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白き風竜はときをゆく〜ドラゴンに転生した俺の悠久譚〜  作者: やまぐっち
【第一部 魔王大戦編】世界に忍び寄るもの

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第二十二話 東方の厄災

 大陸の東端。人々の間で畏怖を込めて「魔境」と囁かれる、広大な未踏の地があった。


 そこは、太陽の光さえ届かぬ分厚い瘴気の雲に常に覆われ、大地は猛毒の沼と、ねじくれた枯れ木々に覆われた呪われた領域である。古の神々の戦いで敗れた邪神の骸が眠るとも、世界のあらゆる負の感情が澱みとなって流れ着く終着点であるとも言われ、その真の成り立ちを知る者はいない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。

 そこは、強大な力を持つ魔物たちの揺り籠であり、人間の文明社会とは決して相容れない、混沌と暴力だけが支配する隔絶された世界だということだ。

 その魔境の中心、切り立った断崖絶壁の上にそびえ立つ、黒曜石を削り出したかのような禍々しい城塞。

 その最上階にある広大な玉座の間。

 そこに、一人の「男」が、豪奢な肘掛けに頬杖をつきながら、ひどく退屈そうに座っていた。


 漆黒の髪は闇を溶かしたように深く、その瞳は血のように鮮烈な真紅に染まっている。整いすぎた白皙の顔立ちは、まるで神が自らの手で創りたもうた最高傑作の彫像のようであった。だが、その全身からとめどなく放たれる圧倒的な威圧感と、空間そのものを歪ませるほどに絶望的な魔力は、彼が神ではなく、その対極に位置する存在であることを雄弁に物語っていた。


「つまらぬ」


 男が低く、ため息のように呟いた。たったそれだけの一言で、玉座の間に控えていた魔物の将軍たちが、魂を鷲掴みにされたかのように恐怖に震え、一斉にその場に平伏した。

 ゴブリンキング、デーモンロード、死を纏うリッチ、腐敗した巨体を横たえるドラゴンゾンビ。

 一体一体が、小国一つを単独で滅ぼせるほどの力を持つ伝説級の魔将たちである。しかし、彼らでさえも、この男の前では怯える赤子と同然だった。


「この世界のなんと脆く、なんと退屈なことか。万年の眠りから覚めてみれば、人間どもは小さな国々でくだらぬ利権を巡っていがみ合い、矮小な繁栄を謳歌している。かつて我らを封じた神々の力も、もはや見る影もない」


 男、自らを初代魔王ゼノンと名乗る存在は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

 彼が立ち上がっただけで、城全体が激しい地震に見舞われたかのように揺れ、魔境の空を覆っていた瘴気の雲が、意思を持ったように巨大な渦を巻き始める。

 大気が悲鳴を上げ、マナが彼を中心に黒く濁り、歪んでいく。


「もはや待つ必要もあるまい。この退屈な世界を一度更地に戻し、我の望む混沌で塗りつぶす時だ」


 ゼノンは平伏する魔将たちを見下ろし、世界への死刑宣告を静かに告げた。


「聞け、我が愛しき眷属たちよ。これより我ら魔王軍は、西への進軍を開始する。目標は大陸の全て。人間、エルフ、ドワーフ、亜人……我らに逆らう全ての種族を根絶やしにし、この大地を、我らが支配する永遠の魔の楽園へと作り変えるのだ」


 その声は決して大きくはなかった。しかし、大陸全土の理を捻じ曲げるほどの絶対的な強制力を宿し、聞く者の脳髄に直接響き渡った。


「「「オオオオオオオオオオオオッッ!!」」」


 魔将たちは歓喜の雄叫びを上げた。

 長きにわたる雌伏の時は終わった。ついに彼らの王が、世界の再創造を始めたのだ。

 

 その日を境に、世界は変わった。

 最初に異変に気づいたのは、魔境と人間社会を隔てる「嘆きの山脈」の麓に位置する、ルメリナ公国の小さな国境砦の監視兵たちだった。

 ある霧の濃い朝、彼らは地平線の彼方が、黒いシミのように蠢いているのを目撃した。


「おい、あれは何だ……? 嵐の前の黒い雲か?」

「いや……違う。あれは……」


 監視兵が望遠鏡を覗き込んだ瞬間、彼の顔からスッと血の気が失せた。手から滑り落ちた望遠鏡が、石畳に当たって鈍い音を立てる。



 それは雲でも霧でもなかった。

 地平線を埋め尽くす、数万、数十万という魔物の大行進だったのだ。

 突如として現れたオークやゴブリンの大軍勢。そして、それらを率いる強大な魔将たち。

 平和に慣れきっていた小国の騎士団など、何の抵抗にもならなかった。

 堅牢を誇ったはずの砦の城壁は、巨人の一撃で飴細工のように砕け散った。街には火が放たれ、逃げ惑う人々は黒い怒涛の波に飲み込まれ、次々と倒されていく。

 

 魔王軍の進撃は、まさに全てを飲み込む津波そのものだった。

 山脈の麓にあった小国ルメリナ公国は、開戦からわずか三日で地図上から完全に消滅した。

 そして、魔王軍の真の恐ろしさは、その破壊力だけではなかった。

 彼らは倒した人間や亜人の遺体を、死霊術師ネクロマンサーの忌まわしい力によって「動くアンデッド」として自軍の兵力に加え、雪だるま式にその勢力を拡大させていったのだ。

 昨日まで共に酒を酌み交わした友が、愛する家族が、今日は虚ろな瞳の敵として刃を向けてくる悪夢。


 魔王軍は止まらない。

 ルメリナ公国を踏み潰した彼らは、その勢いを削ぐことなく隣国へと雪崩れ込んでいく。

 国境の砦は次々と陥落し、各国の騎士団は必死の抵抗を試みたが、圧倒的な物量と、未知の強力な魔法の前に、なすすべもなく敗れ去っていった。



 これは戦争ではなかった。

 一方的な、捕食と蹂躙であった。

 東方の国々が次々と沈黙し、黒に染まっていく中、不吉な噂と絶望的な報告だけが、血の匂いを乗せた風と共に西へと広がっていった。

 世界はまだ、この悪夢の全貌を正確には知らなかった。



 一方、そんな世界の激変を知る由もない勇者カイルは、風竜ヴァイスとの約束を守るため、愛馬を駆ってアルマード王国の王都へと帰還を果たしていた。

 長い旅路の果てに、ようやく見えてきた王都の巨大な正門。

 カイルは馬の歩みを緩め、大きく息を吸い込んだ。

 門をくぐると、そこにはいつもの活気に満ちた城下町の風景が広がっていた。石畳の通りには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、果物を売る商人の威勢のいい声が溢れている。路地裏からは、木の棒を剣に見立てて勇者ごっこをして遊ぶ子供たちの、無邪気な笑い声が聞こえてきた。


 平和だ。

 カイルは馬に揺られながら、その愛おしい光景を眩しそうに見つめた。

 出発前、この街の人々は「山に住み着いた竜」の噂に怯えていた。だが、ヴァイスと剣を交え、彼と焚き火を囲んで語り合った今、カイルにははっきりとわかる。あの気高く誇り高い竜は、決してこの平和を無差別に壊すような存在ではないと。

 むしろ、人間の無知と恐怖心から彼を攻撃することこそが、この穏やかな日常を本当の炎で包む引き金になりかねない。


(俺が、説得しなければ。あの孤高の友の静寂と、この街の笑顔、その両方を守るために)


 カイルは手綱を握る手にぐっと力を込め、決意を新たにした。

 自分の報告が、人間と竜の新しい関係の第一歩になると信じて。

 王城へと到着したカイルは、休む間もなく謁見の間へと向かった。

 磨き上げられた大理石の長い回廊を歩く彼のブーツの音が、重々しく響く。通常であれば、魔物討伐の輝かしい戦果を報告するための誇らしい道のりだ。だが今の彼の足取りには、これから「王命に背く報告」をしなければならないという、鉛のような重圧がのしかかっていた。

 重厚な両開きの扉が、衛兵の手によってゆっくりと開かれる。

 謁見の間には、国王アルフォンスをはじめ、宰相や軍務大臣、そして心配そうな表情で両手を組むアリア王女が既に集まっていた。彼らの視線が、一斉に入場してきた勇者に突き刺さる。

「勇者カイル、只今帰還いたしました」


 カイルが静かに歩み寄り、王の御前で片膝をついて臣下の礼をとる。アルフォンス王は、待ちわびたと言わんばかりに身を乗り出した。


「よく戻った、カイルよ。……して、報告せよ。『風竜討伐』の件はどうなった? あの忌々しい竜の首は、持ち帰ったのか?」


 王の言葉には、強い期待と焦燥が込められていた。連日の腕利き冒険者たちの敗北と、他国からの「竜一匹に対処できない国」という嘲笑に、王の忍耐も限界に達していたのだ。

 カイルはゆっくりと顔を上げ、王の目を真っ直ぐに見据えた。


「いいえ、陛下。討伐は行っておりません」


 その短い一言に、謁見の間は水を打ったように静まり返った。

 次の瞬間、怒号のようなざわめきが波紋となって広がった。


「な、何だと!?」

「勇者ともあろう者が、敵前逃亡したというのか!?」

「まさか、あの勇者殿でも敵わなかったと言うのか?」



「静まれ!」


 アルフォンス王の雷のような一喝で、場が強制的に鎮まる。王は顔を紅潮させ、微かに震える声でカイルに詰め寄った。


「……理由を聞こうか、カイル。まさか、王命に背く正当な理由があるのだろうな?」

「はい」


 カイルは毅然とした態度で、一片の迷いもなく告げた。


「私は風竜と対峙し、剣を交え、言葉を交わしました。あの竜は、無益な殺傷を好まず、ただあの山で静かに暮らすことのみを望んでおります。これまでの冒険者たちに死者が出ていないのも、彼が命を奪わぬよう、意図的に手加減をしていたからです」

「何だと!? 竜と、対話したと言うのか? 馬鹿な、竜は破壊の化身だぞ!」

 

大臣の一人が叫ぶが、カイルはそれを一蹴した。


「いいえ、陛下。彼は高い知性を持ち、信義を解する存在です。私は、彼が王国の脅威になるとは到底思えません。むしろ、彼を敵に回し続けることこそが、我が国にとって最大の損失となりましょう」



 カイルは一息つき、己の勇者としての誇りを懸けて結論を述べた。



「ゆえに、私、勇者カイルは進言いたします。風竜の討伐は不要。彼をこれ以上刺激せず、相互不可侵の関係を保つべきである、と」


 カイルが凛とした声で結ぶと、広大な謁見の間は、吐息すら憚られるような異様な静寂に包まれた。

 並み居る臣下たちが顔を見合わせ、信じがたい言葉を聞いたとばかりに狼狽の色を浮かべる。

 玉座に深く腰掛けたアルフォンス王は、しばらくの間、無言でカイルを凝視していた。その瞳には、深い困惑と、統治者としての重苦しい沈黙が宿っている。


「……カイルよ。今、何と言った?」


 王の声は静かだった。だが、それは何万という民の命を背負う者特有の、峻烈な響きを伴っていた。


「余の聞き間違いではあるまいな。貴様は、我が国を脅かす災厄を、そのまま放置せよと言うのか。勇者としての使命を、民を守るという誓いを横に置き……あのような化け物と手を取り合えと、そう申すのか」



「陛下。彼は化け物ではありません。高い知性と、我ら人間を遥かに凌駕する精神性を備えた、孤高の守護者であります」


 カイルは臆することなく、真っ直ぐに王を見据えた。その瞳に宿る光は、以前のような焦燥に満ちた鋭さではなく、揺るぎない確信に裏打ちされた、深く澄んだものへと変わっていた。


「彼と拳を交え、言葉を交わしたからこそ、私には確信がございます。風竜に敵意はありません。真に恐れるべきは、彼の静かな暮らしを乱し、無用な火種を撒く我ら人間の無知であります」


 王は、そのカイルの変化を敏感に感じ取った。

 それは、これまで迷いなく剣を振るってきた「救国の英雄」が、あまりにも危うい理想に傾倒してしまったことへの、父のような、あるいは守護者としての焦燥であった。王にとって、カイルのその「優しさ」は、愛する民を危険に晒す、致命的な隙に見えたのだ。


「……カイルよ、余は貴様を信じていた。貴様こそが、民の不安を拭い去り、この国に真の安らぎをもたらす絶対の盾であると。だが……今の貴様の言葉には、守るべき民の顔が見えぬ。聞こえてくるのは、怪物への甘い同情と、王命を蔑ろにする無責任な理想のみだ」


 王はゆっくりと立ち上がり、段上から悲痛さの混じった視線を投げ下ろした。


「民は怯えておるのだ!いつ吹き下ろすとも知れぬ竜の嵐に、いつ街が焼かれるとも知れぬ恐怖に、夜も眠れぬ日々を過ごしておる。王たる余に、その民の不安を『放置せよ』と命じるのか!貴様はあの山で、守るべきものを履き違えてしまったのか!」


「いいえ!私は、勇者として……この国を守る一人の人間として、真実を申し上げております! 真の安らぎは、無知ゆえの殺戮の果てにはございません! 彼を怒らせ、無益な戦いで兵や民を失うことこそが、この国にとって最大の悲劇となるのです!」


 カイルの熱を帯びた、しかし決して退かぬ意志。それが、民の安全を第一に考えてきた王の、積み上げてきた覚悟を真っ向から否定した。


「黙れッ!!」

 バンッ!!



 アルフォンス王は、耐えかねたように玉座の肘掛けを拳で激しく叩きつけた。その衝撃音が、静まり返った謁見の間に、断腸の思いと共に響き渡る。


「……戯言を! 貴様は竜にたぶらかされたのだ! 王命よりも、民の命よりも、化け物の言い分を優先するなど……もはや勇者の面目など微塵もない! 王命に背く大罪、勇者といえど許されんぞ!」



「直ちに――」


 王がカイルへの処罰、あるいは再度の強制的な出撃命令を下そうとした、まさにその時だった。


 バーンッ!!


 謁見の間の重厚な扉が、乱暴に開かれた。

 衛兵の制止を振り切り、全身泥だらけの伝令兵が、転がり込むように入ってきたのだ。


「陛下! 緊急事態です! た、大変なことに……!」

「無礼者! 今は重大な軍議の最中だぞ!」


 宰相が怒鳴るが、伝令兵は構わず、青ざめた顔で床に這いつくばりながら絶叫した。


「ひ、東方のルメリナ公国が……消滅しました!!」

「……は?」



 その場にいた全員が、言葉の意味を理解できず、呆然とした。



「消滅、だと? 何を言っている?」

「魔物です! 数十万の魔物の大軍勢が、嘆きの山脈を越えて雪崩れ込んできたのです! ルメリナ公国はわずか三日で壊滅! 魔王軍はそのままの勢いで、西へ……道中の王国を次々と叩き潰しながら、このアルマード王国の方角へ進軍中です!!」

 謁見の間は、氷水を浴びせられたような静寂に包まれ、次の瞬間、パニックに近い騒然とした空気に変わった。


「ま、魔王軍だと!?」

「伝説の魔王が復活したというのか!」

「数十万の軍勢など、我が国の騎士団だけでは到底防ぎきれんぞ!」


 大臣たちが色を失い、互いに掴みかからんばかりに動揺する中、アルフォンス王だけは、石像のように微動だにせず玉座に深く沈み込んでいた。

 王の脳裏には、大陸の地図が浮かんでいた。ルメリナ公国が落ち、魔軍が西進しているとなれば、我が国の存亡はもはや刻一刻を争う事態だ。一匹の竜の処遇などを議論している場合ではない。


「……静まれ」


 王の低く、地を這うような声が場を圧した。

 ざわめきが収まるのを待って、王はゆっくりと顔を上げた。その目からは、先ほどカイルに向けていた激昂は完全に消え失せていた。代わりに宿っていたのは、私情を排し、ただ「国を存続させる」という一点のみを見据えた、為政者としての冷徹な光であった。

 王の視線が、再びカイルに向けられる。


「……カイルよ。今、この瞬間をもって、風竜討伐の王命を撤回する」

「陛下……」

「勘違いするな。貴様の言い分を認めたわけではない。だが、人類の存亡を懸けた未曾有の嵐が目前に迫っている今、一匹の竜に貴重な戦力を割き、不測の事態を招く余裕など、我が国には一分たりとも残されていないのだ」


 王は立ち上がり、苦渋を噛み潰すように、しかしはっきりと断言した。


「風竜の件は……無期限の棚上げとする。貴様の進言通り、余計な刺激は一切禁ずる。奴には、嵐が過ぎ去るまで眠っていてもらう他ない。監視の任はギルドへ回せ。……今は、目前の火を消すことが先決だ」


 カイルは、王の言葉の裏にある「断腸の決断」を感じ取り、深く頭を垂れた。王はカイルの擁護を受け入れたのではなく、王として、より巨大な悪に対抗するために「最善の妥協」を選んだのだ。


「カイル、顔を上げよ」


 王の声に、雷のような力強さが戻る。


「これより、大陸中の全ての国々に緊急の使者を送る。『今こそ、種族と国境を越え、我らは一つとならねばならない』と。大陸中央のグランツ帝国に全国家の王を集結させ、魔王に対抗するための大陸連合軍を結成するのだ」


 王は壇上からカイルを見下ろし、その肩に、かつてないほど重い「宿命」を載せるように告げた。


「カイル。貴様には、その連合軍の象徴として、人類の希望の盾として最前線に立ってもらう。……これまでの甘えを捨て、修羅となる覚悟はあるか?」


「……御意。この命に代えましても、陛下と、この国の民をお守りいたします」


 カイルは力強く、迷いのない声で応えた。

 ギリギリのところで、ヴァイスとの約束は守られた。だが、それと引き換えに、世界は破滅へのカウントダウンを始めていた。

 彼は王の前を辞し、新たな戦場へと向かう準備を始めた。

 心の中で、山に残してきた友に語りかけながら。


(ヴァイス殿……。どうやら、世界は俺たちに安息を与えてはくれないようだ。……だが、約束は守ったぞ。どうか、無事でいてくれ)


 こうして、風竜討伐の騒動は、より巨大な厄災の影に飲み込まれる形で幕を閉じた。

 そして人類は、存亡を懸けた総力戦へと突き進んでいくことになる。





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