第四十二話 捻じ曲げられた英雄譚
俺の背中に乗ったリリの案内で、俺たちはかつてのアルマード王国、現在は『聖アルド教国・アルマード特別自治区』と呼ばれる土地を目指して、雲海の上を飛行し続けていた。
五百年の歳月は、俺の記憶にある景色を、容赦なく、そして劇的に変えていた。
かつて、凶暴な魔物の住処だった鬱蒼とした森は切り開かれ、見渡す限りの幾何学的な農地へと変わっている。蛇行し、たびたび氾濫していた暴れ川の流れは、大規模な治水工事によってまっすぐに整えられ、いくつかの場所には、頑丈な石造りの立派な橋が架かっていた。
人間の文明は、俺が眠っている間に、魔王という巨大な脅威が去ったことで着実に、そして爆発的に発展を遂げているようだった。
「すごい……!これが竜の背から見る景色……! 本当に鳥になったみたいです!」
俺の背中の上で、リリが風に髪をなびかせながら、眼下の景色に感嘆の声を上げている。
「ヴァイス様、左手をご覧ください!あれが現在のアルマード特別自治区の首都、聖都『セント・アリア』です!」
彼女が指さす方向へ視線を向けると、盆地の中に、白壁と青い屋根で統一された、清潔で美しい巨大な街並みが広がっていた。
セント・アリア。
おそらく、かつて俺が盗賊から助けた、あの気の強い赤毛の王女の名前から取ったのだろう。
彼女と出会い、人間との最初の接点を持ったのは、もう六百年以上も前のことか。ひどく遠い、セピア色になった懐かしい記憶が胸をよぎる。
俺たちは、街から少し離れた、人目のつかない小高い丘の森の中に、風を殺して静かに着地した。
さすがに、いきなり街の真ん中に降り立てば、歓迎されるにしても攻撃されるにしても、大パニックになるのは目に見えている。
『リリよ、少し、この街の様子を見てきたい。お前はここで待っていろ』
「えっ、ヴァイス様、お一人で……? でも、そのお姿では……」
彼女の疑問ももっともだ。全長数十メートルに及ぶ純白の竜が街を歩けば、蟻の巣をつついたような大騒ぎになる。
『案ずるな。少し、姿をくらます術くらい心得ている』
俺は、体内の風の魔力を自分の周囲に、極めて薄い膜のように展開した。
そして、その魔力の膜に周囲の景色を、光の屈折を利用して蜃気楼のように精巧に映し出す。
光学迷彩。
これも、かつて百年間孤独に森で過ごしたサバイバル生活の中で身につけ、その後の勇者たちとの連戦の中で極限まで洗練させた、俺の隠密スキルの一つだった。
フッ、と音もなく、俺の巨体が風景に溶け込み、そこには微かな風の揺らぎだけが残った。
「す、すごい……!こんな高度な隠蔽魔法、どんな文献にも載っていませんでした……! さすがは伝説の竜……!」
目を丸くして驚くリリを森に残し、俺は完全に気配を消して、聖都セント・アリアの街へと足を踏み入れた。
街は、想像以上の活気に満ちていた。
綺麗に清掃された石畳の道を多くの人々が行き交い、露店では色鮮やかな果物や装飾品が並べられ、商人たちの威勢のいい声が飛び交っている。どこからか、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、陽気な弦楽器の音色が漂ってくる。
平和な、良い街だ。
すれ違う人々は皆、清潔な服を着て、穏やかな笑顔を浮かべている。どこにも、魔王軍に怯えていた時代のような、張り詰めた争いの気配はない。
俺は、かつての友であるカイルが命を懸けて守り抜いたこの国の未来の姿に、少しだけ安堵し、誇らしい気持ちになった。
だが、その安堵は、街の中心部へ進むにつれて、徐々に奇妙な違和感へと変わっていくことになる。
街の中央にはひときわ大きな石畳の広場があり、そこには何やら巨大な白大理石の石像が建てられていた。
俺は、興味を惹かれてその広場へと向かった。
そして、その石像の姿を見た瞬間、俺は思わず足を止めた。
それは、一人の凛々しい人間の騎士が、巨大なドラゴンの首に優しく手を置き、遥か彼方の空を指差している像だった。
騎士のモデルは、その意匠からして間違いなく勇者カイルだ。
そして、ドラゴンのモデルは、少し神格化されてデフォルメされてはいるが、純白の鱗と角の形状から見て、紛れもなく俺自身だった。
一見すれば、種族を超えた友情を描いた美しい像に見える。
だが、俺にはわかった。
カイルは堂々と胸を張って立っているが、その足元にいる俺の像は、まるで主人に仕える忠実な猟犬のように頭を低く垂れ、彼に完全に従属しているようなポーズを取らされているのだ。
カイルなら、絶対にこんな像を作らせたりはしなかったはずだ。俺たちは対等な友人であり、共に背中を預け合った相棒だったのだから。
「おお、あれこそが我らが教国の誇り、勇者カイル様と、聖獣ヴァイス様の勇姿よ」
近くにいた親子連れの父親が、石像を畏敬の眼差しで見上げながら、幼い子供に語りかけていた。
「聖獣様は勇者様と共に、神の教えに従わない邪悪なる亜人どもをこの地から打ち払い、我ら人間による平和な世界を築かれたのだ……。お前も、神と勇者様に感謝して生きるのだぞ」
……なんだって?
俺は、自分の耳を疑った。
邪悪なる亜人を打ち払った?
俺と、カイルが?
馬鹿な。俺たちが戦ったのは、世界を滅ぼそうとした魔王ゼノンとその軍勢だ。
そして、その戦いには、ドワーフの戦士ギルバートも、エルフの賢者ルナミリアも、亜人の暗殺者レイヴンもいた。俺たちは皆、種族の壁を越えて共に背中を預け合い、血を流して戦った仲間だったはずだ。
俺たちが目指したのは、人間だけの平和ではない。全ての種族が手を取り合い、共に生きる未来だったはずだ。
俺は信じられない思いで、広場の周りにある露店を見て回った。
そこでは、観光客向けに俺たちの『英雄譚』を描いた絵本や、歴史書のようなものが平積みされて売られていた。
俺は音もなく近づき、一人の老婆が孫にその絵本を読み聞かせている後ろにそっと立ち止まった。
「……いいかい、坊や。よくお聞き。むかしむかし、この世界には、神の教えを知らない、けだもののような亜人たちがおりました」
老婆のしわがれた声が、広場の喧騒の中でやけに耳に障る。
絵本の極彩色で描かれた最初のページ。
そこには、醜悪で歪んだ顔をしたエルフやドワーフ、獣人たちが、魔王ゼノンという巨大な悪魔の前にひれ伏し、魂を売り渡す様子がおぞましく描かれている。
「彼らは魔王の手先となり、欲に駆られて、清らかで優しい人間たちの村を次々と襲いました。畑を焼き、家畜を奪い、善良な人々をいじめたのです」
挿絵の中の亜人たちは、泣き叫ぶ人間の子供からパンを奪い、家々に火を放ち、下品な笑い声を上げているように描かれている。
胸がむかつくような、あからさまな悪意だ。
「人間たちは絶体絶命の危機に陥りました。ですが、神様は決して人間をお見捨てにはなりませんでした。祈りに応え、神の使いである白き聖獣ヴァイス様と、神に選ばれし勇者カイル様を地上に遣わされたのです」
ページがめくられる。
そこには、輝く鎧を着た勇者カイルと、神々しい光の輪を背負い、天使のような羽を持った俺(聖獣)が、天空から舞い降りるシーンが描かれていた。
「聖獣ヴァイス様は、その聖なる炎の息吹で、魔王に味方する汚らわしい亜人たちを一人残らず焼き払いました。それは神の怒りの炎でした。そして勇者カイル様は、聖剣で魔王を打ち倒したのです」
「……こうして世界は、神に選ばれた人間たちの手に取り戻されました。生き残った卑怯な亜人たちは恐れをなして、暗く冷たい東の森の奥へと逃げていきました。彼らは二度と、人間の美しい国には入れません。めでたし、めでたし」
読み終えた老婆が、孫の頭を撫でる。
「わかったかい? だから亜人は悪い奴らなんだよ。見かけても、決して近づいてはいけないよ」
「うん! 僕も大きくなったら、勇者様みたいに悪い亜人をやっつけるんだ!」
純真無垢な笑顔でそう答える子供の声を聞いて。
『……なんだ、これは……』
俺は、怒りを通り越して、底知れぬ寒気と吐き気を覚えながら、心の中で呻いた。
ギルバートが振るった、仲間を守るための剛腕も。
ルナミリアが命を削って灯した、癒やしの光も。
レイヴンが血を吐きながら俺たちを助けにきた、あの不屈の献身も。
彼らが流した血も、涙も、全てが無かったことにされている。
それどころか、彼らは魔王に与した「悪」として、人間の子供たちの心に、無自覚な憎しみと差別を植え付けるための教材として教え込まれているのだ。
俺とカイルの物語は、この六百年の間に、人間至上主義を掲げる聖アルド教国にとって都合の良い、差別を正当化するためのプロパガンダの道具として、完璧に作り変えられてしまっていた。
(カイル……お前がこれを知ったら、何と言うだろうか。お前が寿命を削り、命を懸けて守ろうとしたものは、こんな歪んだ、誰かを迫害するための偽りの平和だったのか?お前が愛した人間たちは、お前の願いを裏切り、共に戦った友の誇りを踏みにじっているぞ)
俺は、体の奥底から、ドス黒いマグマのような怒りが湧き上がってくるのを感じた。
無意識のうちに漏れ出した俺の殺気が大気を震わせ、周囲の気温が急激に下がる。
ガタガタッ!と、露店のテントが不自然な風に激しく揺れた。
「きゃっ! 急に風が……」
「なんだ? 嵐でも来るのか?」
広場の人々が、不安げに空を見上げる。
それが、自分たちが崇めているはずの「聖獣」が放つ、抑えきれない殺気の影響だとは気づかずに。
聖獣? 人間の守護竜?
冗談じゃない。反吐が出る。
俺がこんなくだらない差別や茶番のために、あいつらと命を懸けたと思うなよ。
俺の心に、かつて母を奪われた時に抱いた、人間たちへの黒い炎が再び燃え上がり始めていた。
今すぐ姿を現し、この偽りの石像を粉砕し、街ごと吹き飛ばしてやりたい衝動に駆られる。
だが、ここで俺が怒りに任せて暴れれば、それこそカイルの顔に泥を塗ることになる。それに、無知なだけのこの街の民衆を巻き込むのは、俺のやり方ではない。
『……戻るぞ』
俺はギリギリのところで理性を保ち、風のようにその場を去った。
だが、その青色の瞳には、かつてないほどの冷たい決意の光が宿っていた。
このふざけた「偽りの平和」を、俺自身の手で正さなければならない。
友の誇りを取り戻し、歪められた歴史をぶち壊す。
それが、五百年の時を経て生き残った俺の、かつての友に対する最後の義務だ。




