第四十三話 聖都からの使者
捻じ曲げられた英雄譚を目の当たりにし、俺の心は氷のように冷たい怒りで満たされていた。
カイルの折れない心、ギルバートの不屈の剛腕、ルナミリアの慈愛に満ちた叡智、そしてレイヴンの影からの献身。共に血を流し、世界を救うために命を削ったかつての仲間たちの功績が、意図的に歴史から抹消されている。
それどころか、あろうことか彼らは「魔王に与した悪」として、子供たちの絵本にまで描かれているのだ。
これは死者への、そしてあの時代を生きた全ての者たちへの、許しがたい冒涜だ。
聖アルド教国。
この国は、俺たちの戦いを、自分たちの歪んだ人間至上主義を正当化するための、都合の良いプロパガンダの道具として利用している。
光学迷彩を解き、この場で本来の巨体を現して怒りの咆哮を上げれば、この平和な街など、一瞬の暴風で跡形もなく吹き飛ぶだろう。
その破壊の衝動を、俺は心の奥底で必死に抑え込んだ。
ここで俺が暴れて街を壊せば、それこそ「竜は破壊の化身である」という彼らの主張を自ら証明してしまうようなものだ。何より、何も知らない一般の民衆を巻き込むことは、カイルが最も悲しむ結果となる。
俺は冷静にならなければならない。この国の、そしてこの五百年で変わり果てた世界の真実を見極めるために。
俺は怒りを胸の奥深くに秘めたまま、透明な風となって街を離れ、リリが待つ丘の上の森へと戻った。
「ヴァイス様、おかえりなさい!……あ、あれ?」
俺が光学迷彩を解いて姿を現すと、出迎えたリリは、俺の放つただならぬ気配を、獣人特有の鋭い感覚で敏感に感じ取った。
彼女は不安げに狐の耳を揺らし、心配そうに俺の顔を見上げてきた。
「どうかなさいましたか?街の様子を見てこられたのですよね?なんだか……すごく、怒っておられるような…」
『……リリよ』
俺はため息と共に、重く低いテレパシーの声を落とした。
『お前は、あの広場で語られている英雄譚をどう思う?』
「え……英雄譚、ですか」
『ああ。人間だけが正義であり、亜人は魔王の手先たる悪だと語る、教国ご自慢の偽りの物語のことだ』
俺の問いに、リリは悲しそうに狐耳を伏せ、顔を曇らせた。そして、小さな手をギュッと握りしめる。
「……もちろん、あれが真実ではないことは、わたくしたち亜人なら誰でも知っています」
彼女は俯きがちに、しかし、はっきりとした口調で語り始めた。
「亜人の間では、別の伝承が、口伝として親から子へ、大切に語り継がれていますから。魔王大戦は人間も亜人も、全ての種族が手を取り合って勝利した戦いだった、と。……ですが、その声は教国の大きな声と権力にかき消されて、今では『敗者の惨めな言い訳』として扱われるようになってしまいました」
彼女はギュッと握りしめた拳を震わせ、言葉に悔しさを滲ませた。
「歴史書も、古代の遺跡も、亜人の活躍を示すものは全て、教国によって『邪教の遺物』として焼かれ、破壊されてしまったのです。彼らは、自分たちの都合の悪い証拠を、徹底的にこの世から消し去りました」
『……そうか。徹底しているな。だが、なぜそこまでして歴史を歪める必要がある』
「……恐怖、だと思います」
リリは真っ直ぐに俺の瞳を見つめ返した。
「人間たちは、かつて魔王軍として圧倒的な力を持っていた亜人の先祖たちを、心の底では恐れているのです。だから、亜人を『悪』として見下し、迫害することでしか、自分たちの優位性を保てない。……その差別を正当化するための最も都合の良い言い訳が、『聖獣ヴァイス様が人間を選んだ』という偽りの歴史なのです」
彼女の言葉は、俺の心に重く響いた。
人間という生き物の、どうしようもない弱さと愚かさ。五百年経っても、その本質は変わっていない。
「だからこそ、わたくしはあなた様をお探ししていたのです!」
リリは顔を上げ、強い意志の光を宿した金色の瞳で、俺に訴えかけた。
「歴史の唯一の生き証人であるあなた様が、真実を語ってくだされば……! この捻じ曲げられた世界を、もう一度正すことができるかもしれないと! その真実の欠片を見つけることこそが、わたくしが探検家になった理由なのですから!」
彼女の言葉に、俺は少しだけ冷静さを取り戻した。
そうだ。俺はまだ何もしていない。
この小さな少女は、果てしない絶望の中で、俺というおとぎ話の伝説に、命がけの希望を託してあの険しい山を登ってきたのだ。その期待に応えずして、何がカイルの友か。何が守護竜か。
『……リリよ。お前のその覚悟、確かに受け取った』
「ヴァイス様……!」
『俺も、あのふざけた物語をこのままにしておくつもりはない。俺たちの本当の歴史を、俺たちの手で取り戻すぞ』
俺たちがそんな決意を語り合っていた、その時だった。
ふと、眼下の街の方から、何やら大きな一団が砂煙を上げ、俺たちのいる丘の森に向かって近づいてくるのが見えた。
先頭には、白地に金の刺繍で太陽と剣が描かれた、巨大で豪華な旗がはためいている。
聖アルド教国の、教皇庁の紋章だ。
一団は百名ほどの、白銀の全身鎧に身を包んだ屈強な騎士たちで構成されていた。
彼らの装備は儀礼的でありながら実戦的で、一糸乱れぬ行軍の足並みは、彼らがただの儀仗兵ではなく、高い練度を誇る実戦部隊であることを窺わせる。間違いなく、教皇直属の聖騎士団の精鋭部隊だろう。
そして、その隊列の中心には、まるで移動する小さな神殿のような、豪奢な金細工の装飾が施された巨大な輿が、八頭の白馬によって引かれていた。
彼らは、俺たちのいる丘の麓で馬を止めると、輿の扉が開き、中から深紅の法衣をまとった一人の老人が、従者を従えて進み出てきた。
胸には大きな黄金の十字架を下げ、手には魔力を帯びた大きな宝石のついた杖を持っている。
その威圧的な衣装は、彼が「枢機卿」であることを示していた。
枢機卿とは、教皇に次ぐ高位聖職者であり、教国の政治と宗教の中枢を担う、「教会の王子」とも呼ばれる最高幹部だ。
そんな重鎮が、わざわざこんな辺境の丘まで自ら出向いてくるとは。
「……おお……! 見よ! 古文書に記されし、白き翼の聖獣、ヴァイス様のお姿ぞ!」
枢機卿は、森の木々の間から覗く俺の巨体を見るなり、大げさな仕草で両手を天に広げ、その場に恭しく、そして芝居がかった動作でひざまずいた。
彼の動きに合わせて、百名の聖騎士たちも一糸乱れぬ動きで馬から降り、ガシャンという重い金属音を響かせて一斉に膝をつく。
そして、彼らは俺に向かって、朗々と、賛美歌のような祈りを捧げ始めた。
『……なんだ、この茶番は』
俺は、あまりの白々しい演出に、呆れて呟いた。
枢機卿は、一通りの長い祈りを終えると顔を上げ、よく通る朗々とした声で俺に語りかけてきた。
「お目覚め、心よりお慶び申し上げます。偉大なる聖獣ヴァイス様。我らは、聖都アルドより教皇グレゴリウス七世陛下の名代として参上いたしました、枢機卿バルバロスと申します」
彼は、俺が人間の言葉を理解し、意思疎通が可能であることも知っているようだった。おそらく、教国の地下書庫には、カイルが遺した当時の真実の記録の一部が、彼ら上層部だけが読める形で封印されているのだろう。
「教皇陛下は、聖獣様の数百年ぶりの御帰還を、国を挙げて歓迎しておられます。つきましてはぜひ、我らと共に、聖都の中心にある大聖堂までご足労願えないでしょうか。信仰深き教国の民草も皆、あなた様の神々しいお姿を一目拝見したいと、涙を流して待ち望んでおります」
その言葉は、どこまでも丁寧で、最大限の敬意に満ちているように聞こえた。
だが、その言葉の裏に、俺を自分たちの権威の象徴として利用し、国民の信仰心を煽るための「神輿」にしようという、透けて見えるような黒い魂胆が隠されているのを、俺の目は見逃さなかった。
彼の顔は笑っているが、目は全く笑っていない。俺を「偉大なる存在」として見ているのではなく、教国の利益のために「使える巨大な道具」として値踏みしている、冷徹な政治家の目だ。
ふと、バルバロスの視線が、俺の足元の影に隠れるように立っていたリリに向けられた。
その瞬間、彼の目から作られた敬意が完全に消え去り、汚らわしい害虫を見るような、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「……聖獣様。その汚らわしい『獣』はなんでございましょうか? そのような劣等種族を神聖なるお傍に置かれるなど、聖獣様のお身体に障ります。我らがすぐに、その毛皮を剥いで処分いたしますが……」
『黙れ』
俺は、地を這うような低い声で、彼の言葉を冷酷に遮った。
俺の全身から放たれた、純粋で濃密な怒りの気に、枢機卿は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、無様に数歩後ずさった。
『この者は、我の客人だ。この者に指一本でも触れてみろ。その時は、聖都とやらを地図から消し去ってくれる』
ただの脅しではない。俺の周囲の大気が、怒りに呼応して目に見えるほどの乱気流となって渦を巻く。
その本気の殺気に、枢機卿も、控えていた百名の聖騎士たちも、一瞬にして顔面を蒼白にさせた。
彼らは、俺がただ教国に都合の良いお飾りの聖獣ではないということを、その肌で、生命の危機として理解したのだろう。
枢機卿バルバロスは、額に大量の脂汗を浮かべながらも、必死で顔の筋肉を引き攣らせ、作り笑いを浮かべた。
「……は、はは。こ、これは、大変失礼いたしました。聖獣様の大切なお客人でしたか。……どうぞ、ご一緒に……」
聖都へ行くか、行かぬか。
ここで断れば、彼らは「聖獣が狂った」などと理由をつけて、力づくで俺を捕獲しようとするかもしれない。そうなれば、俺は彼らを殺傷することになり、さらに歴史が「竜は悪魔だ」と悪く書き換えられる口実を与えるだけだ。
それに、このまま彼らの神輿になるつもりも毛頭ないが、敵の懐に入らなければ見えない真実もあるはずだ。教国の内情を知るには、これ以上ない好機でもある。
俺は、ゆっくりと青色の瞳を細め、眼下にひれ伏す偽善者たちを見下ろした。
そして、一つの答えを彼らに告げることにした。
『……よかろう。その招待、受けよう』
俺の言葉に、バルバロスの顔がパッと輝いた。自らの交渉が成功し、勝利を確信した者の顔だ。
「おお!感謝いたします!では、直ちに聖都への凱旋パレードの準備を……」
『ただし、条件がある』
俺は彼の言葉を再び遮った。
『このリリも同行させる。我の「世話係」としてな。我は彼女の言葉を通してしか、お前たちとは話さん。……不服か?』
「……い、いえ、滅相もございません。聖獣様のご意志とあらば」
バルバロスは、屈辱に顔を歪めながらも、苦々しげに頷いた。
獣人を聖都の中心に入れるなど、彼らの教義からすれば前代未聞のタブーだ。だが、ここで俺の機嫌を損ね、聖獣を連れ帰るという最大の功績を逃すわけにはいかないと、政治的な打算が勝ったのだろう。
俺のその一言が、この世界の新たな混乱と、歴史の転換点の始まりとなることを、この時の枢機卿たちはまだ知る由もなかった。
彼らはただ、伝説の聖獣が自分たちの思い通りになり、強大な軍事力を手に入れたと、愚かにも信じ込んでいたのだから。
『乗れ、リリ』
俺はリリを背に乗せると、聖騎士たちに囲まれながら、聖都への道を歩み始めた。
これは、彼らが望むような凱旋ではない。
偽りの歴史を暴き、真実を取り戻すための、敵地への堂々たる進軍だ。




