第三十八話 過ぎゆく時間と守護竜の眠り
ルナミリアの森を訪れ、美しき精霊の泉で過去の傷跡が癒やされるのを見届けてから、さらに時は流れた。
十数年、二十数年と、平和な時代が確実に、そして静かに積み重なっていく。
人間と亜人、そして魔族の共存。かつてはただの理想論だと嘲笑われていたものが、少しずつではあるが当たり前の光景になっていった。
かつて最大の激戦地であり、おびただしい血が流された『嘆きの平原』は、今では大陸最大の交易都市として栄えているという。人間の商人がドワーフの精巧な工芸品を売り、エルフの美しい織物が魔族の珍しい特産品と交換される。そこはもはや死の平原ではなく、命と活気が交差する希望の街へと変貌を遂げたのだ。
ある暖かな春の日。
カイルはいつものように一人で馬を飛ばして来るのではなく、一台の立派な馬車を引いて俺の元へやってきた。
馬車から降りてきたのは、優しげな栗色の瞳をした一人の女性と、彼女に大事そうに抱かれた小さな赤ん坊だった。
「ここが、カイルさんがいつも話してくれた、ヴァイス様の……」
女性は、見上げるほど巨大な洞窟の入り口と、そこに鎮座する俺の巨体を目にした瞬間、思わず息を呑み、その場に立ちすくんだ。
英雄譚で語られる伝説の守護竜。それを間近で見るのは、一般の人間にとっては雷に打たれるほどの衝撃だろう。彼女は恐る恐る後ずさりしそうになるが、カイルが優しく彼女の肩を抱き、俺の足元へと導いた。
「紹介するよ、ヴァイス殿。俺の妻のアンナと、息子のアルだ」
カイルは照れくさそうに頭をかきながら、はにかんだ笑顔を見せた。
聞けば、アンナはカイルが平和維持騎士団の活動で支援していた、戦災孤児院で働いていた女性だという。戦火で心に深い傷を負った子供たちに対し、どんな時でも分け隔てなく、無償の愛で接する彼女の強さと優しさに惹かれ、カイルは「世界を救った勇者」としてではなく、「一人の不器用な男」として求婚したのだそうだ。
「……お、お初にお目にかかります、偉大なる風竜様。あ、あの、夫がいつも、本当にお世話になっております……!」
アンナは、緊張のあまり声を上擦らせながらも、必死に恐怖を押し殺し、深い敬意を込めて深々と頭を下げた。震える手で、大切に抱いた赤ん坊を少しだけ俺の方へ見せるように差し出す。
その腕の中の赤ん坊、アルが、無邪気な青い瞳で俺を見上げ、巨大な牙や爪を怖がるどころか、小さな両手を精一杯伸ばして「きゃっきゃっ」と声を上げて笑った。
『……小さいな。俺がうっかり大きなクシャミでもすれば、彼方まで吹き飛んでしまいそうだ』
俺は恐る恐る、息を殺すようにして巨大な鼻先を近づけた。
ほんのりと、温かいミルクと日向の匂いがする。俺の吐息一つで命を落としてしまいそうなほどか弱く、しかし、確かに脈打つ新しい命の輝きがそこにあった。
俺の巨大な瞳が優しく細められたのを見て、アンナもようやく肩の力を抜き、ふっと安堵の笑みを浮かべた。
「ああ、本当に小さい。……でも、この小さな命が安心して暮らせる世界を守るためなら、俺は何度だって泥を被れるし、剣を振るえるさ」
そう語るカイルの顔は、かつての魔王と対峙した時の鋭く張り詰めた戦士のそれではなく、ただ純粋に家族を愛する、慈愛に満ちた「父親」の顔になっていた。
俺は、時の流れの速さと、命が巡り、受け継がれていくことの不思議さを感じずにはいられなかった。
それからさらに、長い時が流れた。
カイルが俺の元を訪れる頻度は、公務の忙しさと共に、そして年を重ねるごとに、少しずつ、少しずつ減っていった。
何より、彼自身の身体が、確実に老い始めていたのだ。
ある日の、秋の夕暮れ。
数年ぶりにやってきたカイルは、馬から降りるのにもひどく苦労し、太い木の杖を突いていた。
かつて太陽のように精悍で眩しかった顔には、年輪のような深い皺が刻まれ、燃えるような銀髪はすっかり色を失い、純白の白髪へと変わっている。
だが、その青い瞳の奥の輝きだけは、初めて出会ったあの日の少年のまま、何一つ変わっていなかった。
「……ふう。ここに来るのも、一苦労になってしまったな」
カイルは苦笑しながら、腰をさすっていつもの岩にどっかと座り込んだ。
『無理をするな、カイル。お前はもう、若くはないのだぞ。手紙を送ってくれれば、俺の方から王都へ飛んで行ってやったものを』
俺が心配そうに声をかけると、彼はゆっくりと首を振った。
「ああ、わかっているさ。剣を振るう速度は随分と落ちたし、雨の日は魔将軍にもらった古傷が痛む。……だがな、ヴァイス殿。不思議なことに、心はちっとも老いていないんだよ」
カイルは杖を傍らに置き、遠く夕焼けに赤く染まる山々を見つめた。
「俺たちが血を流して守ったこの世界が、これからどう変わっていくのか。騎士団に入ったアルや、若い世代の奴らが、どんな未来を築いていくのか。それを見届けるのが、今の俺の何よりの生き甲斐だ」
彼は、自らの老いと衰えすらも愛おしむように、楽しんでいるようだった。
人間とは、なんと強く、そして儚く美しい生き物なのだろう。
俺たち竜は、数千年を生きる。肉体は衰えず、記憶も色褪せない。昨日も明日も、数百年後も、同じように続いていく。
だが、人間はわずか数十年で燃え尽き、土に還る。
だからこそ、その限られた時間の中で燃やす一瞬の閃光のような輝きは、これほどまでに俺の心を強く惹きつけるのだろう。
「……ヴァイス殿。君は、これからどうするんだ?」
夕暮れの空を見上げながら、カイルがふと尋ねた。
その穏やかな声には、微かな「別れの予感」が滲んでいた。彼は自らの命の灯火が、そう遠くない未来に尽きることを、すでに悟っているようだった。
「このままずっとこの山で、一人で過ごしていくのか?」
『……そうだ。我は竜だからな』
俺は静かに答えた。
『悠久の時をここで過ごす。お前たちが不器用に、しかし懸命に作り上げるこの世界の行く末を、空の上から静かに見守りながらな』
その答えに、カイルは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、やがて納得したように力強く頷いた。
「……そうか。君らしいな。……頼んだぞ、ヴァイス殿。俺の子供たちが、あるいは人間たちが、いつか平和に驕り、再び道を間違えそうになったら。その時は、遠慮なく空の上から雷を落として叱ってやってくれ」
『ふん。お前が命懸けで残した世界だ。そう簡単に間違うはずないだろう』
「はは、俺の同胞を買いかぶりすぎだ」
二人の笑い声が、夕闇の山脈に静かに吸い込まれていく。
それが、俺たちが言葉を交わした、最後の日となった。
魔王大戦の終結から、およそ五十年が過ぎた。
エルロード山脈に、その年初めての雪が降った凍てつく朝。
俺の洞窟の前に、一頭のグリフォンが降り立った。乗っていたのは、平和維持騎士団の純白の外套を羽織った、青い瞳を持つ筋骨隆々の青年だった。
「……偉大なる風竜、ヴァイス様。突然の訪問をお許しください」
青年は俺の足元で片膝をつき、深く頭を下げた。
その顔立ちには、かつて俺と背中を預け合った男の面影が色濃く残っている。
『……お前は、アルか』
「はい。カイル様の息子、アルでございます」
青年は顔を上げ、悲痛な、しかしどこか誇らしげな声で告げた。
「昨夜……父が、息を引き取りました。母と私の手の中で、眠るように、安らかに」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中に冷たい風が吹き抜けた。
覚悟はしていた。人間の寿命の短さは嫌というほど理解していたはずだ。
だが、いざその「終わり」を突きつけられると、言葉にならない重い喪失感が、俺の全身を縛り付けた。
「父は、最期まで世界の行く末を案じながらも……あなたとの思い出を、嬉しそうに語っていました。『あの不器用な竜に、よろしく伝えてくれ』と。……父の訃報は、世界中に知らされる前に、どうしても一番の親友であるあなたに、直接お伝えしたかったのです」
『……そうか』
俺はゆっくりと目を閉じ、一度だけ、深く長く息を吐き出した。
不思議と、悲しみで暴れたい衝動や、涙は出なかった。
ただ、胸の奥がじんわりと熱くなるような、深く、温かい感謝の念だけが込み上げてくる。
『知らせてくれて感謝する、アル。……お前の親父は、本当に馬鹿で、お人好しで、そして……最高に誇り高い男だった』
アルは俺の言葉に、こらえきれずに一筋の涙を流し、再び深く頭を下げた。
『アルよ。泣くことはない。あいつは為すべきことを成し遂げ、生きたのだ。お前は、その親父の残した平和を、しっかりと繋いでいくがいい』
「はい……! 父の遺志は、俺が……我々が必ず守り抜きます!」
アルがグリフォンに乗って王都へ帰っていく背中を、俺は最後まで見送った。
彼が見えなくなると同時に、俺は自分の身体が、抗いようのない深く、重い眠りを欲していることに気がついた。
竜は数十年、あるいは数百年の周期で、永い休眠期に入ることがある。それは単なる休息ではなく、大気中のマナを体内に取り込み、魂と肉体をより高次の存在へと進化させるための、神聖な儀式だ。
(……そろそろ、潮時か)
俺の心の中にあった「人間という種族への未練」や「世界への執着」は、たった一人の友の死によって、静かに、そして完全に満たされてしまったのだ。
俺が少し目を離しても、もう大丈夫だろう。
アルのような若い世代が、きっと彼らの手で未来を紡いでいく。
俺は、俺の巣の最も奥深くにある、あの古代の神殿へと向かった。
下へ続く階段を降り、苔むした石柱の間を抜け、冷気漂う最深部の祭壇へ。
そこは、外部の音も光も届かない、絶対的な静寂の世界。
俺は巨大な体をゆっくりと横たえ、祭壇の上で丸くとぐろを巻いた。
冷たい石の感触が心地よい。全身の筋肉から少しずつ力が抜け、意識が泥のように重く沈んでいく。
達者でな、俺のたった一人の友よ。
お前と出会い、共に空を翔け、世界を救った日々は、俺の永い竜生の中で、最も短く、そして最も輝かしい一瞬だった。
またいつか、魂の巡るどこかで会おう。
俺は心の中でそう呟くと、静かに目を閉じた。
視界が闇に包まれ、俺の意識は、深く、静かな時の海へと沈んでいく。
俺が眠りについている間も、世界は回り続ける。
やがて、カイルも、ギルバートも、ソロモンも、レイヴンも。長命なルナミリアでさえも。
皆がその天寿を全うし、かつての英雄たちは歴史の彼方へと去り、伝説の人となった。
俺と彼らが紡いだ物語は、吟遊詩人によって歌となり、歴史書に刻まれ、やがて親が子に語り聞かせる、遠い昔のおとぎ話となっていった。
『かつて、世界を救った勇者と、白き竜がいた』と。
そして、人間たちはまた、過ちを繰り返す。
平和な時代が長く続けば続くほど、戦争の痛みと流された血の記憶は薄れていく。
国と国は再び小さな利害で対立し始め、種族と種族の間にも、新たな火種が燻り始める。
英雄たちが命を懸けて守った絆も、時の流れという無慈悲な砂嵐の中で、少しずつ風化していく。
俺が次に目を覚ます、遥か未来。
その世界が、俺が眠りについた時と同じように、平和である保証はどこにもなかった。
意識が途切れる。
夢も見ない、永い、永い、眠りが始まった。
だが、俺は信じている。
いつかまた、風が俺を呼ぶ日が来ることを。
その時まで、おやすみ、世界。
【第一部・魔王大戦編 完】
ー【第二部・偽りの平和と伝説の再臨編】へと続く―




