第四十話 五百年の眠りと目覚め
深い、深い、時の海。
俺の意識は、光も音もない、ただ穏やかな揺らぎの中に漂っていた。
どれくらいの時間が過ぎたのか、まったくわからない。
一年か、百年か、あるいは一千年か。
時間の概念は溶け、過去も未来も渾然一体となった、微睡みの揺り籠。
竜にとって、この深い眠りは生の延長であり、同時に死と限りなく近い、絶対的な安らぎの時間だった。夢すら見ない無の境地で、俺はただ呼吸と共に大気中のマナを体内に取り込み、永い戦いで摩耗した魂と肉体を癒やし、より高次の存在へと作り変えていた。
だが、その永遠にも思えた絶対的な静寂は、突如として終わりを告げた。
チリ……。
まるで鏡のように静かな水面に、一滴の雫が落ちたかのように。
俺の意識の底なしの深淵に、微かな、しかし確かな波紋が広がった。
外部からの刺激。
誰かが、俺の眠る領域に侵入してきたのだ。
(……人間、か?)
最初に浮かんだのは、懐かしくも、常に警戒すべきその種族のことだった。
かつてのように、俺の噂を聞きつけた物好きな冒険者が肝試しにでも来たのか。あるいは、俺の鱗や牙を狙う愚かで命知らずな盗掘者が、この立ち入り禁止の聖域に足を踏み入れたのか。
俺はゆっくりと、重い泥のような眠りから意識を引き剥がし、覚醒の浮上へと向かわせた。
何百年も動かしていなかった巨大な身体の感覚が、指先から少しずつ戻ってくる。休止していた血流が徐々に熱を帯びて再開し、巨大な心臓がドクン、ドクンと力強く脈打ち始める。
まず、聴覚が世界の音を拾い始めた。
ヒュオオオ……と、山の中腹にある洞窟の入り口から吹き込む、乾いた風の音。
静寂の神殿に響く、岩肌から滴り落ちる冷たい水滴の音。
そして、カラン、コロンという、硬いものが石畳を転がる音。
次に、嗅覚が機能を取り戻す。
鼻腔をくすぐるのは、五百年分の積もった埃とカビの匂い。神殿に満ちる、清浄で冷たい発光苔の匂い。
そして、侵入者が放つ、汗と古びた革の匂い。
最後に、微かな、獣の匂いだ。
(獣?魔物ではない。明確な知性と意思を持った者の気配だ)
俺はついに、岩盤のように重い瞼を、ゆっくりと持ち上げた。
青色の双眸が、数百年ぶりに物理的な世界の光を捉える。
俺の視界の先、薄暗い祭壇の下に、一人の小さな影が座り込んでいるのが見えた。
人間くらいの背丈だが、その栗色の髪の間からは狐のような獣耳が覗き、腰からはふさふさとした茶色い尻尾が怯えた犬のように足の間に巻き込まれている。
獣人だ。
俺は、肺いっぱいに溜まっていた五百年分の古い空気を一気に吐き出した。
「…………ふぁぁ…………。よく寝た……」
俺は、大きく顎を開け、限界まで巨大なあくびをした。
グオオオオオオオオオオオオオッ……!!
俺にとってはただの寝起きのあくびだったが、獣人の少女にとっては、それは暴風を伴う咆哮に等しい音圧だった。
地下神殿の空間全体が雷鳴を受けたようにビリビリと震え、高い天井からパラパラと砂埃や小石が落ちてくる。
俺が、五百年ぶりに凝り固まった筋肉をほぐすようにゆっくりと身じろぎすると、体中の関節がゴキッ、バキッという、岩盤が砕けるような重く美しい音を奏でた。
「ひっ……!?ひぃぃぃぃぃっ!?」
俺の足元で、可愛らしい、しかし完全にパニックに陥った悲鳴が上がった。
見下ろすと、先ほどまで「神々しい」とかなんとか言って、涙を流して拝んでいたはずの狐の獣人の少女が、顔面を真っ白にして震え上がっている。
ピンと立っていた狐耳はぺたんと頭に伏せられ、大きな尻尾は足の間に完全に巻き込まれている。
彼女は涙目になりながら、お尻を擦ってズルズルと後ずさろうとするが、足がもつれて全く動けていない。
無理もないだろう。
歴史書の中だけの存在、あるいは石像だと思っていた伝説の怪物が、いきなり目の前で生々しく動き出し、暴風のようなあくびをしたのだ。心臓が止まらなかっただけ、彼女は肝が据わっている方だ。
(やれやれ、ずいぶんと驚かせてしまったか)
俺はまだ半分夢現の頭で、ゆっくりと巨大な鎌首をもたげた。
視界が高くなる。
かつて、カイルやギルバートたちと共に空を翔け、世界を救ったあの日々が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
だが、今目の前で腰を抜かしているのは、俺の知らない若い少女だ。
あの騒がしくも愛おしかった日々から、一体どれだけの時が流れたのだろうか。
俺は青色の双眸を細め、数百年ぶりの小さな客人の姿をじっと見下ろした。
恐怖に震え、涙目になりながらも、彼女は俺から決して目を逸らそうとはしなかった。
その瞳の奥には、恐怖を押し殺してでも真実を知ろうとする、かつての友たちと同じ「探求心という名の強い光」が宿っていた。
『……ここへ何のようだ。小さき者よ』
俺はテレパシーで、静かに、しかし竜としての威厳を持って脳内に直接問いかけた。
頭の中に直接響く重厚な声に、少女はビクリと肩を大きく震わせたが、それでも必死に深呼吸をし、顔を上げて俺の黄金の瞳を見つめ返してきた。
「あ、わ、わ、わたくしは、探検家のリリ・フォックスと申します! け、決してあなた様の財宝を盗みに来たとか、聖域を荒らしに来たとか、そういう不埒な輩ではございません!」
『探検家、だと?』
「は、はい! わたくしは失われた古代の伝説や真実を追い求めて、世界中を旅しておりまして……。五百年前、勇者様たちと共に魔王を打ち破ったという、伝説の守護竜様の伝承を、子供の頃からずっと調べていたのです!」
リリと名乗った少女は、まだ小刻みに震えながらも、その瞳に探求者としての強い輝きを取り戻して、俺に言葉をぶつけてきた。
「まさか、本当にこの神殿が、そしてあなた様が実在していたなんて……!ああ神様!やっぱり間違っていなかった……!」
彼女は恐怖よりも、目の前の奇跡への感動が再び上回ったのか、ぶつぶつと興奮した様子で独り言を続けている。
どうやら本当に、悪意のある侵入者ではないらしい。ただの熱心すぎる歴史オタクのようだ。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
『……ほう。では我は、お前たちにとってまだ「伝説」として語り継がれてはいるのだな』
「もちろんです! 守護竜ヴァイス様と勇者カイル様の物語は、亜人の間では口伝で語り継がれる英雄譚ですから!」
カイル。
その懐かしい友の名を聞いて、俺の胸にちくりと、甘く切ない郷愁にも似た痛みが走った。
『……そうか。あの不器用な男も、有名になったものだ』
俺はゆっくりと巨体を起こした。
洞窟全体が、俺の動きに合わせてゴゴゴ……と地鳴りのように揺れる。積もった埃が舞い上がり、リリがゴホゴホとむせ返る。
『……リリ、と言ったか。探検家よ。教えてくれ。我はどれくらい眠っていた? そして、今の外の世界は、どうなっている? カイルが作った『大陸平和維持騎士団』は、うまくやっているか?』
俺の問いに、リリはむせながらも、はっとした顔で姿勢を正し、探検家の顔に戻った。
「はい! ええと、文献と星の配置から計算しますと……魔王大戦の終結から、正確には五百と二年が経過しております!」
五百年。
俺の予想よりも、遥かに長い時間だった。
カイルも、ギルバートも、ルナミリアも。もうこの世にはいないだろう。彼らのひ孫の、そのまた孫の世代だ。
わかっていたことだが、その事実を改めて突きつけられると、竜の永すぎる寿命が、少しだけ恨めしくなった。
「そして、今の世界ですが……」
リリは少し、言葉を濁した。ピンと立っていた狐耳がぺたりと伏せられ、表情が曇る。
「……正直に申し上げて、あなた様やカイル様が望んだような、良い状況とは言えません。『大陸平和維持騎士団』も、とうの昔に解体されてしまいました」
『解体された? なぜだ』
俺の問いに、リリは悲痛な面持ちで語り始めた。彼女の口から語られた五百年後の世界の姿は、俺が眠りにつく前に思い描いていた未来とは、大きく、そして残酷なまでに様変わりしていた。
「魔王大戦の後、最初の百年や二百年ほどは、カイル様たち英雄の教えが守られ、種族間の平和が続いていたと記録されています。しかし……彼らの記憶が伝説へと薄れるにつれて、人間と亜人の間には、再び古い対立の火種が燻り始めたのです」
『……愚かなことだ。共通の敵がいなくなれば、また身内で争い始めるのは人間の悪い癖だな』
「はい……。そして、決定的な出来事が、約三百年前、起こりました」
リリは拳を強く握りしめ、言葉に怒りを滲ませた。
「大陸の西側に、極端な人間至上主義を掲げる巨大な宗教国家『聖アルド教国』が誕生したのです。彼らは唯一神アルドを信仰し、『人間こそが神に選ばれた、最も優れた種族である』と説きました。そして、エルフやドワーフ、私たち獣人を、『神の教えに従わない、魂の汚れた劣等種族』として、徹底的に迫害し始めたのです」
『……なんだと? 騎士団はどうした。その横暴を止めるための組織だったはずだぞ』
「……教国は、平和維持騎士団の内部にまで入り込み、時間をかけて腐敗させ、内側から解体してしまったのです。そして、騎士団の武力は、そっくりそのまま彼らの『聖騎士団』へと吸収されてしまいました」
俺は絶句した。
カイルが心血を注ぎ、生涯を懸けて守り抜いた騎士団が、あろうことか亜人を迫害する暴力装置へと成り下がってしまったというのか。
「それに対抗するように、迫害された私たち亜人は、大陸の東側……かつて魔王軍の拠点があった魔境の跡地に逃げ込み、種族の垣根を越えた独立国家『アーベル亜人連合』を建国しました」
リリは、小さくため息をつきながら話を締めくくった。
「西の人間、東の亜人。……そして現在、この二つの大国は、大陸を二分する形で、百年にわたる、長い、長い冷戦状態にあるのです」
『……馬鹿なことを』
俺は、思わず低く唸り、吐き捨てた。
カイルたちが、命を懸けて築き上げようとした、共存の未来は結局、人間の愚かな選民思想によって、踏みにじられてしまったというのか。
リリは俺の怒りを感じ取ったのか、少し身を縮こまらせたが、意を決したように顔を上げた。
その狐耳がピクリと動き、皮肉な笑みを浮かべて付け加えた。
「……一つ、ヴァイス様にとって、とても皮肉で、腹立たしいことがあるのですが」
『何だ?』
「その、人間至上主義を掲げ、わたくしたち亜人を迫害している『聖アルド教国』ですが……。彼らが、唯一神アルドの御使いにして、最も偉大な『聖獣』として崇めているのが、誰だかおわかりになりますか?」
嫌な予感がした。背筋が冷たくなる。
『……まさか』
「はい。五百年前に、人間である勇者カイル様を背に乗せ、共に邪悪な亜人どもを焼き払ったという、伝説の守護竜。―――あなた様、ヴァイス様ご自身です」
……はっ。
俺は、思わず乾いた笑いを漏らした。
亜人を「劣等種族」として迫害する人間至上主義の国が、その守護聖獣として、人間ではない「竜」を崇めている。
しかも、俺とカイルが「亜人を討伐した」だと? 魔王軍には亜人もいたが、連合軍にだってエルフやドワーフがいた。それを全部無視して、自分たちに都合よく歴史を書き換えたというのか。
これほど滑稽で、腹立たしく、そして皮肉な話があるだろうか。
人間という生き物は、五百年経っても、その身勝手さとご都合主義だけは、全く変わっていないらしい。カイルが知ったら、草葉の陰で泣くか、あるいは呆れて笑うだろうか。
『……下らん。反吐が出る』
俺が低い唸り声を上げると、リリは悲しげに目を伏せた。
「わたくしも、そう思います。教国の教科書では、エルフもドワーフも、みんな『魔王の手先』だったことにされているんです。……本当の歴史は、もっと優しくて、輝かしいものだったはずなのに」
彼女は、ただの好奇心だけでここに来たのではない。
歪められた歴史を正し、亜人の名誉を回復するための「真実」を探して、一人でこの危険な山を登ってきたのだ。
その小さな体に秘められた、鋼のような意志。
俺は、この獣人の少女が少しだけ気に入った。
『……リリよ』
俺はゆっくりと、四肢に力を込めて立ち上がった。
五百年分の澱んだ空気が動き、神殿の石柱が軋む。
『……少し、外の空気が吸いたくなった。案内しろ』
「えっ……? あ、はい! 喜んで!」
リリは目を輝かせ、パッと立ち上がった。尻尾が嬉しそうに左右に振られている。
彼女は落ちていた松明を拾うと、小走りで先導を始めた。
俺たちは長い回廊を抜け、かつて俺が眠りについた地下から、洞窟の入り口へと向かった。
近づくにつれ、外の光が強くなる。風の匂いが変わる。
そして。
バサァッ……!
俺は洞窟から一歩踏み出し、眩しい陽光の下へと姿を現した。
五百年ぶりの、本物の太陽。
冷たく澄んだ山の空気。土と緑の匂い。
眼下に広がる景色は、俺の記憶にあるものとは少し違っていた。森の形が変わり、遠くに見える街並みも様変わりしている。
だが、空の青さだけは、あの日と変わらず、どこまでも高く広がっていた。
『……ふぅ』
俺は大きく深呼吸をした。
肺いっぱいに満ちる、新しい時代の風。
俺の、五百年ぶりの外出だった。
そしてそれは、俺が再びこの、どうしようもなく愚かで、残酷で、けれど愛おしい世界と、人間たちの面倒ごとに首を突っ込むことになる、新たな旅の始まりの合図でもあった。
挿絵をかなりがんばって描きました。




