視するだろう。
どちらの勢力も、本当の俺を見ようとはしない。
彼らは、自分たちの都合の良い、あるいは悪い「伝説」という色眼鏡のフィルターを通してしか、俺を見ないのだ。
全く、厄介な時代に目覚めてしまったものだ。
俺たちが大陸を横断し、旧魔境、現在のアーベル亜人連合の領空に差し掛かった、その時だった。
ヒュンッ! ヒュンッ!
ガギンッ! キィィン!
眼下に広がる深い原生林の中から、凄まじい風切り音と共に、数発の巨大な鉄の矢が、正確に俺の心臓と翼を狙って放たれた。
それはただの矢ではない。かつて俺が魔王大戦で見た、ドワーフ族が作った対大型魔獣用の攻城兵器『連装バリスタ』の矢だ。
巨大な矢は、俺の硬い白銀の鱗に弾かれ、激しい火花を散らして砕け散ったが、その物理的な衝撃は確かに俺の巨体を揺らした。
『……挨拶代わりにしては、随分と手荒だな』
俺は不快感を隠さずに低く唸る。
すぐに、分厚い雲の切れ間から、十数騎の巨大な鳥獣、グリフォンに乗った騎士たちが現れ、俺の周囲を立体的に取り囲んだ。
彼らは、美しい流線形の緑色の鎧を身に着け、その手には、強烈な風の魔力を帯びた長弓が、すでにつがえられている。
エルフの精鋭空騎兵団だ。
「そこを動くな!教国の聖獣、風竜!」
隊長らしき、鋭い目つきの初老のエルフが、魔力で声を増幅させて警告を発した。
「ここは、我らアーベル亜人連合の絶対領空である!貴様の薄汚い侵入は既に全土で感知している!即刻この場から立ち去らねば、実力をもって撃ち落とす!」
彼の瞳には、俺に対する剥き出しの敵意と、五百年分の過去の怨念にも似た、深い警戒心が宿っていた。
やれやれ、こちらも教国と同じく、全く話の通じない連中らしい。
「待ってください!攻撃しないで!」
俺の背中から、リリが身を乗り出して大声で叫んだ。彼女は被っていたフードを脱ぎ捨て、隠していた狐耳と尻尾を堂々と露わにする。
「隊長殿!わたくしです。リリです!そして、このお方は敵ではありません!教国とは完全に決別した、伝説の守護竜ヴァイス様です!」
「なっ……リリだと……!?」
隊長のエルフは、リリの顔と獣特有の特徴を認め、驚きに目を見開いた。弓を構える手がわずかに下がる。
「馬鹿な!お前、数ヶ月前に教国の領内で行方不明になったと報告を受けていたぞ!なぜ生きている?そしてなぜ、その忌まわしき人間の竜と共にいるのだ!?」
「話せば長くなります!ですが、ヴァイス様は教国の手先ではありません!むしろ、教皇のやり方に激怒し、我々亜人の味方になってくださるかもしれないお方なのです!どうか、矢を収めてください!」
リリの必死の説得。彼女の声は真に迫っていた。
しかし、エルフの騎士たちの警戒は解かれなかった。
彼らは一瞬顔を見合わせたものの、再び弓を引き絞り、その切っ先を俺の目や翼の関節といった急所に正確に向け直した。
「……騙されんぞ。それは教国の洗脳か、あるいは竜の幻術かもしれん。奴らは『聖獣』を使って我らを内側から殲滅しようとしているのだ」
「リリ!貴様が正気なら、今すぐその竜の背から飛び降りろ!我らが受け止めてやる!このままでは、貴様ごと竜を射抜かねばならんぞ!」
上空数百メートルにいるというのに「飛び降りろ」とは。彼らは、恐怖と焦りで完全に合理的な思考を失っている。
彼らは、俺たちをじりじりと包囲し、その包囲網を徐々に狭めてくる。殺気は収まるどころか、むしろ高まっていた。
恐怖と憎悪。それが彼らの理性の目を完全に曇らせているのだ。
俺は、大きく深いため息をついた。
どうやら、ここでもまず、言葉ではなく「圧倒的な力」で自分の立場を証明するしか、道はなさそうだ。
だが、俺はもう、無意味に誰かを傷つけるのはうんざりしていた。
『……リリよ。少し揺れるぞ。舌を噛むなよ』
俺は、背中で身を固くする彼女に短くテレパシーで告げると、その場でピタリと翼の羽ばたきを止め、空中に完全に静止した。
そして、翼を動かすことなく、ただ体内に蓄積された純粋な「風の魔力」を一気に解放した。
ゴォォォォォォォォォ……ッ!!!
俺を中心とした半径数百メートルの空間だけ、大気の流れが強制的に書き換えられた。
穏やかだった上空の風が、突如として牙を剥き、上下左右、出鱈目な方向に吹き荒れる『乱気流の檻』へと化したのだ。
「なっ……!?」
「ぐわぁっ、グリフォンが……言うことを聞かん!」
「か、風が……重い!?翼がちぎれる!」
エルフの騎士たちが、次々と悲鳴を上げる。
彼らが乗るグリフォンは、本来ならば空の覇者であるはずの魔獣だ。だが、その翼を風の魔力によって完全に封じられ、熟練の乗り手でも制御不能な暴風に巻き込まれて、まるで秋の木の葉のようにクルクルと無様に舞い始めた。
彼らは矢を放つどころか、振り落とされないように必死でグリフォンの手綱や首にしがみつくことしかできない。
だが、その荒れ狂う嵐の中で、俺とリリの周りだけは、完全な無風の凪いだ状態が保たれている。
俺はその乱気流の中心で、微動だにせず、静かに浮かんで彼らを見下ろした。
『これが、我と貴様らとの、絶対的な力の差だ』
俺は、必死にもがく騎士たちの脳内に直接テレパシーを叩き込んだ。
『我は、貴様らなどいつでも、赤子の首を捻るように地面に叩き落とすことができる。……だが、我はそれをしない』
俺は魔力を少しだけ緩め、乱気流の勢いを弱めた。グリフォンたちがようやく体勢を立て直せる程度に。
『……リリの顔に免じて、今回の無礼は見逃してやる。案内しろ。貴様らの長に会わせろ』
俺のその無言の圧力と、圧倒的な力を見せつけた上での慈悲とも取れる行動が、彼らに伝わったかどうか。
隊長のエルフは、必死に暴れるグリフォンをなだめ、荒い息をつきながら、悔しそうに唇を噛みしめ、俺の姿を睨みつけていた。
だが、その震える手から、弓は完全に下ろされていた。
「くっ……わかった。ついて来い、竜よ」
彼は血を吐くような、絞り出す声で言った。
「だが、少しでも不審な動きを見せれば、全軍をもって貴様を討つ。……リリ、お前もだ。議会でたっぷりと説明してもらうぞ」
俺たちの亜人連合との最初の接触は、最悪とまではいかないまでも、決して友好的とは言えない、ヒリヒリとした一触即発の緊張感の中で幕を開けた。
俺たちはグリフォン隊の厳しい監視のもと先導され、かつての魔境の奥深く、今は巨大な世界樹の根元に広がる亜人たちの都へと向かった。




