第三十五話 終焉の光
魔王城ゼノギアスが、最後の決戦の余波で震動を始めていた頃。
城の正門へと続く「死の渓谷」の出口では、カイルたちを先へ進ませるために残った二人の勇者が、絶望的な防衛線を死に物狂いで死守していた。
「ハァッ……!ハァッ……!しぶといトカゲ野郎だぜ……!」
ドワーフの戦士ギルバートは、全身を自らの血と敵の返り血で赤黒く染めながら、巨大な戦斧を肩で息をしながら構え直した。
彼の眼前には、九つあった首のうち、すでに七つを切り落とされ、切り口から紫色の猛毒の血を噴き出している巨大な多頭蛇『キング・ヒュドラ』が、怒り狂って残る二つの首を鎌首もたげている。
「ギルバート!右から来ます!」
後方の岩場から、エルフの賢者ルナミリアが悲痛な声を上げる。彼女の白く美しい肌は煤と泥に汚れ、額からは血が流れ落ちていた。
彼女の視線の先では、身長二十メートルに及ぶ全身溶岩の怪物『ラーヴァ・ゴーレム』が、周囲の岩をドロドロに溶かしながら、ギルバートを背後から押し潰そうと迫っていた。
「分かってる!ルナミリア、あいつの足元を凍らせろ!」
「ええ! 『絶対零度の檻』!!」
ルナミリアが、残された己の生命力(固有マナ)を削って世界樹の杖を振り下ろす。
凄まじい冷気がラーヴァ・ゴーレムの足元を包み込み、煮えたぎる溶岩の巨体が「ジュウウウッ!」という激しい水蒸気を上げて急激に冷却され、黒い岩の塊となってその動きを完全に止めた。
「今だ! 砕け散りやがれェェェッ!!」
ギルバートはその一瞬の隙を逃さず、大地を爆発的に蹴り上げた。
彼は自らを砲弾と化して空高く跳躍すると、まずは凍りついたラーヴァ・ゴーレムの胸部に戦斧を叩き込み、分厚い岩の装甲ごと完全に粉砕する。
そして、その崩れ落ちる巨体を足場にしてさらに跳躍し、キング・ヒュドラの残る二つの首に向かって、上段から渾身の力を込めて戦斧を振り下ろした。
「ドワーフの……!意地を見ろォォォッ!!」
ズバァァァァンッ!!
二つの巨大な蛇の首が、交差する一撃によって同時に刎ね飛ばされた。
ドスゥン、という重い音と共に、二体の巨大な怪物が完全に沈黙し、渓谷の出口にようやく静寂が訪れる。
「……やっ、たか……」
着地と同時に、ギルバートは膝から崩れ落ちた。戦斧を杖代わりにして、なんとか倒れるのを堪える。
ルナミリアも魔力枯渇によりその場にへたり込み、荒い息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……。私たち、なんとか、生き残ったわね……」
「ああ。だが、まだ休んでる暇はねえ。カイルと竜の旦那が……」
ギルバートが魔王城の方角へ視線を向けた、その時だった。
―――カッ!!!!
分厚い瘴気の雲を突き破り、魔王城の最上階から、天を穿つような白銀と黄金の「光の柱」が立ち昇ったのだ。
それは、太陽そのものが地上に顕現したかのような、神々しくも圧倒的な破壊の光。
直後、世界が割れるような重低音が響き渡り、強烈な衝撃波が渓谷の出口にまで吹き荒れた。
「な、なんだあの光は……!?」
「凄まじい聖なる力……! まさか、カイルたちが……!?」
光の柱が収束していくと同時に、巨大な黒曜石の塔であった魔王城ゼノギアスが、内側から崩壊を始め、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが見えた。
二人の顔が、驚愕から一転して真っ青になる。
「馬鹿野郎!あいつら、城ごとぶっ壊す気か! おい、ルナミリア、立てるか!?」
「ええ……! カイルたちを、死なせるわけにはいかないわ!」
ギルバートはルナミリアの細い腕を引いて立ち上がらせると、ボロボロの体で、崩壊を始めた魔王城へと向かって全力で駆け出した。
友を救うため、限界を超えた二人の足は、決して止まることはなかった。
一方、その少し前の時間。
魔王城ゼノギアスの最上階、玉座の間。
「ほう……。この期に及んで、まだ何か策があるというのか。面白い」
魔王ゼノンは、満身創痍の俺とカイルの決死のやり取りを、まるで安芝居でも見物するかのように、余裕綽々の態度で見下ろしていた。
一万年という絶望的な孤独と退屈を生き抜いてきた彼にとって、這いつくばった人間と竜の最後の悪あがきは、永遠の中での最高の娯楽に映っているのだろう。
「よいだろう。見せてみよ。貴様らがすがるその『絆』とやらが、我の絶望の前でどれほどの奇跡を起こせるのかをな」
ゼノンが俺たちに、最後の一手を放つためのわずかな時間を与えてくれた。それは、絶対的な強者であるが故の、あまりにも傲慢な油断だった。
そして、俺たちが勝利を掴むための、唯一にして最大の隙だった。
「ヴァイス殿! 俺の聖剣に、あなたのブレスを!!」
カイルが、全身の骨が軋む音を響かせながら、最後の力を振り絞って叫ぶ。
彼はヒビが入り、今にも砕け散りそうな聖剣エクシードを両手で強く握りしめ、俺の口元へと真っ直ぐに掲げた。
俺は、彼の意図を完全に理解していた。
聖剣が持つ、聖なる力を極限まで増幅し、収束させる性質。
俺の風のブレスが持つ、物理的な破壊力と圧倒的な推進力。
この二つを、聖剣を「砲身」のように使って融合させ、魔王の絶対防御である『絶望の帳』のただ一点のみに打ち出すのだ。
しかし、それは理論上は可能かもしれないが、一歩間違えれば制御不能のエネルギーの塊となって暴走し、俺たち自身を飲み込み、この魔王城ごと大陸の一部を消滅させかねない、禁断の合体技だった。
『……いくぞ、カイル!』
俺は覚悟を決め、大きく、深く息を吸い込んだ。
大気中の濃厚なマナ、そして俺の生命力そのものを、喉元の一点に狂気的なまでの密度で凝縮させる。
喉の奥が太陽のように白く、眩く輝き始める。超高圧に圧縮された魔力の熱で、周囲の空間が蜃気楼のようにグニャリと歪んだ。
「聖剣よ、我が魂に応えよ! その身を器とし、聖なる竜の息吹を受け止めよ!」
カイルもまた、自らの残された寿命さえも削り取る勢いで、生命力を聖剣へと注ぎ込んでいた。
耐えきれないほどのエネルギーを流し込まれ、聖剣が悲鳴を上げるように激しく軋む。だが、決して折れることなく、主の想いに応えて黄金の輝きを放ち始める。
そして――。
「「―――今だッ!!」」
竜と勇者、二つの魂が完全に一つになった瞬間。
俺は、掲げられた聖剣の切っ先、その一点だけを狙って、凝縮した全てのエネルギーを光の奔流として解き放った。
俺の純粋な「風」のエネルギーが、聖剣に宿る「聖」なる力と激突し、融合する。
―――世界から、一切の音が消えた。
風が光を巻き込み、光が風を極限まで加速させる。
相反するはずの二つの力は螺旋を描きながら混じり合い、一つの全く新しい、神の鉄槌のような力へと昇華していく。
カイルの聖剣を中心に、巨大な白銀と黄金の光の竜巻が発生した。
それは神々しく、そしてあまりにも破壊的な、終焉の光。
魔王の強大な魔力で維持されていた玉座の間が、その凄まじいエネルギー余波に耐えきれず、瞬時に崩壊を始める。
「なっ……!?これはなんだ……!?この力は……!」
初めて、魔王ゼノンの顔から余裕の笑みが完全に消え去った。
美しき顔に浮かんだのは、焦燥と、そして一万年ぶりに自らの魂を揺さぶる、根源的な『恐怖』。
彼は自らの慢心が、理解不能な怪物を生み出してしまったことに、ようやく気づいたのだ。
「小賢しい真似を……!消えろ、虫けらどもがァッ!!」
ゼノンは絶叫と共に、その身から最大級の闇の魔力を全方位に放ち、迫りくる光の竜巻を飲み込もうとした。
しかし、もう遅い。
「いけええええええええええっ!!」
カイルが、魂を削るような最後の絶叫を上げる。
その声に応え、光の竜巻は魔王ゼノンへと殺到した。
聖竜合一技『聖嵐の極光』。
究極の光と、原初の闇が激突する。
世界の理が悲鳴を上げ、空間そのものに漆黒のヒビが入る。
光が闇を削り、闇が光を喰らおうとせめぎ合う、永遠にも思える数秒間。
そして――。
カッ!!!!
全てを無に帰す大爆発が起こった。
俺の視界は、眩い白一色に染まった。
その光の奔流の中で、絶対の防御を誇っていたゼノンの『絶望の帳』がガラスのように砕け散り、彼の身体が、光の粒子となってゆっくりと崩れていくのが見えた。
「……ば、かな……。この我が……。万年の……妄執が……」
光に包まれながら、ゼノンの顔に浮かんでいたのは、敗北の無念か。
いや、違った。
かつて人間を守り、人間に裏切られ、全てを憎むことでしか己を保てなかった彼の瞳は、今、目の前で命を懸けて友を信じ抜いた一人の青年を見て、ひどく穏やかなものに変わっていた。
「……そうか。私も、もう一度……人間を、信じて……みたかった、な……」
それが、孤独な英雄であり、伝説の魔王であった男がこの世に残した、最後の言葉だった。
俺たちは、勝ったのだ。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
魔王を撃ち抜いた直後、限界を超えた聖剣エクシードはその力を完全に使い果たし、役目を終えたように粉々に砕け散った。
そして、主であるゼノンを失った魔王城ゼノギアスは、彼が制御していた莫大な魔力が暴走し、凄まじい轟音と共に城全体の崩壊を始めたのだ。
ズゴゴゴゴゴ……!!
足場の黒曜石が砕け、太い柱が倒れ、天井が次々と落ちてくる。
カイルは糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。俺もまた、全ての魔力と体力を出し尽くし、巨大な身体は鉛のように重く、指一本動かせない状態だった。
(……ここまで、か)
薄れゆく意識の中で、俺は不思議と穏やかな気持ちでいた。
母さんの仇を討てたわけではない。人間への憎しみが全て消えたわけでもない。
だが、俺はこの世界でかけがえのない友を得て、彼と共に、世界を救うという途方もない偉業を成し遂げることができた。
悪くない竜生だった。
瓦礫が、雨のように降り注ぐ。
俺は、倒れ伏すカイルの体に覆いかぶさるようにして、自分の広い背中を盾にし、最後の力で彼を守ろうとした。
せめて、こいつだけでも生きて帰ってくれ。
そう願って目を閉じた、その時だった。
「諦めんじゃねえええええっ!!」
鼓膜を震わせるような怒号と共に、頭上から俺たちを押し潰そうと降り注いできた巨大な岩塊が、横から叩きつけられた戦斧によって木っ端微塵に粉砕された。
濛々と舞う土煙の中から現れたのは、全身傷だらけで、肩で激しく息をするドワーフのギルバートだった。
「ギル、バート……? どうして……」
「おうよ! 外の化け物どもを一通り片付けて向かおうとしたら、城が光ったかと思ったら崩れ出すんだもんな! 心臓が止まるかと思ったぜ! 遅くなって悪かったな! さあ、帰るぞ!」
さらに、カイルの背後から、ボロボロになった黒装束の男が影のように現れ、動けないカイルの体を軽々と抱え上げた。
魔王の精神攻撃を受け、自我が崩壊しかけるほどの重傷を負って倒れていたはずの、暗殺者レイヴンだった。彼は片足を引きずり、口の端から血を流しながらも、その瞳には執念の光を宿していた。
「……勇者様を、死なせるわけにはいかない。借りは返すと言ったはずだ。……それに、拙者もまだ、死にたくはないのでな」
その横には、自力で歩くことすらままならない大賢者ソロモンの姿があった。彼もまた、魔王の攻撃で内臓を痛めるほどの重傷を負い、折れた杖を松葉杖代わりにしながら、必死にこの場に留まっていたのだ。
「ハハハ……。この老骨に、崩れる城の中で階段ダッシュをさせるとは、人使いが荒すぎますぞ。ですが……若い者には、まだまだ未来を背負ってもらわねばなりませんからな」
そして、降り注ぐ瓦礫の隙間から、優しい緑色の光が差し込んだ。
崩れ落ちる天井を、下から突き上げるように成長した巨大な樹木の根が支え、上空へと続く脱出の道を作っていたのだ。
「まだ、終わらせません……。あなたたちは、この世界の……希望なのですから……!」
階下の吹き抜けから、血を吐きながらも杖を高く掲げ、必死に精霊魔法を維持しているルナミリアの姿が見えた。
仲間たちが、俺たちのために命を懸けて、ここまで来てくれた。
自分たちも立っているのがやっとの重傷のはずなのに、それでも誰一人として、友を見捨てることを選ばなかった。
その熱さが、冷え切っていた俺の心と体に、最後の力を呼び起こさせた。
『……ふん。本当に、世話の焼ける連中だ』
俺は激痛の走る体に鞭打ち、四肢にありったけの力を込めて立ち上がった。
カイルを抱えたレイヴンを、杖をつくソロモンを、そしてギルバートを、自分の広い背中へと促す。
『乗れ!ルナミリアも拾っていくぞ!我ら全員で、生きて帰る!!』
全員が俺の背中にしがみついたのを確認すると、俺は残された全魔力を翼に込め、咆哮と共に、ルナミリアが樹木でこじ開けた天井の穴へと向かって一気に飛翔した。
階下で魔法を維持していたルナミリアを前足でそっとすくい上げ、俺たちはついに城の外へと飛び出す。
崩壊し、巨大な瓦礫の山となっていく魔王城ゼノギアスを置き去りにして、俺は高く、高く舞い上がった。
眼下に広がるのは、崩れ落ちる巨塔の土煙と、主を失って遥か彼方で逃げ惑う魔王軍の残党。
そして、それよりもさらに遠く、嘆きの平原の向こうで、奇跡の勝利に雄叫びを上げる連合軍の兵士たちの姿だった。
分厚い瘴気の雲が、嘘のように晴れていく。
長い、長すぎた戦いの終わりと、新しい時代の始まりを祝福するかのように、空には澄み渡る青空が広がり、遮られていた昼の太陽が眩しいほどの希望の光を降り注いできた。
俺の背中で、気絶しかけていたカイルがゆっくりと目を開けた。
彼は、世界を暖かく照らす本来の陽光を見つめ、そして、俺の首筋の鱗を愛おしそうに優しく叩いた。
「……ありがとう、ヴァイス殿。また、助けられたな」
『礼を言うのはこっちだ、相棒。お前たちがいたから、我は生きている』
言葉は多くはいらなかった。
俺たちは、暖かく澄み渡る光の中で、静かに笑い合った。
ボロボロで、満身創痍で、剣も折れてしまったけれど。
これ以上ないほど、誇らしい姿で。
こうして、世界を絶望の淵に追いやった魔王ゼノンとの、俺たちの長い長い戦いは、ようやく幕を閉じたのだった。




