第三十二話 魔王謁見
魔王城『ゼノギアス』
その眼前に降り立った俺たちを迎え入れたのは、筆舌に尽くしがたい圧巻の威容と、肌を刺すような絶望の気配だった。
巨大な黒曜石を削り出して作られたかのような城全体が、まるで巨大な心臓であるかのようにドクン、ドクンと不気味に脈動し、禍々しい漆黒の魔力を絶えず外へと放出している。ただ近くに立っているだけで、弱い心の持ち主なら精神が蝕まれ、発狂してしまいそうなほどの濃密な悪意が漂っていた。
ふと空を見上げれば、そこには異常な光景が広がっている。
本来なら眩しい太陽が輝いているはずの空は、どす黒い瘴気の雲に分厚く覆われ、昼間だというのにまるで真夜中のように暗い。魔境の中心であるこの場所は、魔王の強大な魔力によって、天候や環境そのものが書き換えられてしまっているのだ。
この光を許さない異常な世界こそが、魔王が望む「混沌」の具現化なのかもしれない。
俺たちは、城の正面に広がる広大な石畳の中庭に、重い着地音を響かせて降り立った。
あれほどの激戦を繰り広げ、死の渓谷を強行突破してきたにもかかわらず、城の周囲には驚くほどの静寂が満ちている。風の音すらしない。まるで、全てを吹き飛ばす台風の、その一番静かな目の中心にいるかのような、不自然で気味の悪い静けさだ。
俺の背中から、カイルたち勇者パーティと、生き残った十数名の精鋭兵たちが、ロープを解いて次々と降り立つ。
彼らの顔には極度の緊張と、二度と帰れないかもしれない死地へ踏み入る悲壮な決意の色が濃く浮かんでいた。
「……静かすぎる」
暗殺者レイヴンが、ダガーを抜き身のまま逆手に構え、周囲を鋭く警戒しながら呟いた。
「これほどの大軍勢を相手にして、近衛兵の一人も迎撃に出てこないとは……。罠か、あるいは我々を舐め切っているのか」
大賢者ソロモンが、油断なく杖を構え直した、その時。
ギィィィィ……
重く、耳障りに軋んだ音を立てて、城の巨大な正門が、まるで巨大な怪物が口を開くかのようにひとりでに開き始めた。
門の奥に続く広間は深い闇に包まれていて、どこまで続いているのか見当もつかない。全てを吸い込んでしまいそうなほどの虚無。
だが、その闇の中から、静かで、しかし魂の芯まで直接響き渡るような一つの「声」が、俺たちの頭の中に語りかけてきた。
『よくぞ来た、人間の子らよ。そして……予想外の客人、白き竜よ』
その声の主が誰であるか、理解するのに時間はかからなかった。
魔王ゼノン。
声を聞いただけで、俺の全身の鱗が本能的な警戒で粟立つのを感じた。これまで俺が対峙してきたどんな歴戦の勇士とも、どんな巨大な怪物とも次元が違う。
それは、世界の理そのものを体現したかのような、絶対的で圧倒的な存在の証明だった。
『我が城の門を叩いた、その無謀な勇気と力を称えよう。さあ、中へ入るがよい。貴様らの最期の願い……この私への謁見を許そう』
それは、紛れもない死の国からの招待だった。
罠であることは明白だ。一歩足を踏み入れれば、あの深い闇の中で一網打尽にするつもりかもしれない。
だが、この招待を断り、尻尾を巻いて引き返すという選択肢は、俺たちには最初から用意されていなかった。
「……行こう」
カイルが聖剣エクシードの柄を強く握りしめ、決然と言い放つ。
「我々の目的は魔王の首、ただ一つだ。相手が待ち受けているというのなら、望むところだ」
彼の言葉に、ソロモン、レイヴン、そして兵士たち全員が、無言で力強く頷いた。
俺もまた、彼らに続いて正門をくぐり、城の内部にある前室のような広間までは入り込むことができた。
だが、俺の歩みはそこまでだった。
広間の先、魔王のいる最上階の玉座へと続く道は、人間用の巨大な螺旋階段になっていたのだ。
(ちっ……さすがにこれは無理か)
人間のように小さく変身できる魔法でも使えればよかったのだが、残念ながら、今の俺にそんな器用な真似はできない。
この全長数十メートルを超える巨体では、無理に階段を登ろうとすれば城の内部を崩落させてしまい、カイルたちまで瓦礫の下敷きにしてしまう。
『……カイル』
俺はテレパシーで、階段へ向かおうとする友の背中に声をかけた。
『我の道はここまでのようだ。これ以上進めば、お前たちを巻き込んで城を崩してしまう。我はここで待機する』
「ああ。分かっている、ヴァイス殿。ここまで送ってくれただけでも、十分すぎるほどの助けだ」
『もし中で何かあれば、外にまで伝わる合図を送れ。その時は、お前たちを巻き込むことも厭わず、外から俺の最大ブレスで、この城の上半分ごと魔王を吹き飛ばしてやる。……だから、安心して暴れてこい』
俺なりの、最大限の激励だった。
俺の最大火力のブレスなら、この城を更地にすることなど造作もない。だが、魔王の防壁や強力な結界がある以上、外からの一撃で確実にゼノンを仕留めきれる保証はない。
確実なのは、カイルの聖剣を、魔王の懐に直接突き立てることだ。
「はははっ、頼もしいな、ヴァイス殿」
カイルは俺を見上げて、死地に向かうとは思えないほど不敵に、そして清々しく笑った。
「だが、その必要はない。俺たちが必ず、あいつにケリをつけてくる。……もし、俺たちが戻らなかったら、その時は遠慮なく頼んだぞ」
『……ああ。任せておけ』
カイルたち、人類最後の希望である突入部隊は、覚悟を決めた足取りで、螺旋階段の闇の中へと吸い込まれていった。
彼らの背中が完全に見えなくなり、足音だけが遠ざかっていく。
俺は一人、静かな広間に取り残された。
冷たい隙間風が、どこからともなく血の匂いを運んでくる。
それはこの長い戦いで散っていった仲間たちの血の匂いか、それとも、これから城の上層で流されるであろう、新たな血の匂いか。
城の中にカイルたちの気配が消えてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
十分か、あるいは一時間か。
極限の緊張状態にある俺の感覚では、時間の流れが泥沼のように遅く、重く感じられた。
聞こえるのは、自分の大きな鼓動と、風が城壁の尖塔を撫でるヒュオオ……という寂しい音だけ。
その静寂を破るように、再び魔王ゼノンの声が、俺の脳内に直接響いてきた。
今度は全体への呼びかけではない。俺個人だけに向けられた、冷たく湿った声音だった。
『……風竜よ。貴様はなぜ、人間どもに与する?』
その声には、嘲りではなく、純粋な疑問が満ちていた。まるで、到底理解不能な数式を見せられた学者のような、深い困惑すら感じさせる。
『貴様ほどの力と寿命があれば、人間どもを滅ぼし、この世界の王として君臨することも容易いはず。全ての富と力を手に入れることもできる。……それなのになぜ、あのような矮小で脆く、平気で裏切りを繰り返す汚らわしい生き物たちのために、その牙を剥くのだ?』
裏切り。
その言葉の響きに、奇妙なまでの重みがあった。
まるで、彼自身がその「人間の裏切り」という毒を、骨の髄まで深く味わったことがあるかのような。
『……貴様には関係のないことだ』
俺は吐き捨てるように答えた。
本当は、俺だって人間が嫌いだった。母の命を、俺の全てを理不尽に奪った彼らを憎んでいた。
でも、カイルと出会い、彼らと共に戦って知ったのだ。人間の中にも、愚かさだけでなく、自己を犠牲にしてまで他者を守ろうとする、眩しいほどの光があることを。
『そうか。「友情」とでも言うつもりか。……くだらんな』
魔王は、鼻でふっと笑った。心底から、俺たちの絆を、そしてかつて同じように何かを信じていた自分自身を嘲笑っているようだった。
『かつて私も、貴様のように愚かな絆を信じていた時代があった。だが、いずれ貴様も知ることになるだろう。信じた刃に背中を刺される痛みを。愛した者たちに石を投げられる絶望を』
魔王の声に、静かだが、ひどく冷たい激情が滲む。
『まあ、よい。ならば貴様のその特等席から見せてやろう。人間たちの束の間の希望が、絶対的な力の前にいかに無力に砕け散るかを。そして、絶望の果てに何があるのかを』
その言葉と共に。
魔王城の最上階にある巨大なステンドグラスが、内側から爆発したかのように一斉に砕け散り、血のように赤い光を放ち始めた。
ズズズズズズ……ッ!!
城の上層から、凄まじい魔力の衝突が、物理的な衝撃波となって一階にいる俺の肌にまでビリビリと伝わってくる。
白銀の聖なる光と、漆黒の邪悪な闇。二つの相反する色が激しく混ざり合い、火花を散らして城を揺らしている。
最後の戦いが、始まったのだ。
俺は、天に向かって大きく顎を開け、喉が張り裂けんばかりに咆哮した。
「グルオオオオオオオオオオッッ!!」
それは敵への威嚇ではない。
城の中で、今まさに世界の命運を懸けて命を削っている友への、不器用なエールだった。
(負けるな、カイル)
お前たちの背後には、この俺がついている。
この戦いが終わったら、またあの馬鹿みたいにキツイ対竜戦闘の稽古の続きをしてやるからな。文句を言いながら、またあの「アップルパイ」とやらの話を聞かせてくれ。
俺は、ただ信じて待つことしかできなかった。
人類の希望を背負った勇者たちの、最後の戦いの結末を。
風が運んでくる血の匂いが、少しずつ、しかし確実に濃くなっていくのを感じながら。




