第二十九話 翼の上の勇者と反撃の狼煙
風竜ヴァイスが連合軍に加わったことで、戦場の空気は一変した。
それは単に強大な戦力が一つ増えたという次元の話ではなかった。絶望の淵にあった兵士たちに、「あの天災とも呼べる最強の竜が、自分たちの味方だ」という絶対的な安心感と希望がもたらされたのだ。
兵士たちの士気は最高潮に達し、これまで防戦一方だった戦況は、完全に攻勢へと転じた。
俺の存在は、それだけで魔王軍に対する強力な抑止力となり、彼らは迂闊に大規模な攻勢を仕掛けてこられなくなった。俺が空を飛び、威嚇の咆哮を上げるだけで敵陣は大混乱に陥り、陣形が崩れるからだ。
その隙を逃さず、カイル率いる勇者パーティが前線を食い破っていく。
「今だ! ヴァイス殿が敵の注意を上空へ引いている! 我らも続くぞ!」
カイルが聖剣を掲げ、光の斬撃を放ちながら先陣を切る。
「おうよ! 竜の旦那に良い所を全部持っていかれてたまるか!」
ドワーフのギルバートが、豪快に叫びながら、巨大な戦斧で重装オーガの群れをなぎ倒す。
エルフのルナミリアと大賢者ソロモンが、後方から絶妙なタイミングで広範囲殲滅魔法を放ち、敵の密集地帯を吹き飛ばす。そして、レイヴンが影のように戦場を滑り、魔法の詠唱を邪魔しようとする敵指揮官の喉元を確実に仕留めていく。
彼らの活躍は、上空で旋回している俺が見ていても惚れ惚れするほど鮮やかだった。
『ふん、少しは見れるようになったじゃないか、小僧ども』
俺がテレパシーでからかうように声を落とすと、地上で剣を振るうカイルが、息を切らしながらも笑い返してくるのが気配でわかった。
俺が空から大まかな敵の配置を風で乱し、彼らが地上で確実に仕留める。
言葉を交わさずとも成立する、竜と勇者の完璧な連携。それが、無尽蔵に思えた魔王軍を確実に追い詰めていた。
そして、戦況が膠着し始めた頃。
連合軍の首脳陣は、俺という規格外の戦力を最大限に活用し、この泥沼の戦争を一気に終わらせるための新たな作戦を立案した。
それは、歴史上類を見ない、大胆不敵な奇襲作戦だった。
「――作戦名は、極めてシンプルに『一点突破作戦』と呼称しますぞ」
連合軍の本陣に設けられた、巨大な天幕の作戦司令室。
その中央に広げられた巨大な大陸地図を前に、大賢者ソロモンが、皺だらけの手で杖を握りしめ、静かだが力強い声で説明を行っていた。
「これまでの戦いで、魔王軍は嘆きの平原の東側に、巨大な防衛線を幾重にも構築していることが判明しておりますな。これを、我ら一千万の軍勢で正面から『面』で突破しようとすれば、たとえ勝利できたとしても、多大な犠牲と数ヶ月という時間が必要となるでしょう」
ソロモンは、地図上の赤いライン――魔王軍の絶対防衛圏を杖でなぞった。
そこには、強力な魔法障壁、巨大な堀、そして無数の魔物がひしめいている。
「しかし、ヴァイス殿がいれば、話は別ですな。彼ならば、この鉄壁の防衛線を、遥か上空から一瞬にして飛び越えることができます」
彼の説明に、会議に参加している各国の将軍たちが、ゴクリと息を呑む音が聞こえた。彼らの視線が、期待と畏怖を込めて、入り口から覗く俺の黄金の瞳に向けられる。
「作戦の概要はこうですぞ。まず、我が連合軍の全軍をもって、敵の防衛線全体に対し、陽動の大規模総攻撃を仕掛ける。敵がその『面』の対応に追われ、上空への警戒が手薄になったその一瞬の隙を突くのです」
ソロモンは杖の先を、防衛線の奥、魔王城の位置へとトンッと突き立てた。
「その隙に、ヴァイス殿と我ら勇者部隊が、誰にも止められない一つの『点』となって敵陣の奥深くへ飛翔する。そして、魔王ゼノンという心臓部、ただ『一点のみ』を突破し、首を獲る。これこそが最小の犠牲で、この戦争を終わらせる唯一の道と愚考しますぞ」
そのあまりに大胆な作戦内容に、何人かの将軍が「無茶だ!」「あまりに危険すぎる!」と声を上げた。
敵地のド真ん中に、わずか数十人で突っ込むなど、自殺行為に等しい。
しかし、皇帝ヴァルカンはそれを片手で制した。
「黙れ。無茶でなければ奇襲とは言わん。……続けろ、ソロモン」
「はっ。魔王城の目前に強襲降下した我ら勇者部隊は、陽動部隊が敵の主力を引きつけている間に、手薄になった最短ルートで魔王城へと突入いたします。……私の計算では、この一手を逃せば我々に勝機は万に一つもありません」
静まり返る司令室。
成功すれば、まさに起死回生の一手。しかし失敗すれば、人類最強の戦力である勇者たちを一度に全て失うことになる、ハイリスク・ハイリターンな大博打だった。
「……面白い」
沈黙を破ったのは、皇帝ヴァルカンの、獰猛な笑みを含んだ声だった。
「気に入ったぞ、その作戦。やってみる価値は大いにある。……して竜よ。貴公は、この作戦に乗るか?」
全ての視線が、テントの外にいる俺に向けられているのを感じた。
俺はふぁぁと短くあくびを噛み殺し、テレパシーで簡潔に答えた。
『……我は構わん』
その一言に、場に安堵の空気が流れる。
『背中に何人か、うるさい蠅どもが乗るだけのことだろう。我の飛行の邪魔にならんのならな』
俺の皮肉交じりの返答に、カイルが「はは、蠅とは手厳しい。振り落とされないよう、しっかりと捕まっておかないとな」と苦笑する気配がした。
こうして、最終決戦の狼煙となる『一点突破作戦』は、正式に承認された。
決行は三日後。
その三日間の猶予は、出撃する者たちにとって、奇妙なほど静かで、研ぎ澄まされた時間となった。
俺の寝床となっている本陣裏手の空き地には、勇者パーティの面々が入り浸るようになっていた。
彼らは俺の背中にどうやって乗るか、どこに捕まれば魔法の詠唱や弓の射撃がしやすいかなど、本番を想定したシミュレーションを繰り返していた。
「おいおい、竜の旦那の鱗はツルツル滑って、ドワーフの短い足じゃ踏ん張りが利かねえぞ! なんか滑り止めを塗れねえか!?」
『我の美しい鱗に松脂なんか塗ってみろ。その場で振り落として踏み潰すぞ、ヒゲだるま』
「ヒゲだるま!? なんだと、俺様の自慢の髭を馬鹿にしやがって!」
俺の背中の上でワーワーと騒ぐギルバートを、ルナミリアが冷ややかに窘める。
「静かにしなさい、ギルバート。ヴァイスは繊細な生き物なのよ。……ねえ、ヴァイス。この背中の大きな角と、その間に生えている白い鬣に魔法のロープを回せば、鞍のように固定できそうだけど、痛くないかしら?」
『……まあ、鬣を数本引っ張られるくらいなら、別に構わん』
「ありがとう。随分と立派な毛並みね。……なんだか、とても温かいわ」
ルナミリアは俺の純白の鬣にそっと触れ、まるで希少な動物を慈しむように目を細めた。
以前の彼女なら、人間はおろか俺のような魔物に対しても氷のような視線を向けていたはずだが、カイルとの夜の対話を経て、彼女の声音には明らかに柔らかい響きが混じるようになっていた。
その様子を、少し離れた岩場に座って剣を磨いていたカイルが、微笑ましそうに見つめている。
「良い仲間を持ったな、カイル」
ふいに、気配を消していたレイヴンが、カイルの背後の木陰から声をかけた。
「ああ。最初はバラバラだったけど、今は……彼らとなら、どこへでも行ける気がするよ。もちろん、ヴァイス殿も一緒にな」
「……拙者もだ。あの死の渓谷を抜けるのは至難の業だが、このメンバーなら、必ず魔王の首に刃が届く。……主よ、拙者の背中はお任せを」
「頼りにしているよ、レイヴン」
カイルは磨き上げた聖剣を鞘に収め、空を見上げた。
明日には、あの空を飛び、死地へと赴く。
恐怖はない。あるのは、必ずこの世界に朝日を取り戻すという、静かで熱い決意だけだった。
そして、決行の朝。
東の空が白み始めると同時に、俺は連合軍本陣の中央広場に伏せていた。
この日、俺は生まれて初めて、自分の背中に人間を乗せるという経験をすることになった。
乗客は、五人の勇者パーティと、選りすぐりの精鋭魔法兵士、合わせて三十名ほどだ。
俺の背中から首にかけては、氷柱のように鋭く頑丈な角がいくつも連なって生えており、その隙間には、強靭で長い純白の鬣が密生している。
兵士たちはルナミリアの案の通り、その巨大な角を支柱にし、太い鬣の根本に丈夫な魔法のロープを回して、即席の鞍のように自分たちの身体を固定していた。
「おい、しっかり結べよ! 空の上で落っこちたら笑い事じゃねえぞ!」
「ひぃ……高所恐怖症にはキツイ任務だ……」
兵士たちが緊張で青い顔をしながら準備を進めている。
俺の鱗の上を人間が歩き回る感覚は、なんともくすぐったく、奇妙なものだった。
「ルナミリア、ロープの具合はどうだ?」
「問題ないわ。私の魔法で補強もかけてある。……カイル、無理して前に出すぎないでよ。私の治癒魔法が届く範囲にいて」
「ああ、分かっている。……ありがとう、ルナミリア」
二人の間に流れる、種族を超えた信頼と、かすかな温かい空気。
「……ヴァイス殿、準備は整った」
やがて、カイルが俺の頭部、巨大な二本の角の間に設けられた特等席に陣取り、俺の硬い額をポンと叩いて合図した。そこは一番風圧を受けるが、視界を遮るものがなく、戦況を最も把握しやすい場所だ。
カイルの視線の先には、眼下に広がる連合軍一千万の陣営、そしてその向こうに広がる、朝日を浴びて不気味に沈黙する魔王軍の黒い大地が見えている。
「ヴァイス殿の翼に乗って、戦場を飛ぶ日が来るなんてな……。運命とは、本当にわからないものだ」
カイルが感慨深げに呟く。
かつては剣を交え、命を奪い合ったかもしれない相手。それが今、背中を預け、一つの目的のために飛ぼうとしている。
『ふん。感傷に浸るのは、勝って生きて帰った後にしておけ。しっかり、俺の鬣につかまっていろよ。振り落とされても知らからな、勇者』
俺が憎まれ口を叩くと、カイルは楽しそうに笑った。
「ああ、肝に銘じよう。頼んだぞ、俺の相棒」
相棒。
その言葉が、俺の胸の奥をじんわりと温める。悪くない響きだ。
やがて、作戦開始の刻限が来た。
連合軍の陣地から、開戦を告げる巨大な角笛の音が、腹の底に響く重低音となって鳴り響いた。
ブォォォォォォォォォォォッ!!
「「「うおおおおおおおおおおおおっ!!」」」
一千万の兵士たちが、大地を揺るがす鬨の声を上げ、魔王軍の防衛線に向かって、怒涛の進撃を開始する。
砂煙が舞い上がり、魔法の閃光が飛び交う。
陽動は、始まった。敵の注意が、地上の大軍勢に釘付けになる。
『……行くぞ』
俺は、背中の勇者たちに短く告げた。
『舌を噛むなよ!』
俺は強靭な後足で大地を思い切り蹴り、巨大な白銀の翼を天に向かって力強く羽ばたかせた。
バサァッ!!
凄まじい風圧と共に、身体がふわりと浮き上がる。
次の瞬間、強烈なG(重力)がかかり、俺の巨体は矢のように空へと射出された。
「うおおおおっ!?」
「す、すげえええええ!!」
背中の兵士たちから、驚きと興奮、そして恐怖が入り混じった絶叫が上がるのが聞こえた。
俺は自ら生み出した上昇気流を捕まえ、ぐんぐんと高度を上げていく。
地上の兵士たちが豆粒になり、広大な戦場が箱庭のように小さくなっていく。
湿った雲を突き抜けると、そこには突き抜けるような蒼穹と、眩しい太陽が広がっていた。
どこまでも続く青の世界。
ここが、俺の領域だ。
俺は翼を大きく広げ、気流に乗って安定飛行へと移行した。
そこから一気に機首を東へ向け、敵陣の奥深く、魔王城を目指して滑空を開始する。
俺の翼が風を切り裂き、美しい白い航跡雲を描く。
背中には、人類の希望を乗せて。
世界の運命を賭けた、人類最大の反撃の狼煙が今、高らかに上げられたのだ。




