第四十一話 五百年ぶりの大空
俺が五百年の眠りから覚め、探検家リリと共に、ついに聖域の洞窟から外へと一歩を踏み出した、その瞬間。
世界は、文字通り震えた。
俺の巣があるエルロード山脈の上空を中心に、目に見えない凄まじい魔力の波動が、水面の波紋のように同心円状に大陸全土へと広がっていったのだ。
それは、五百年という永い眠りの間に俺の体内に蓄積され、極限まで凝縮されていた膨大な魔力が、覚醒と共に一気に大気中へと解放された余波だった。
空を覆っていた分厚い雲が一瞬にして円形に吹き飛び、風がざわめき、森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
普通の人間には、「急に風が強くなったな」「少し空気がピリピリする」程度にしか感じられないかもしれない。
だが、魔力に敏感な者たち――高位の魔術師、神官、森の奥に生きるエルフ、そして強大な魔物たちは、その空からもたらされた絶対的なプレッシャーを、肌で、そして魂の底で明確に感じ取っていた。
大陸西部、人間至上主義を掲げる『聖アルド教国』。
その中心地である聖都の最も奥深く、白亜の大理石と黄金で作られた巨大な大聖堂。
ステンドグラスから神聖な光が差し込む「祈りの間」は、教国の頂点に立つ者だけが入ることを許される絶対の聖域だ。
そこで、教皇グレゴリウス七世は、一人静かに祈りを捧げている最中だった。
豪奢な法衣に身を包んだ、小柄で痩せ細った老人。だが、その背中からは、大陸の半分を支配する絶対権力者としての威圧感が漂っている。
その時、彼の老いた身体を、天からの啓示のような、清浄で、それでいて荒々しい魔力の奔流が貫いた。
「……おお……!これは……!」
老教皇はカッと目を見開き、震える手で胸に抱いていた黄金の聖印を強く握りしめた。祭壇の前に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、荒い息を吐く。
「教皇猊下!いかがなされましたか!」
異変を察知し、重厚な扉を開けて数人の枢機卿と近衛騎士たちが慌てて駆け込んでくる。彼らもまた、突然の大気の異常な震えに顔を青ざめさせていた。
「静まれ……!騒ぐでない!」
教皇は彼らを一喝すると、よろめきながらも立ち上がり、ステンドグラスの窓の外、遥か東の空……エルロード山脈の方角を、狂熱を帯びた瞳で見上げた。
「感じるか、お前たち。この清浄にして、雄大なる聖なる風の波動を……! 間違いない……。古文書『聖アルドの預言書』に記されし、我が教国の守護聖獣、風竜ヴァイス様が……」
「せ、聖獣様が、でございますか!?」
枢機卿たちが息を呑む。彼らの教義において、聖獣ヴァイスとは「神の教えに従い、愚かな亜人どもを焼き払う絶対の矛」として描かれている。
教皇の顔には、純粋な信仰心だけではない、自らの野望が成就する時が来たと確信する、狂信的な光が宿っていた。
「五百年の眠りから、ついにお目覚めになられたのだ……!神は、我ら人間を見捨ててはおられなかった!」
「おおお……!奇跡だ!アルド神に賛美を!」
枢機卿たちが床に膝をつき、感涙を流して祈り始める。
教皇は杖を高く掲げ、近衛騎士団長に向かって厳かに、そして力強く命じた。
「直ちに全聖騎士団に通達せよ! 聖獣様をお迎えするための、最大限の準備を整えよ! エルロード山脈へ特使を派遣し、聖獣様をこの聖都へとお導きするのだ!」
「ははっ! 直ちに!」
「……これは、神が我らに与えたもうた、東の穢れた亜人どもを完全に浄化するための『聖なる剣』である! 我らが聖戦の時は、近いぞ!」
聖都の奥深くで、偽りの伝説を信奉する狂信者たちが、歓喜の雄叫びを上げていた。
一方、大陸東部、『アーベル亜人連合』。
かつて魔境と呼ばれた地の東南に位置する巨大な原生林。その中心に聳え立つ、天を突くほどの巨木「世界樹」の根元に作られた円形の議事堂『大樹の都エアレンディル』。
そこでは、獣人、エルフ、ドワーフなど、各種族の代表者たちが円卓を囲み、教国との国境で頻発する小競り合いの対応について、連日のように喧々諤々の議論を交わしていた。
「だから言っているだろう! 教国の奴らがまた国境の森を焼き払ったのだ! 我ら獣人族の戦士団を派遣し、報復すべきだ!」
「馬鹿なことを言うな! 正面からぶつかれば全面戦争になる! 我らドワーフの作った防衛兵器で、国境の砦を固めるのが先決じゃ!」
議長である獅子の獣人が頭を抱え、エルフの長老が冷ややかにため息をつく。いつもの、出口の見えない言い争い。
だが、突如として彼らを襲った、圧倒的な魔力の威圧感が、その喧騒を強制的に黙らせた。
空気が凍りつき、魔力に敏感なエルフの代表者たちが、一斉に顔をしかめて耳を押さえた。
「……なんだ、今のは!?」
「西だ! エルロード山脈の方角から、途方もない質量の魔力が……!」
ドワーフの代表が立ち上がり、議事堂の窓から西の空を睨みつける。
エルフ族の最も年老いた長老が、苦悶の表情で立ち上がり、震える声で呟いた。
「……人間の歴史書に記されている伝説は……真であったか。五百年前、人間の王に与し、我ら亜人の同胞を無慈悲に虐殺したという、あの忌まわしき絶対の力……。あれが、目覚めたのだ……!」
その言葉に、議事堂は水を打ったように静まり返った。
エルフの長老が口にした「忌まわしき力」。それが何を意味するのか、この場にいる全員が知っている。
そして、その静寂は、すぐに怒りと、根源的な恐怖に満ちた怒号へと変わった。
「ば、馬鹿な!人間の伝説の兵器が、なぜ、今になって!」
「教国の奴らめ、ついに我らへの総攻撃を仕掛けるつもりか! あの竜を眠りから人為的に目覚めさせたに違いない!」
「ふざけるな! あの竜が出てくれば、我らが五百年かけて構築した世界樹の魔法障壁など、紙切れ同然だぞ!」
ドワーフの代表が苛立ち任せに分厚い木の机を叩き割り、獣人の代表が毛を逆立てて牙を剥く。
彼らにとって、風竜ヴァイスは救世主などではない。かつて人間と共に魔王軍を滅ぼし、今なお人間至上主義の教国に「聖獣」として崇められている、恐怖の大量破壊兵器なのだ。
「議長!ただちに全軍に最大級の警戒態勢を命じてください!」
「国境の兵力を倍増させろ! 対空用のバリスタを全て西に向けい!」
「『人間の竜』が、来るぞ!!」
大樹の都は、かつてないほどのパニックと、防衛戦への悲壮な決意に包まれていた。
そして、その頃。
当事者である俺は、エルロード山脈の中腹で、ただあくびを一つし、五百年ぶりに外の空気を吸いに出てきただけだった。
ただそれだけのことが、東西二つの大国を、それぞれの思惑と、都合の良い誤解で、大きく揺り動かしている。
もちろん、俺はそんな大騒ぎになっていることなど、知る由もなかった。
「……うーん、空気がうまい!」
俺は、洞窟の外の新鮮で冷たい山の空気を、肺の奥底まで胸いっぱいに吸い込んだ。
体内のマナが爆発的に活性化し、指の先から尻尾の先まで、熱い血が巡って力がみなぎってくるのを感じる。プラチナのように輝く鱗の一枚一枚が、五百年ぶりの太陽光を浴びて喜んでいるようだ。
隣では、リリが俺のあまりの呑気さに、少し呆れたような、しかしどこか安心したような顔をして見上げていた。
彼女の狐耳がピクピクと動いている。
「……あの、ヴァイス様?先ほどのあくびの魔力……。もしかしたら、世界中の国々が大騒ぎになっているかもしれませんよ?」
『知ったことか。我はただ、長い昼寝から起きて伸びをしただけだ』
俺は彼女の懸念を、鼻で笑い飛ばした。事実、ただ起きただけなのだから、文句を言われる筋合いはない。
「はぁ……。さすがは伝説の竜、肝が据わっていらっしゃる……。それで、これからどうなさるおつもりですか?」
『どうする、と言われてもな。とりあえずは、この様変わりした世界を、少し空から見て回るとするか』
俺は眼下に広がる、記憶とは少し違う森や川の形を見下ろしながら、鷹揚に答えた。
そして、ふと思いついて、ニヤリと牙を見せて笑った。
『リリよ、お前、探検家なのだろう? 失われた真実を求めて、世界中を旅してきたと言っていたな』
「はい、一通りは……。西の教国から、東の連合の端まで歩きました」
『ならばちょうどいい。五百年遅れで起きてきたこの浦島太郎の案内に、お前を雇おう。この世界のガイド役を務めよ』
「ええっ!? わ、わたくしがですか!?」
リリは、驚きに狐の耳をぴんと立て、大きな尻尾をパタパタと振った。
彼女は少しの間ポカンとしていたが、やがてその言葉の意味を理解すると、顔を真っ赤にして興奮を爆発させた。
「伝説の守護竜様のガイド……! 探検家として、これ以上の名誉はありません!いえ、ぜひ、やらせてください! このリリ・フォックス、ヴァイス様の目となり耳となって、今の世界をご案内いたします!」
『よし、契約成立だ。行くぞ!』
俺は、四肢に力を込め、巨大な白銀の翼を大きく広げた。
五百年ぶりに、この大地を蹴る。
バサァッ!!
俺の翼は、眠る前よりもさらに大きく、そして魔力を帯びて力強くなっていた。
ひと羽ばたきで強烈な突風が巻き起こり、リリが「きゃあっ!」と、可愛らしい悲鳴を上げて後ろに飛ばされそうになる。
『おっと、すまん』
俺は彼女を、前足の爪で器用にひょいと掬い上げると、自分の広大な背中の、一番風の抵抗を受けない首の付け根あたりにそっと乗せてやった。
『しっかり、俺の鬣に掴まっていろよ。振り落とされても、知らんからな』
それはかつて、この背中に乗った勇者カイルに言ったのと同じセリフだった。俺は、懐かしさに少しだけ目を細めながら、新しい小さな相棒に告げた。
リリは、高度が上がっていく恐怖に顔を蒼白にしながらも、必死に俺の純白の鬣にしがみついた。それでもその金色の瞳は、これから始まる未知の冒険への期待に、キラキラと輝いていた。
「は、はいっ! 準備万端です!」
『よし!』
グルオオオオオオオオオオオッッ!!
俺は、天に向かって、高らかな復活の咆哮を上げた。
その声は、エルロード山脈の雲海を切り裂き、遥か彼方の空まで、どこまでも響き渡っていった。
五百年の眠りから覚めた、伝説の守護竜ヴァイス。
そして、真実を追い求める、若き狐の獣人の探検家リリ。
一人と一匹の、奇妙なコンビによる、新しい世界での冒険の旅が、今、始まった。
俺たちの最初の目的地は、かつて俺の友、カイルが治め、俺が守護竜として崇められていた場所。
今は、人間至上主義の『聖アルド教国』の一部となっている、旧アルマード王国の王都だった




