第三十話 読まれていた奇襲
俺の飛行速度は、嵐の中心を吹き抜ける強風の如く凄まじいものだった。
遥か眼下に広がる魔王軍の防衛線は、瞬きする間に後方へと流れ去っていく。地上から放たれる弓矢も、空を飛ぶ有翼の魔物たちの追撃も、雲海の上を矢のように滑る俺たちには全く届かない。
陽動部隊による総攻撃は見事に成功しているようで、地平線の彼方では激しい閃光と爆音が絶え間なく続いている。だが、高高度を飛ぶ俺たちに気づく者はいない。
「……すごい。本当に、あの鉄壁の防衛線を飛び越えてしまった……!」
背中に乗る特殊部隊の兵士の一人が、眼下に広がる地獄のような戦場を見下ろし、震える声で呟くのが風切り音に混じって聞こえた。
「このまま一気に魔王城まで! ヴァイス殿、頼みます!」
特等席に陣取るカイルが、強烈な風圧に負けじと声を張り上げる。
作戦は完璧に進んでいるように見えた。
遥か前方、魔境の中心に聳え立つ禍々しい黒曜石の城、魔王城の尖塔が、紫色の霞の向こうにぼんやりと見え始めた、その時だった。
「……待て」
超人的な視力を持つ暗殺者レイヴンが、鋭く短い声を上げた。
「ヴァイス殿、速度を落としてくれ。……様子がおかしい」
彼の言葉に、俺は少しだけ羽ばたきを緩め、眼下の地形に意識を集中させた。
そこは、魔王城へと続く最後の難所「死神の喉笛」と呼ばれる深い渓谷。両側を切り立った断崖絶壁に挟まれた、細長い回廊のような地形だ。ここを抜ければ魔王城は目の前だが、上空には魔境特有の濃密な「瘴気の雲」が、低い天井のように分厚く垂れ込めている。
遥か上空へと高度を上げれば渓谷ごと飛び越えられるかもしれないが、空気が薄すぎて背中の人間たちが酸欠で死ぬ。それに、魔王城の懐へ降下する際には、結局あの毒雲の中を突っ切らなければならなくなる。
あの毒雲にまともに触れれば、生身の人間など肉体ごとドロドロに溶かされて即死だ。
つまり俺たちは、この狭い渓谷の中、瘴気を避けて谷底スレスレの低空を真っ直ぐに飛ぶしかルートがないのだ。
だが、その唯一のルートには、致命的な罠が張られていた。
断崖絶壁の上、そして薄暗い谷底。
そこには、無数の黒い影がびっしりと蠢いていた。
漆黒のフルプレートアーマーに身を包んだ、魔王軍の精鋭中の精鋭「黒騎士団」。
彼らは、崖の上には無数のバリスタや対空魔導砲を並べ、谷底には長槍を持った歩兵部隊を密集させて展開し、俺たちを上下左右から完全に包囲する完璧な布陣で待ち構えていたのだ。
「……罠、ですな!」
大賢者ソロモンが舌打ちし、悔しそうに吐き捨てた。
「我らの奇襲作戦は、完全に読まれていたということか……!」
「どうする!? このまま突っ切るか!? いや、しかし、この数では……!」
部隊長の一人が狼狽した声を上げる。
その狼狽を見透かしたかのように、眼下の魔王軍から、一斉に攻撃が開始された。
ドシュッ! ズドンッ!
崖の上からは無数の魔法弾と巨大な鉄杭が降り注ぎ、谷底からは魔法の矢が雨あられと舞い上がってくる。
渓谷全体が、逃げ場のない処刑場と化した。
「ヴァイス殿、回避を!」
カイルが叫ぶ。
『……言われるまでもない!』
俺は舌打ちを一つすると、狭い渓谷の中で巨体を強引に捻り、岩肌を削るスレスレの動きで、降り注ぐ攻撃の嵐を紙一重で回避する。
だが、弾幕の密度が濃すぎる。いくつもの魔法弾がかすり、俺の翼と脇腹を嫌な音を立てて焼いた。
「くっ……!ヴァイス殿、やはり一度高度を上げて雲の上へ!このままでは蜂の巣だ!」
兵士の一人が悲鳴を上げるが、俺は怒鳴り返した。
『駄目だ! 頭上の雲を見ろ。あれはただの雲じゃない、高濃度の瘴気だ。あんなものに飛び込めば、お前らは肉体ごと溶かされて全滅だぞ!』
俺のような強靭な竜種なら耐えられるかもしれないが、背中に乗っているのは生身の人間だ。結界を張ったとしても、視界ゼロの毒雲の中を高速飛行するのは自殺行為に等しい。
被害を抑えるために暴風を起こそうにも、この狭い渓谷で乱気流を発生させれば、背中の人間たちが吹き飛ばされてしまう。
この弾幕の中を、低空で強行突破するしか道はない。
「なるほど、我々を守るためか……!すまない、ヴァイス殿!」
カイルが即座に理解し、指示を飛ばす。
「ルナミリア!ソロモン!全力で魔法障壁を! ヴァイス殿の負担を減らすんだ!」
「「承知!」」
エルフの賢者と大賢者が杖を高く掲げる。
俺の巨体を覆うように、虹色に輝く多重魔法障壁が展開された。
着弾した魔法弾が激しい火花を散らすが、障壁は分厚く、揺らぎもしない。
「ギルバート! レイヴン! 遠距離攻撃で、崖の上の砲台を潰せ!」
「うおおおおおっ! 任せとけェ!」
ドワーフの戦士ギルバートが雄叫びを上げながら、身の丈ほどもある巨大な戦斧を投擲した。斧は回転しながらブーメランのように飛び、崖の上に並んでいた魔道士たちをまとめて薙ぎ払うと、ブォン!と手元に戻ってくる。
レイヴンは影から無数の黒いナイフを生み出し、崖の上で指示を出す敵指揮官の喉元へ正確に撃ち放つ。
背中での攻防が激化する中、俺は正面に集中した。
谷底の奥から、ひときわ巨大な腐臭を放つ影が、翼を広げて舞い上がってきたからだ。
それは、全身が腐敗し、所々骨が剥き出しになった巨大なドラゴンゾンビだった。
その背中には、禍々しい深紅の鎧をまとった魔将軍の一人が騎乗している。
『ククク……。お待ちしておりましたぞ、連合軍の希望の翼、そして勇者御一行様』
魔将軍がテレパシーで、脳髄を舐め回すような不快な嘲笑を送ってきた。
『我が主、魔王ゼノン様は、貴様らがこのような姑息な手を打ってくることなど、全てお見通しよ! この「死神の喉笛」が、貴様らの墓場となるのだ!』
『……ちっ、やはりか』
俺は、目の前のドラゴンゾンビと、上下左右から迫る敵軍を鋭く睨みつけた。
陽動部隊が必死に命を削って稼いでくれたこの好機を、無駄にするわけにはいかない。ここで退くという選択肢は、もはや俺たちにはなかった。
『……おい、勇者ども。覚悟を決めろ』
俺は、背中合わせの仲間たちに告げた。
『我は、このままこの渓谷を正面から突破する。途中で振り落とされて、犬死にだけはするなよ』
俺のその言葉は、彼らの迷いを断ち切るのに十分だった。
「……はは、望むところだ!」
カイルが聖剣を抜き放ち、不敵に笑った。
「皆、続け! 我らの道はヴァイス殿が切り開いてくださる! 目標は魔王城のみ! 死ぬ気でしがみついて戦え!」
「「「オオオオッ!!」」」
勇者と精鋭部隊が、腹の底からの雄叫びを上げる。
『愚かな……!飛んで火に入る夏の虫とはこのことよ!』
魔将軍が、俺たちをあざ笑う。
『その選択が、貴様らの命運を尽かすことになるのだ! 全軍、撃ち落とせ!』
魔将軍の号令と共に、渓谷全体が殺意を持った巨大な顎のように動き出した。
崖の上に陣取っていた黒騎士団が、一斉に対空魔導砲やバリスタを起動させる。
矢や魔法弾だけではない。太い鎖のついた巨大な銛が、四方八方から俺の翼や胴体を狙って撃ち込まれた。
ガギンッ! ズドッ!
十数本の銛が、カイルたちの展開した魔法障壁を無理やり貫通し、俺の白銀の鱗に浅く食い込む。
そして、崖の上の黒騎士たちが鎖をウインチで巻き上げ、俺を物理的に墜落させようと引っ張り始めた。
『ぐぅっ……! 小賢しい真似を!』
四方から引っ張られ、飛行速度がガクンと落ちる。翼の可動域が制限され、思うように動けない。
さらに悪いことに、崖の上から黒騎士たちが、張られた鎖を伝って、あるいはワイバーンに騎乗して、次々と俺の背中めがけて飛び降りてきた。
「乗り込んでくるぞ! 迎撃せよ! ヴァイス殿を守るんだ!」
カイルが叫び、聖剣を振るう。
背中の上は、さながら空飛ぶ船の上での激しい白兵戦と化した。
「させん!『グランド・スマッシュ』!」
ギルバートが戦斧を振るい、着地した黒騎士を鎧ごと粉砕して吹き飛ばす。
ルナミリアとソロモンは、結界の維持と、侵入してくる敵兵への魔法攻撃を同時にこなし、神業のような魔力制御を見せていた。
背中での乱戦が激化する中、正面の谷底から、あの腐敗した巨体、ドラゴンゾンビが急速に接近してくるのが見えた。
まずい、このまま鎖に繋がれた状態では、回避も迎撃もできず、的になるだけだ。
『くそっ、動けん!』
俺が焦りを感じたその時、背中から鋭い声が響いた。
「レイヴン! 右翼の鎖を頼む! 俺は左翼をやる!」
「了解した」
カイルとレイヴンが、左右の翼へと散った。
カイルは聖剣を振るい、光の斬撃で左翼に絡みついていた太い鎖を一刀両断にする。同時に、レイヴンも影の刃で右翼の拘束を断ち切った。
「今だヴァイス殿! 行けぇっ!」
二人の連携によって自由を取り戻した俺は、残った細かい鎖を自らの馬力で引きちぎり、爆発的に加速した。
「邪魔だ、亡霊が!」
一直線に突進する。
腐敗した竜が大きく口を開け、紫色の猛毒ブレスを吐きかけてくる。同時に、背中に乗る魔将軍も長大な魔剣を振り上げ、すれ違いざまに俺の首を狙ってきた。
『甘い!』
俺は翼を強く打ち振り、前方に局地的な突風の壁を作り出す。
毒のブレスは風に押し戻され、ドラゴンゾンビ自身の顔面を覆い尽くした。
敵が怯み、魔将軍の体勢が崩れたその一瞬。
俺は最大加速ですれ違いざま、白銀に輝く右前足の爪を閃かせた。
『死ねェェェッ!風竜ゥゥゥ!』
『散れェェェッ!亡霊がァァァ!!』
魔将軍の絶叫と、俺の咆哮が渓谷に交差する。
ズバァァァンッ!!
「な!?」
空気が裂ける硬質な音と共に、ドラゴンゾンビの腐りかけた首が胴体から綺麗に切り離され、くるくると回転しながら谷底へと落ちていく。
「バ、馬鹿な!我が愛騎が……!」
「ゔああぁぁぁぁぁぁ!!」
魔将軍が驚愕の声を上げるが、もう遅い。
彼は主を失った竜の背中から放り出され、絶叫と共に深い闇の底へと消えていった。
「す、すごい……! あの魔将軍を一撃で!」
「さすがはヴァイス殿だ!」
背中から、兵士たちやカイルの感激の声が聞こえる。
『行くぞ! しっかり掴まっていろ!』
俺は最大の障害物を排除すると、そのまま全身に魔力を漲らせた。風の刃を体の周囲に展開し、身体に食い込んでいた残骸や鎖を一気に吹き飛ばす。
完全に自由になった俺は、速度をさらに上げ、渓谷の谷底スレスレを這うような超低空飛行で駆け抜ける。
俺の翼が巻き起こした暴風が、俺が墜落すると予想して谷底に密集し待ち構えていた黒騎士団の歩兵部隊を、まとめてボウリングのピンのように吹き飛ばし、岩壁に叩きつけていく。
奇襲は読まれていた。
だが、関係ない。
罠だとわかっていても、それを正面から圧倒的な力と仲間との連携で食い破る。それが俺と、俺の背中に乗る最強の勇者たちの戦い方だった。
黒い軍勢の波を切り裂き、俺たちはついに死の渓谷を突破した。
視界が一気に開ける。
目の前に聳え立つのは、天を突く巨大な黒曜石の巨塔。
魔王城は、もう目と鼻の先だ。
しかし、敵もただ黙って城への侵入を許すわけではなかった。
渓谷の出口を抜け、魔王城の城門へと続く薄暗い広場に光が差し込み始めた、その時。
俺たちの行く手を塞ぐように、新たな絶望の壁――三体の巨大な影が、地響きと共に立ち塞がったのである。




