第三十七話 精霊の泉と過去の傷跡
魔王大戦が終結して数年。世界が復興という名の熱を帯びていく中、俺の日常は、ずっと望んでいた通りの「穏やかで退屈なもの」へと戻っていた。
俺の巣があるエルロード山脈は、今や国定の立ち入り禁止区域『風竜の聖域』に指定されている。名誉欲に駆られた無粋な冒険者たちが、武器を片手に押し掛けてくるような騒々しい日々は、完全に過去のものとなった。
代わりに、山の麓の村人たちが時折、収穫したばかりの瑞々しい果物や、丁寧に血抜きされた新鮮な羊肉を、供物として洞窟の入り口の祭壇に置いていく。
俺は巨体を揺らして巣の入り口まで赴き、彼らが残していった供物を遠慮なく平らげた。
人間たちが手をかけて育てた羊の肉は、野生の魔物のように筋張っておらず、驚くほど柔らかい。食後に籠いっぱいに盛られた林檎を口に放り込み、その甘酸っぱさを噛み締めながら、眼下に広がる人間たちの慎ましい暮らしを見下ろす。
俺が供物を残さず食べることが、彼らにとっては「守護竜様が我々の感謝を受け取ってくださった」という最大の誉れらしく、供物の質は年々上がっていく一方だった。
そんな悠々自適な日々の中で、俺の唯一にして最大の楽しみは、公務の合間を縫って巣を訪ねてくる、たった一人の旧友との再会だった。
「やあ、ヴァイス殿。邪魔するよ」
その日、カイルは一頭の馬に乗って、護衛もつけずに俺の元へとやってきた。
祭壇に残っていた林檎の匂いに苦笑いしながら、彼は慣れた手つきで馬を繋ぐ。そして俺の足元にある岩に腰を下ろすと、革袋の水筒から喉を鳴らして水を飲んだ。
額には汗が滲み、仕立ての良いマントは埃を被っている。
ふと見下ろした彼の手は、かつて聖剣を握りしめていた分厚い剣ダコが少し薄れ、代わりにペンを握り続ける文官特有のインクの染みがこびりついていた。
『お前、また痩せたのではないか? 世界を救った英雄なのだから、王都のふかふかなベッドで少しは休んだらどうだ』
俺が呆れ交じりに念話を送ると、カイルは肩をすくめて苦笑した。
「そうしたいのは山々だが、そうもいかないんだよ。……なにせ、グランツの皇帝陛下から直々に命じられた大仕事だからな。あの覇王のプレッシャーを背負いながら、多種族混合の新しい組織を立ち上げるのは、魔将軍と切り結ぶのと同じくらい骨が折れたよ」
カイルが愚痴をこぼしたのは、彼が初代団長を務める『大陸平和維持騎士団』のことだった。
今やその組織は、人間だけでなくエルフ、ドワーフ、さらには魔族までもが種族の垣根を超えて集う巨大な国際機関となり、国境を越えて紛争の解決や復興支援に尽力しているという。
「魔王がいなくなっても、人の世から争いが完全に消えるわけじゃない。共通の敵が消えたことで、些細な国境の利権争いや、残った魔族への偏見が再び顔を出し始めている。それを武力ではなく、対話と法で鎮めるのが今の俺の仕事だ。俺たちの戦いは、魔王を倒して終わりじゃなかったんだな」
彼の言葉には、理想と現実の狭間で揺れる苦悩が滲んでいた。
悪を切り伏せれば終わる問題ばかりではない。泥臭い政治や人間の醜いエゴに向き合い続けなければならない重圧。今の彼の方が、戦場にいた頃よりもよほど重いものを背負っているのかもしれない。
『……大変だな、人間というのは。短い寿命のくせに、身の丈に合わないものを抱え込みたがる』
「ああ、本当に大変だ。だが……悪くないよ」
カイルは夕陽を受けて輝く自分の手を、そっと見つめた。
「俺たちが守った世界で、人々が泣き、笑い、喧嘩し、そしてまた不器用に手を取り合って生きている。その営みを見ていると、俺もまだ頑張ろうと思えるんだ」
それから俺たちは、日が暮れて夜の帳が下りるまで、他愛もない話をした。
俺が鼻息で小さな火を起こし、カイルが手際よく焚き火を組む。パチパチと爆ぜる火の粉を眺めながら、話題は自然と、遠い地で元気にやっているという「かつての仲間たち」のことへと移っていった。
「そういえば、つい先日、ドワーフの国から大量の新しい農具が騎士団に送られてきてね。手紙には『俺の作った農具で、世界中の荒れ地を畑に変えてやるわ!』って、あの豪快な字で書かれていたよ」
『ギルバートか。あいつ、王になったと聞いていたが、まだ自分で鉄を叩いているのか?』
「ああ。王になってもあの頑固さと職人魂は変わらないらしい。保守的な長老たちをその豪腕で黙らせて、人間との技術交流をガンガン進めているそうだ。……あの力強さには、俺もいつも勇気づけられる」
カイルは焚き火の炎に、戦斧を振るう友の姿を重ねるようにして笑った。
「それから、ソロモン殿からも定期的に魔法通信が来るよ。彼は今、『グランツ帝国魔導学院』の院長として、後進の育成に励んでいるそうだ」
『ほう、あの老骨、まだ元気に階段をダッシュできそうか?』
「ははは、どうだろうな。でも、『魔法は人を殺すためではなく、生かすためにある』と説いて、古代魔法の平和利用や、強力な医療魔法の研究に没頭しているらしい。あの人の頭脳があれば、きっと近いうちに魔法でどんな病も治せる時代が来るかもしれないな」
『……なるほど。それは良いことだ』
俺は深く頷いた。
「そして、レイヴンだが……あいつは表舞台には全く出てこない。だが、俺が裏社会の過激派組織の調査で手詰まりになった時、いつの間にか机の上に、完璧な証拠が揃った羊皮紙が置かれていることがあるんだ。……どこからか、俺たちのことを見守り、掃除をしてくれているんだろうな」
『フッ。相変わらず、影の薄い小賢しい男だ』
カイルの語る言葉の端々から、かつての仲間たちがそれぞれの場所で、平和を維持するための新しい「戦い」を続けていることが伝わってくる。
その事実は、この山から動かない俺にとっても、ひどく誇らしく、心地よいものだった。
やがて、焚き火の火が小さくなり、山の夜風が少し肌寒く感じられ始めた頃。
カイルはふと真剣な顔になり、懐から一枚の封筒を取り出した。
それは紙ではなく、特殊な防腐魔法が施された美しい緑色の葉で作られており、清涼な森の空気を凝縮したような、淡く清らかな魔力を漂わせていた。
「……そうだ、ヴァイス殿。今日君のところへ来たのは、俺の愚痴を聞いてもらうためだけじゃないんだ」
『ん? なんだ、それは』
「ルナミリアからだ。……『あの約束』を果たす時が来たから、俺と君を、彼女の森へ招待したいと」
『約束……? ああ、あれか』
俺の脳裏に、あの泥沼の戦争の最中、嘆きの平原の野営地で彼女がカイルに語っていた光景が鮮明に蘇る。
『もしこの戦いが終わって、平和が訪れたら……私の故郷の森の一番奥にある、精霊の泉を案内してあげる』
かつて人間に森を焼かれ、人間をひどく憎んでいたエルフが、あの夜、静かにこぼした願い。
「彼女は、ずっと一人で森の再生を続けていた。そしてようやく、俺たちを迎え入れられるほどに森が回復したんだと思う。……一緒に行ってくれるか、ヴァイス殿。彼女が、あえて人間の俺と竜の君をあの森へ呼んでくれた意味を、ちゃんと受け止めたいんだ」
カイルの真っ直ぐな瞳に、俺は短く息を吐いた。
『……ふん。人間の勇者と巨大な竜を招き入れるとは、あの小娘も随分と物好きになったものだ。それに、お前のその顔を見れば、断るという選択肢はないのだろう?』
「はは、バレたか」
『まあいい。久しぶりに遠出の羽伸ばしといくか』
俺はゆっくりと巨体を起こし、白銀の翼を広げた。
カイルが火を消し、俺の背の定位置に飛び乗るのを確認する。
そして、力強く大地を蹴った。
巻き起こる突風と共に、俺たちは星空を切り裂き、大陸の南東へ向けて夜間飛行を開始した。
空の旅は、驚くほど静かで穏やかなものだった。
俺の背中で風除けの結界に守られたカイルは、夜が明けて眼下に広がる景色が見え始めると、何度も感嘆の声を漏らした。
上空から見下ろす大陸の景色は、あの絶望的な戦争の最中に見たものとは全く違っていた。
魔王の瘴気が消え去った大地には、人々が耕した黄金色の麦畑がパッチワークのように広がり、再建された街々の赤い屋根が、昇り始めた太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「……上から見ると、世界が生きているのがよくわかるな。あの時は、下ばかり見て、敵を倒すことしか考えられなかった」
『ああ。だが、お前たちが泥にまみれて戦ったからこそ、この景色がある。誇っていい』
「……ありがとう、ヴァイス殿」
そんな語らいをしているうちに、俺たちの眼前に、目的地であるエルフの森の広大な樹海が見えてきた。
魔王軍の進軍ルートから外れていたため、直接的な蹂躙は免れた場所だ。しかし、森の外縁部には、百年前に人間の帝国軍が侵攻し、焼き払った生々しい傷跡が、広大な黒い土の荒野として未だに残されていた。
俺たちは高度を下げ、その黒い荒野と豊かな緑の境界線に静かに降り立った。
「よく来てくれたわね、カイル。それにヴァイスも。長旅で疲れたでしょう」
天を突くほど巨大な世界樹の根元で待っていたのは、戦時中の張り詰めた空気とは見違えるほど、柔らかな表情をしたルナミリアだった。
ゆったりとした淡い緑の衣を纏い、美しい銀髪には名も知らぬ白い野花を編み込んでいる。
「ルナミリア、見違えたよ。……本当に、美しい森だな」
「ええ。ここは私たちエルフにとって、過去の悲しみが眠る場所。……でも、今はほら、新しい命も芽吹いているわ」
彼女が示した足元の黒い土からは、小さな緑の双葉が、力強く顔を出していた。過去の痛みを養分にして、確実に未来が育っている証だった。
「さあ、ついてきて。……人間のあなたと、これほど巨大な竜をこの奥に入れることには長老たちから猛反対もあったけれど、私が押し切ったの。あなたたちは、この世界を救ってくれた恩人なのだから」
ルナミリアの案内に従い、俺たちは森の奥へと歩を進めた。
俺の巨体でも通れるように、森の木々が自らの意思を持つようにスルスルと枝葉を退けて道をあけてくれる。それはかつて人間を拒絶した森が、彼らを許容したことの現れだった。
樹齢数千年とも言われる古木のアーチをくぐり抜けた先。そこには、外の世界とは完全に隔絶された、幻想的な空間が広がっていた。
水晶のように澄み切った、巨大な泉。
その水面には、発光する無数の小さな光の玉――『精霊』たちが、まるで蛍のように楽しげに舞い踊っている。
空気中のマナの濃度が異常に高く、呼吸をするだけで体中の細胞が浄化されていくような心地よさがあった。
「ここが、我が一族が代々守り続けてきた神聖なる場所……『精霊の泉』よ」
「すごい……。こんなに美しい場所が、この世界にあったなんて」
カイルは言葉を失い、ただただその情景に見惚れていた。
すると、泉の上を舞っていた精霊たちが、見慣れない客人であるカイルに気づき、警戒するどころか、興味津々といった様子で彼の周りに集まってきた。
淡い光の玉がカイルの肩に止まり、彼の頬にすりすりとなすりついてくる。中には、俺の巨大な鼻先に乗っかって、くすぐったい光を瞬かせる好奇心旺盛な精霊もいた。
「ふふっ。精霊たちは、魂の綺麗な人が好きなのよ。彼らは、あなたがこの世界を守るためにどれだけ傷つき、そしてどれだけ優しい心を持っているかを知っているの」
ルナミリアはそう言うと、カイルの隣に並び立ち、彼と共に静かな泉を見つめた。
「……昔、この泉で姉様と一緒に遊んだの。人間が森を焼いたあの日、私は人間を永遠に呪うと誓った。でも……あなたたちと出会って、一緒に戦って……」
ルナミリアの緑の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、水面に小さな波紋を作った。
それは悲しみの涙ではない。長きにわたる憎しみの呪縛から解放され、心から平和を享受できたことへの、安堵と喜びの涙だった。
「ありがとう、カイル、ヴァイス。……あなたたちのおかげで、私はまた、人間を信じ、この世界を愛することができるようになったわ」
カイルは何も言わず、ただ優しく彼女の肩を抱き寄せた。
俺はその光景を、邪魔しないように少し離れた場所から静かに見守っていた。
かつて憎しみ合っていた種族が、過去の痛みを抱えながらも許し合い、共に涙を流している。
この光景こそが、俺たちが血を流してまで守り抜きたかった『平和』の真の姿なのだと、俺は強く実感していた。
風が吹き抜け、泉の水面がキラキラと輝く。
俺たちの戦いの果てに手に入れたこの美しい景色を、俺は永遠に忘れないだろう。




