第三十三話 最終決戦
魔王城ゼノギアスの最上階、玉座の間。
辿り着いたその空間は、冷たい黒曜石の柱が立ち並び、異常なほどの静寂に包まれていた。窓の外は本来なら昼間であるはずなのに、濃密な瘴気によって陽の光は完全に遮断され、まるで深い夜の底のように暗い。
床には、おびただしい数の人間の頭蓋骨がモザイクタイルのように敷き詰められており、カイルたちが一歩足を踏み入れるたびに、カラン、コロンと乾いた音が不気味に響き渡る。
広間の最も奥。巨大なドラゴンの骨を精巧に積み上げて作られた玉座に、その男はゆったりと座っていた。
魔王ゼノン。
その姿は、カイルたちが想像していたような、おぞましい角を生やした異形の怪物ではなかった。
漆黒の髪に、透き通るような白い肌。むしろ神々しいとさえ思えるほどに整った、美しい青年の姿をしていた。
だが、その身から放たれる底なしの闇と、触れるだけで肌が粟立つような絶望のオーラは、彼がこの世界の理の外側にいる、絶対的な捕食者であることを如実に物語っていた。
「……よくぞここまでたどり着いた。褒めてやろう、勇者カイル」
ゼノンは薄い笑みを浮かべながら、まるで旧知の友のようにカイルの名を呼んだ。
「その聖剣の輝き……。ふむ、懐かしいな。数万年前に我に一太刀浴びせた、あの小賢しい初代勇者のものとよく似ている」
「……何?」
カイルはゼノンの言葉に眉をひそめた。
数万年前。それは歴史書にすら記されていない、神話の時代だ。
「ククク……。驚いたか? そう、我こそは貴様らの矮小な歴史書が『原初の魔王』と呼ぶ、その存在よ。数万年の封印など、我にとってはしばしの微睡みに過ぎん」
衝撃の事実に、カイルだけでなく、大賢者ソロモンも暗殺者レイヴンも息を呑んだ。
彼らが今対峙しているのは、ただ強力な魔族の王ではない。人類が一度たりとも完全に滅ぼすことができず、「封印」することしかできなかった最強の災厄そのものなのだ。
「さて、余興はここまでだ」
ゼノンはゆっくりと玉座から立ち上がった。
彼がただ立ち上がっただけで、玉座の間全体が彼の膨大な魔力に呼応して、地震のように激しく震動する。
「貴様らの希望、友情、正義……。その全てをここで根こそぎへし折ってやろう。そして、外で待つあの愚かな竜に見せつけてやるのだ。世界の真の支配者が誰であるかをな!」
ゼノンの身体から、漆黒の魔力が嵐のように噴き上がった。
最終決戦の火蓋は切られた。
「総員、最大警戒! 陣形を組め!」
カイルの号令の下、生き残った十数名の精鋭兵たちが重盾を構え、勇者たちを守るように円陣を作る。
「ソロモン! レイヴン! 援護を頼む!」
「言われるまでもありません! 全属性防御展開!」
「影よ、我が刃となれ! 撹乱する!」
ソロモンが防御魔法と補助魔法を幾重にも展開し、仲間たちの能力を底上げする。レイヴンが無数の影の分身を生み出し、ゼノンの周囲を駆け回って死角から迫る。
「聖剣技、最大奥義! 『聖光爆裂斬』!!」
カイルは初手から持てる魔力の全てを注ぎ込み、最大最強の一撃をゼノンに叩き込んだ。
聖剣から放たれた太陽のごとき光の奔流が、薄暗い玉座の間全体を白一色に染め上げる。邪悪を滅する絶対の光。並の魔将軍ならば、この一撃で灰も残さず消滅していただろう。
しかし――。
「……その程度か? 今の勇者よ」
光が晴れた後。
そこには、指一本でカイルの渾身の一撃を、まるで羽虫でも止めるかのように受け止めているゼノンの姿があった。彼は無傷だった。服の端すら焦げていない。
「なっ……!? 馬鹿な……!」
カイルが信じられないという顔で絶句する。
「では、今度はこちらの番だ」
ゼノンは退屈そうに呟くと、その細い指先から、ビー玉ほどの小さな闇の球体を放った。それはカイルの聖なる光とは対照的な、光さえも吸い込む絶対の闇。
『虚無の終わり(アビス・エンド)』
闇の球体は、ソロモンが展開した何重もの最高位魔法障壁を、まるで濡れた紙を指で突くようにいとも容易く貫通し、盾を構えていた兵士たちの壁に着弾した。
音はなかった。爆発もなかった。
ただ、兵士たちが悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと空間から「消滅」したのだ。
鎧も、肉体も、魂さえも、跡形もなく削り取られた。
あまりに絶対的な力の差。これが、魔王。これが、世界の理を超えた力。
「……くそっ……!」
カイルは、仲間たちのあまりにあっけない死を前に、怒りと無力感に歯を食いしばった。
「諦めるな! ここで倒れれば、外で待つあの不器用な友に顔向けできないだろうが!」
カイルの叫びと共に、絶望的な消耗戦が始まった。
カイルの聖剣が幾度となく閃光を放つ。ソロモンの賢者の石が限界を超えて輝きを増す。レイヴンの影の刃が、闇夜を駆けるようにゼノンの死角を突く。
彼らは持てる力の全てを、知恵の限りを、勇気の全てを振り絞って魔王ゼノンに挑みかかった。
しかし、その攻撃はことごとくゼノンの纏う漆黒のオーラに阻まれ、届かない。逆に、ゼノンが欠伸交じりの気まぐれで放つ闇の魔法の一つ一つが、彼らを確実に追い詰めていく。
「ぐあああっ!」
ソロモンの杖が折れ、防御魔法ごと吹き飛ばされる。老齢の賢者は壁に叩きつけられ、血を吐いて動かなくなった。
レイヴンが影からの奇襲を試みるが、ゼノンの冷たい視線だけで影ごと拘束され、片足を闇に侵食されて膝をつく。
そして、カイルの聖剣エクシードにも、ついに限界が訪れた。
ゼノンの放った黒い雷撃を真正面から受け止めた瞬間、刀身にピシッという嫌な音が走り、亀裂が入ったのだ。
「聖剣が……!」
カイルの手から剣が滑り落ちる。希望の象徴であった輝きが、今は弱々しく明滅している。
「……終わりだ」
ゼノンが冷たく、事務的に宣告する。
彼の右手に漆黒の魔力が凝縮され、身の丈を超える巨大な死神の鎌が形成されていく。
「まずは貴様からだ、勇者。その希望に満ちた小賢しい顔を、絶望に染めて死ぬがいい」
ゼノンの鎌が、カイルの首を刈り取るために高く振り上げられる。
カイルにはもう、それを避ける力も、防御する魔力も残されていなかった。体は鉛のように重く、指一本動かせない。
万策尽きた。
しかし、カイルは目を閉じなかった。その青い瞳は、死を目前にしてもなお、決して絶望の闇に染まることなく、ただゼノンを真っ直ぐに見据えていた。
その瞳の奥にある、他者を信じ抜くという揺るぎない光。
それを見た瞬間だった。
ゼノンの脳裏に、数万年間、重い鎖で心の最深部に封じ込めていた「忌まわしい記憶」が、不意に、鮮烈にフラッシュバックした。
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数万年前の、神話の時代。
この世界がまだ無数の魔獣に蹂躙され、人々が明日の命も知れぬ恐怖の中で暮らしていた頃。
ゼノンは「魔王」などではなかった。彼は、天の気まぐれによって比類なき膨大な魔力を持って生まれた、ただの『人間の青年』だった。
当時の彼は、目の前にいるカイルと同じように、真っ直ぐで青臭い瞳を持っていた。
彼はその強大な力を、人々を守るために惜しみなく使った。荒れ狂う魔獣の群れに単身で飛び込み、自らの身を挺して人々の盾となった。彼が剣を振るえば嵐が起き、彼が魔法を唱えれば魔獣は灰と化した。
彼の活躍によって、長きにわたる人間と魔獣との戦いは終わりを告げ、世界にようやく平穏な時代が訪れたのだ。
人々は彼を『救世の英雄』と讃えた。
王都での凱旋パレードでは、沿道を埋め尽くす群衆が彼に歓声を送り、花吹雪を降らせた。国王は彼を王宮の最奥に招き、彼の手を固く握りしめて涙を流した。
『ありがとう、ゼノン。君のおかげで世界は救われた。君は人類の永遠の友だ。君の功績は未来永劫、語り継がれるだろう』
『もったいないお言葉です、陛下。私はただ、皆が笑って暮らせる世界が見たかっただけです』
ゼノン自身も、心から喜んでいた。自分の持つ異常な力が、愛する人間たちの笑顔を守るために役立ったことが、何よりも誇らしかったのだ。
だが、その平穏な日々は、残酷なほど短かった。
外なる脅威(魔獣)が消え去ったことで、人間の心にぽっかりと空いた穴。そこに、真っ黒な「恐怖」という名の毒が芽生え始めたのだ。
『なあ……ゼノン様のあの力、見たか? 山を一つ、魔法で吹き飛ばしたそうだぞ』
『あのように強大すぎる力を持つ者が、もし我々を裏切ったらどうなる?』
『あいつは本当に我々と同じ人間なのか? いつかその力で、王座を乗っ取る気ではないのか?』
実体のない疑心暗鬼は、平和な空気の中で病魔のように瞬く間に伝染し、膨れ上がっていった。
彼に向けられる視線は、いつしか「感謝」から「畏怖」へ、そして「排除すべき脅威」へと変わっていった。
そして、ある肌寒い秋の夜のこと。
ゼノンは王宮の奥深くで行われた、ごく少数の者だけの特別な祝勝会に招かれた。
かつて彼の手を取り涙した国王が、親しげな笑みを浮かべて、黄金の杯になみなみと注がれた最高級の美酒を差し出した。
『さあ、我らが英雄よ。この平和に乾杯しよう』
『ありがとうございます、陛下』
ゼノンは何の疑いもなく、その杯を煽った。
直後、内臓を焼かれるような激痛が彼を襲った。
「ガハッ……!?」
杯が床に落ちて砕ける。ゼノンは大量の血を吐き、喉を掻きむしりながら膝をついた。致死量の数千倍にも及ぶ、強力な魔法毒だった。
霞む視界の中で彼が見たのは、冷酷な目で自分を見下ろす、かつての「戦友」や「恩師」、そして国王の姿だった。
『な、ぜ……陛下……皆、どうし、て……』
『すまない、ゼノン。君の力は、これからの人間だけの世界には大きすぎるのだ……。君はもはや、人ではなく歩く災害だ』
『恨むなら、己の異常な力を恨むのだな、化け物め』
苦しむゼノンの背中に、信じていた戦友たちの冷たい刃が、次々と容赦なく突き立てられた。
肉体の痛みよりも、心が引き裂かれるような絶望が彼を支配した。
瀕死の重傷を負いながらも、ゼノンはその規格外の魔力を暴走させ、王宮の壁を吹き飛ばして辛くも逃げ出した。
全身から血を流し、這うようにして辿り着いたのは、かつて自らが三日三晩戦い抜き、魔獣から救い出した辺境の小さな村だった。
彼らなら。あの時涙を流して感謝してくれた彼らなら、きっと自分を匿ってくれると信じて。
だが、村人たちは夜の闇に現れた血まみれの英雄を見るなり、安堵ではなく、顔を恐怖に引きつらせた。王都から『ゼノンは国を乗っ取ろうとした悪魔の反逆者。見つけ次第殺せ』という通達が、既に早馬で届いていたのだ。
『来るな! この化け物!』
『悪魔め! 俺たちの村から出て行け!』
手に手に松明や農具を持った大人たちが、殺意を込めて彼を取り囲む。
そして、群衆の中から一人の少女が進み出た。かつて魔獣から助けた際、「ありがとう」と無邪気に笑って花冠をくれた、あの少女だった。
彼女は震える手で、足元の石を拾い上げた。
『あっちへいけっ! バケモノ!』
少女が投げた石が、ゼノンの額に当たった。
生ぬるい血が流れ、視界を赤く染める。
その鈍い痛みは、背中に刺された数十本の刃よりも、ゼノンの心を深く、そして決定的に破壊した。
(……ああ。守る価値など、どこにもなかったのだ)
自分が命を懸けて愛し、守り抜いた人間という種族。
彼らは愚かで、疑い深く、身勝手で、自分より強大な存在を決して許容できない、ひどく醜い生き物だった。
人間への深い絶望と、決して消えることのない憎悪。
それが、一人の優しき英雄の魂を殺し、数万年もの間世界を呪い続ける『原初の魔王』を誕生させたのだ。
______________________________a
「私は……人間という生き物の醜さを、誰よりも知っている!!」
現実へと引き戻されたゼノンは、激昂と共に、過去の幻影を振り払うように叫んだ。
「信じたところで、最後には必ず裏切られる! 人間は恐怖の前に恩義など簡単に忘れるのだ! 貴様のその仲間も、城外にいるあの竜も、いずれ貴様を恐れ、裏切る! だから、そんな真っ直ぐな瞳で私を見るなァッ!!」
ゼノンの放つ絶望の殺気が、玉座の間をビリビリと震わせる。
だが、カイルはその刃から目を逸らさなかった。
彼は、ゼノンの悲痛な叫びの奥にある、数万年の孤独をはっきりと感じ取っていた。
「……あんたも、裏切られたんだな。その、強すぎる力のせいで」
「黙れ! 矮小な人間が、私を理解した気でいるな!」
「ああ、理解なんてできないかもしれない。確かに人間は弱い。恐怖に負けて、過ちを犯すし、恩を仇で返すこともある。……でも、だからこそ!」
カイルは、残された最後の力を振り絞り、折れた聖剣エクシードを再び強く握りしめた。
「俺は、何度裏切られても、もう一度『信じる』ことを選ぶ! あいつらが、あの不器用な竜が、俺を信じてくれたようにな!!」
「戯言をォォォッ!! ならばその綺麗事ごと死ねェ!!」
ゼノンが魔力を振り絞り、カイルの首めがけて死神の鎌を完全に振り下ろした、まさにその瞬間。
カイルは聖剣を天に掲げ、残されたなけなしの魔力を全て、限界まで真上に向かって放出させた。
「今だ……頼む、ヴァイス殿ォォッ!!」
それはゼノンへの攻撃ではない。
城の外で待つ「相棒」への、約束の「合図」だった。
ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!!
直後、頭上から、世界そのものが割れるような重低音が響いた。
ゼノンが驚愕して鎌を止め、天井を見上げた、その瞬間。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
魔王城の分厚く堅牢な天井が、凄まじい轟音と共に外側から完全に爆発四散した。
巨大な瓦礫が雨のように降り注ぎ、ぽっかりと空いた大穴の向こうから、瘴気に覆われた暗い空が剥き出しになる。
そして、その暗雲を切り裂いて、巨大な純白の影が、舞い散る粉塵を巨大な翼で強引に払いのけながら玉座の間に舞い降りた。
ズシンッ!!
着地の衝撃で床の骨が砕け散り、強烈な突風がゼノンを大きく後退させる。
その白銀の鱗は、瘴気の暗闇の中でもなお、神々しく輝いていた。
『随分と待たせやがって。待ちくたびれたぞ、魔王』
重厚なテレパシーの声が、広間全体をビリビリと震わせる。
黄金の瞳が、静かな、しかし確かな怒りを湛えてゼノンを見下ろしていた。
『我が友をいじめるのは、そのくらいにしておけ』
約束を違えず、天災の化身たる風竜ヴァイスが、ついに最後の戦いの舞台に降臨した。




