第二十七話 天災、降臨す
嘆きの平原を満たしていたのは、連合軍兵士たちの絶望に満ちた悲鳴と、魔王軍の勝利を確信する忌まわしい哄笑だった。
超巨大ゴーレムを用いた「トロイの木馬」作戦。それは、これまでの膠着状態を一瞬にして覆し、戦局を決定づける最悪の一手となる。
堅牢を誇ったはずの連合軍本陣は内側から容赦なく食い破られ、指揮系統は完全に寸断されてしまった。
指揮官を失った兵士たちは統率を失い、烏合の衆と化して逃げ惑うばかり。それを魔王軍の精鋭たちが、まるで脆弱な獲物を狩り立てるかのように、愉悦の表情を浮かべながら追い詰めていく。
「ひぃっ、来るな! 助けてくれぇぇ!」
「陣形を組め! 逃げるなァッ!」
怒号と悲鳴が入り混じる戦場のあちこちで、希望の灯火が次々と踏み躙られ、消えていく。
人類最後の希望であったはずの五人の勇者たちも例外ではない。敵の巧妙な分断工作によって完全に孤立し、四方八方から幾重にも包囲されていた。
カイルたちは、押し寄せる敵の黒い波をかき分け、何とか合流しようと試みる。だが、倒しても倒しても際限なく湧いてくる新たな増援に阻まれ、歩みを進めることすらままならない。
「はぁ……はぁ……! キリがない!」
カイルの振るう聖剣がオークの首を宙に舞わせた直後、死角から別の槍が鋭く突き出される。それを弾き返す腕は、既に鉛を詰め込まれたかのように重かった。
周囲には、必死に抗い、そして散っていった兵士たちの屍が、無残な小山を作っている。
「カイル! ここはもうダメだ! お前だけでも逃げろ!」
血まみれになったギルバートが、迫りくるオークの群れをその分厚い巨体で受け止めながら叫んだ。自慢の頑強な鎧はボロボロに砕け散り、片目は流れ出る血で完全に塞がっている。
「そうよ! 勇者であるあなたさえ生き残れば、人類にまだ希望はあるわ!」
ルナミリアもまた魔力が尽きかけ、蝋のように蒼白な顔で叫ぶ。彼女の放つ防御魔法の光は、風前の灯火のように今にも消えそうに明滅していた。
「馬鹿なことを言うな! 仲間を置いて、俺一人逃げてどうする!」
カイルは血を吐くような声で叫び返すが、その悲痛な響きは魔王軍の爆音にかき消されてしまう。
どうにか包囲網を突破しようと、彼らが西へ向けて駆け出した、まさにその時だった。
ズンッ……!
彼らの行く手を塞ぐように、それは音もなく、しかし確実な「絶望」という質量を伴って舞い降りた。
遅れてやってきた重い地響きが、逃げ場のない震えとなってカイルたちの足元を突き上げる。巻き上がる砂塵の幕を切り裂いて現れたのは、周囲の光を全て吸い込むほどに深い、漆黒の甲冑に身を包んだ異形の巨人であった。
その背から蜘蛛の脚のように這い出す、六本の太い剛腕。それぞれの拳には、見る者の精神を削り取るような禍々しい魔剣が、飢えた獣のごとく握られている。
魔王軍最高幹部が一人、魔神将『六道の阿修羅』。
その存在そのものが、有無を言わさぬ死の宣告に等しかった。
「ククク……逃げ惑う鼠どもが。どこへ行こうというのだ?」
魔神将の這いずるような低い声が、鼓膜ではなく、直接脳髄を撫で回すような不快な圧迫感を持って彼らを襲う。
「貴様らが人類の希望か? 笑わせる。所詮は叩けば砕ける、脆い肉の塊ではないか」
「くっ……!」
カイルは聖剣を構えようとするが、全身からごっそりと力が抜けていくのを感じた。連戦による極度の疲労と、完全な魔力枯渇。立っているのがやっとの状態で、まともに剣を振るえるはずもない。
「無様だな、勇者よ。貴様の首は、魔王様への最高の手土産になるぞ。丁重に切り落としてやるから、感謝するがいい」
魔神将が、六本の腕を一斉に振り上げる。
それは逃げ場のない、六つの処刑の刃。
「主を……守る!」
レイヴンが影から飛び出し、最後の力を振り絞って奇襲をかけようとする。だが、魔神将は振り返りもせず、裏拳で羽虫を払うかのように彼を一撃で吹き飛ばした。
「ぐはっ……!」
「レイヴン!」
ソロモンが杖を掲げて障壁を展開しようとするが、魔力が足りず、空中で儚く霧散してしまう。
カイルは奥歯を噛み砕くほど強く食いしばり、最後の気力を振り絞って聖剣を突き出そうとした。
だが、指に力が入らない。剣の重さに耐えきれず、切っ先がガツンと重い音を立てて地面に落ちる。聖剣を杖代わりにして、なんとか倒れるのを堪えるのが精一杯だった。
(……ここまで、か)
カイルは天を仰いだ。
絶望を映す灰色の空が、無力な彼を冷たく見下ろしている。
何も守れなかった。人類の未来を、信じてくれた王を、仲間たちを。ガントのような、名もなき兵士たちを。
そして――。
(ヴァイス殿。俺は、貴公との約束すら守れず、こんなところで……)
魔神将の六本の剣が、処刑人の斧のように無慈悲に振り下ろされる。
刃に反射する冷たい太陽の光が、カイルの目に残酷なほど眩しく映った。
誰もが連合軍の、そして人類の完全な敗北を確信した、その時である。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!!
突如として、戦場の空気をビリビリと震わせる、巨大な何かが空を引き裂く轟音が響き渡った。
それは雷鳴よりも低く重く、魔法の爆発音よりも遥かに鋭い。
敵も味方も、振り下ろされようとしていた魔神将の刃さえもピタリと止まり、誰もが本能的な恐怖に駆られて空を見上げた。
本来、恐怖という感情を持たないはずのアンデッド兵たちでさえ、その魂の根源を揺さぶるような圧倒的な音圧に動きを止めてしまう。
そこにいたのは、分厚い絶望の雲を突き破り、一筋の太陽の光を背負って一直線に降下してくる、一頭の巨大な竜だった。
白銀の鱗が神々しく輝き、広げられた巨大な翼が、戦場の一部を完全に影で覆い尽くす。
「……な、なんだ、あれは……!?」
「ドラゴン……!? 魔王軍の新たな増援か!?」
連合軍の兵士たちが、さらなる絶望に顔を染め、悲鳴を上げる。
一方、敵の刃を目前にしていたカイルは、その竜の姿を見るなり、信じられないというように青い瞳を見開いた。そして、震える唇でその名を呼ぶ。
「……ヴァイス、殿……? なぜ、あなたが、ここに……」
誰よりも驚愕していたのは、獲物を仕留める寸前だった魔神将であった。
振りかぶった六振りの魔剣が、その勢いのまま空中で滑稽なほどに凍りついている。
「なっ……ドラゴンだと!? バカな、なぜこんなところに!?」
六本の腕が動揺に激しく揺れ、漆黒の甲冑の奥にある瞳が、ヴァイスの圧倒的な巨躯を見上げて限界まで見開かれる。
完璧だったはずの魔王軍の進撃ルートに、突如として現れた規格外の「白い壁」。
魔神将の冷徹な仮面は、予期せぬ乱入者への剥き出しの困惑によって、無残に剥がれ落ちていた。
俺は、混乱の極みにある戦場の上空を、悠然と滑空した。
ドラゴンの圧倒的な動体視力は、眼下の戦況の全てを一瞬にして把握する。
勇者たちが孤立し、包囲されている中央部。
指揮官たちが殺されかけ、パニックに陥っている本陣。
そして、最も重要な補給部隊が、魔王軍の別動隊に襲われ、火を放たれている後方。
状況は最悪だ。あと数分俺の到着が遅ければ、人類の歴史はここで終わっていたかもしれない。
だが、間に合った。
(……やれやれ。世話の焼ける友人を持ったものだ)
やるべきことは決まっている。
まずは手始めだ。
俺は、勇者たちを何重にも取り囲んでいる魔王軍の精鋭部隊の、さらにその上空で静止した。
大きく息を吸い込む。
大気中のマナが、凄まじい渦を巻いて俺の喉元へと収束していく。
そして俺は、地上に向かって咆哮した。
それは攻撃のためのブレスではない。
ただ、俺の明確な「意思」を込めた、純粋な「声」。
しかし、風竜の王たる俺の声は、それだけで世界の大気を支配し、操る絶対的な力を持つ。
『我が友に手を出すな、雑兵ども』
俺のテレパシーが、戦場にいる数十万、数百万の者たち全ての脳内に、落雷のように直接響き渡った。
その声と同時に、俺を中心とした半径数キロの空気が、巨大な渦を巻き始める。
雲が強制的に引き寄せられ、風が唸りを上げ、大気が悲鳴を上げる。
俺が呼び起こしたのは、魔法というスケールに収まるものではない。抗うことすら許されない、圧倒的な「天災」だ。
直径数百メートルにも及ぶ、黒い巨大な竜巻が形作られる。
竜巻は、俺の意思に従い、まるで巨大な大蛇のようにうねりながら、勇者たちを囲んでいた魔王軍の部隊のちょうど中心へ、ピンポイントで降下した。
「ぎゃああああああ!」
「な、なんだこれは!? 風が……!」
「うわあああ! 空に吸い込まれるぅぅぅ!」
魔神将も、重装歩兵のオークも、空を飛ぶデーモンも、自然の圧倒的な暴力の前にはなすすべもなかった。
彼らは枯れ葉のように竜巻に巻き上げられ、数百メートルの空高くへと無慈悲に放り出されていく。
俺の気流操作は極めて精密だ。中心にいるカイルたち勇者パーティの周囲だけは、そよ風が吹く程度の安全な「台風の目」として残してある。
ほんの数十秒。
たったそれだけで、勇者たちを絶体絶命の窮地に追い込んでいた数千の魔王軍精鋭部隊は、物理的に空の彼方へと排除され、跡形もなく一掃された。
遥か彼方の空で、小さな点となった彼らが落下していくのが見える。この高さだ、地面に激突すれば確実に即死だろう。
戦場が一瞬、水を打ったように静まり返った。
敵も、味方も、今目の前で起きた理不尽な光景が信じられず、ただ呆然と空に浮かぶ俺の白銀の姿を見上げている。
俺はそんな彼らを尻目に、次の目標へと視線を向けた。
あの、戦場を蹂躙し続ける、忌々しい超巨大ゴーレムだ。
勇者たちを包囲していた数千の軍勢を一瞬で吹き飛ばした俺は、その余韻に浸ることなく、次なる標的へと翼を向ける。
戦場の中央に鎮座し、未だ連合軍への蹂躙を続けている鉄の巨塔。
俺がゴーレムに接近すると、その岩山のような巨体から、無数のハッチが一斉に開いた。
内部に搭載された自動防衛システムが、新たな脅威である俺を認識したのだ。
ズドドドドドドドッ!!
無数の砲門から、赤黒い魔力の光弾や、対空用の巨大な鉄杭が、雨あられと俺に向かって放たれる。
その弾幕の密度は凄まじく、空を黒く染め上げるほどだ。まともに受ければ、いかに俺の白銀の鱗と言えど、ただでは済まないだろう。
だが、そんな無粋な鉄屑の射撃ごときが、風の王である俺を捉えられるはずがない。
俺は空中で翼をわずかに傾け、気流を操作する。
身体を包む風のベールが、迫りくる光弾を滑るように受け流し、軌道を逸らしていく。鉄杭は風圧によって叩き落とされる。
俺は弾幕の隙間を縫うように、まるで優雅なワルツでも踊るかのように、高速で接近していく。
そして、ゴーレムの巨大な頭部と同じ高さまで一気に飛翔すると、その眼前に静止した。
至近距離で見ると、その装甲の厚さと、込められた魔力の強固さがよく分かる。アダマンタイトと魔法障壁の多重装甲。これでは、人間の魔法や投石機が通じないのも無理はない。
外側からの普通の攻撃では傷一つ付かないだろう。
ならば、どうするか。
答えは簡単だ。
外が硬いのなら、中から壊せばいい。
俺は、大きく息を吸い込んだ。
肺に、喉に、そして体内の魔力炉に、周囲のマナを極限まで取り込む。
カイルとの戦いでも見せなかった、俺の真の力がこもった、最大最強のブレス。
「消えろ、鉄屑が。『絶空・嵐牙咆哮』!!」
俺の口から放たれたのは、もはや風や竜巻などという生易しいものではなかった。
それは、極限まで圧縮され、物理的な質量すら帯びた、白く輝く超高密度の「空気の槍」。
ブレスは音速を超え、ゴーレムの顔面装甲のわずかな隙間、外部監視用のスリットへと正確に突き刺さった。
ヒュォッ……
一瞬、音が消えた。
ブレスは装甲を貫通するのではなく、液状化するように隙間から内部へと侵入したのだ。
そして、ゴーレムの密閉された内部空間で、圧縮された莫大なエネルギーが一気に解放される。
ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!!
内側からの超高圧によって、山と見紛う巨体が風船のように膨張し、次の瞬間、木っ端微塵に砕け散った。
分厚いアダマンタイトの装甲が紙切れのように内側から引き裂かれ、内部の歯車や魔力炉が粉々になって四方八方へ飛び散る。
その爆炎と破片が、雨のように地上へと降り注ぐ。
逃げ惑う魔王軍の兵士たちの上に巨大な金属片が落下し、彼らを次々と押しつぶしていく。
その光景はあまりにも幻想的で、そして敵である魔王軍にとっては、あまりにも絶望的だった。
竜巻による精鋭部隊の殲滅。
そして、一撃による超巨大ゴーレムの完全破壊。
たった一頭の竜の出現が、ほんの数分で、戦場のパワーバランスを完全にひっくり返してしまったのだ。
「う……うぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「竜だ! 竜が俺たちを助けてくれたぞ!」
「勇者様の味方だ! 反撃だ! 押し返せぇぇぇぇ!」
呆然としていた連合軍の兵士たちは、絶望から一転、狂喜乱舞し、歓喜の雄叫びを上げた。
士気は最高潮に達し、彼らは再び武器を取って魔王軍へと殺到する。
「うぉぉぉ! 人類の仇だ!」
「あいつらの分まで、ぶちのめしてやる!」
冒険者たちが、ガントたち死んでいった仲間のために涙を拭い、怒りと共に剣を振るう。
一方、魔王軍の後方。
安全な場所から戦況を指揮していた上位魔族たちの間に、激震が走った。
「バ、馬鹿な……! あの無敵の『城塞』が一撃だと!?」
「あの白い竜は何だ! 我々のデータにないぞ!」
「計算外だ! これ以上の損害は作戦に致命的な支障が出る!」
恐怖を感じないアンデッド兵とは異なり、高い知性と自己保存の欲求を持つ彼らは、目の前の「計算外の事態」に狼狽し、恐怖した。
このままでは、あの竜の矛先が自分たちに向く。そうなれば、全滅は免れない。
彼らの判断は早かった。
「て、撤退だ! 全軍、一時撤退せよ!」
「再編成だ! 急げ!」
指揮官たちの号令により、魔王軍は潮が引くように退却を始めた。
あれほど圧倒的だった黒い軍勢が、一頭の竜の影に怯え、逃げ去っていく。
俺は、戦場の中心で逃げていく敵の背中を見下ろしながら、天に向かって勝利の咆哮を上げた。
「グルオオオオオオオオオオオオッッ!!」
それは、ただの獣の吠え声ではない。
この戦いに、風竜ヴァイスが「人類の守護者」として参戦したことを、全世界に知らしめる、高らかな宣言だった。
その声は風に乗り、カイルの、そして全ての人々の心に、希望の灯火として深く刻み込まれたのだった。




