第十六話 勇者、立つ
アルマード王都から遥か西へ馬車で数日。豊かな麦畑が広がる、のどかな辺境の村。
勇者カイルは、村はずれの広場で子供たちに囲まれ、木の枝を片手に剣術の稽古をつけていた。
「ほら、もっと腰を落として。剣は腕だけで振るんじゃない、大地を踏みしめて、体全体で振るんだ」
「こう? カイル兄ちゃん!」
「ああ、いいぞトビ!筋がいいな。将来は王都の騎士団長も夢じゃないぞ」
太陽のように明るい白銀の髪をなびかせ、空のように澄んだ青い瞳を持つ、十八歳の青年。
村人と同じ粗末な麻のシャツを着て、泥にまみれて笑っていても、隠しきれない高貴さと芯の強さが滲み出ている。
その腰には、古びた革の鞘に収められていてもなお神聖なオーラを放つ、一本の剣、聖剣エレクシードが佩かれている。
彼がこの世界、この時代の「勇者」だった。
生まれつき人並外れた身体能力と魔力を持ち、幼い頃に神殿で見出され、過酷な勇者としての英才教育を受けてきた。
本来なら王都で華やかな生活を送っていてもおかしくない立場だが、彼は派手な生活を好まなかった。任務がない時はこうして地方の村に滞在し、魔物退治の傍ら、村人たちと共に汗を流すことを何よりの喜びとしていた。
その実直で飾らない人柄は、人々から深く敬愛されていた。
子供たちとの稽古を終え、村の老婆が差し出してくれた冷たい麦茶を飲みながら談笑していた時のことだ。
村の入り口から、土煙を上げて一頭の早馬が駆け込んできた。
乗っているのは、王家の紋章が入った外套を羽織った使者だった。
「いらっしゃいましたか!勇者カイル殿!」
「王家の使いか……。こんな辺境まで、何か急なご用向きですか?」
カイルが穏やかに尋ねると、使者は馬から転がり落ちるように降り、豪奢な装飾が施された羊皮紙の巻物を、震える手で恭しく差し出した。
「こ、国王陛下からの勅命にございます!事態は一刻を争います!」
村人たちがざわめき、不安そうに顔を見合わせる中、カイルが巻物を受け取り、封蝋を割って目を通す。
そこに記されていたのは、
『エルロード山脈に巣食う邪竜“白き風竜”を討伐せよ』
という、簡潔にして有無を言わさぬ王命だった。
白き風竜。
その噂は、こんな辺境の村にいるカイルの耳にも、行商人を通じておぼろげながら届いていた。
数多のAランク冒険者を退けながらも、決して命は奪わないという不可解な竜。
カイルは巻物を読み終えると、静かに目を閉じた。
(……邪竜、か)
王命にはそう断定されている。だが、噂を聞く限り、その竜が本当に討伐すべき「邪悪」なのか、カイルには即断できなかった。
不殺を貫く竜。それは、高い知性と慈悲の表れではないのか。
しかし、王の命令は絶対だ。
そして何より、勇者としての第一の使命は、人々を脅かす不安と脅威を取り除くこと。
その竜が王国の脅威と認定され、民が恐怖している以上、彼に拒否権はなかった。
「……承知いたしました。王の御心、しかと拝聴つかまつった、と」
カイルは使者に向かって深く一礼した。
そして、顔を上げると、心配そうに見つめる村人たちに向かって、いつもの太陽のような笑顔を見せた。
「皆、すまない。少しの間、この村を離れることになる」
「カイル様、また魔物退治ですか?」
「ああ、ちょっと大きめの奴をね。すぐに戻ってくるさ」
カイルは子供たちの頭を撫で、老婆の手を握り、村人一人一人に声をかけた。
村人たちは名残惜しそうにしながらも、カイルの背中を押した。彼らは知っているのだ。この青年が、自分たちだけのカイル兄ちゃんではなく、世界を守る英雄であることを。
「気をつけてな、カイル」
「絶対に戻ってきてね!」
村人たちの声援を背に受け、カイルは愛馬には乗らず、徒歩で村を出た。
聖剣と、わずかな旅装だけを持って。
それから数日。
カイルの旅路は、王命を受けたとは思えないほど穏やかなものだった。
街道を歩き、すれ違う旅人と言葉を交わし、時には困っている行商人の荷車を押してやる。夜になれば森で野営し、星空を見上げながら、これから戦う竜のことに思いを馳せた。
(どんな相手なんだろうな……)
焚き火の炎を見つめながら、カイルは呟く。
戦いへの恐怖はない。あるのは、未知の強者への静かな好奇心と、使命を果たすという揺るぎない決意だけだ。
彼は焦ることも、気負うこともなく、自然体で、一歩一歩、決戦の地へと近づいていった。
そして、エルロード山脈の麓にたどり着いた時、空気は一変した。
山全体が一つの巨大な生命体であるかのように、頂上付近から圧倒的な魔力が放たれていた。
これが、風竜の力か。
(……これは、とんでもない相手だ)
肌で感じるプレッシャーに、カイルの背筋を冷たい汗が伝う。
だが、彼の青い瞳から闘志の光は消えない。むしろ、強敵を前にして、より一層強く輝きを増していた。
険しい山道を登り始めると、討伐に失敗し、傷だらけですごすごと山を下りてくる冒険者たちと何組もすれ違った。彼らは皆、カイルの若さと軽装を見て、口々に忠告してくる。
「おい若造、やめておけ。ありゃあ人間が勝てる相手じゃねえ」
「悪いことは言わん、帰ってママのミルクでも飲んでな」
カイルはそんな言葉にも怒ることなく、「ご忠告、感謝します」と爽やかに微笑んでみせた。
そして、彼がおもむろに腰の聖剣を見せると、冒険者たちの態度は一変した。驚愕と畏敬の表情を浮かべ、無言で道を開ける。
勇者カイル。その名は、荒くれ者の冒険者たちにとっても、絶対的な希望の象徴だった。
そしてついに、カイルは問題の洞窟へとたどり着いた。
その巨大な入り口を前にして、彼は改めて相手のスケールの大きさを実感する。
カイルは洞窟の前で立ち止まると、鞘からゆっくりと聖剣エレクシードを抜き放った。
シャキ……ッ
澄んだ音と共に、白銀に輝く刀身が露わになる。
刀身は陽光を反射して眩い光を放ち、さらに自らも淡い光を帯びて脈動し始めた。
聖剣は、強大な力を持つ存在が近くにいると、その輝きを増すという。今、エレクシードはこれまでカイルが手にしてきた中で、最も強く、激しく輝いていた。
やはり、相手は人智を超えた化け物だということか。
「……出てきてもらおうか、白き風竜!」
カイルは剣先を洞窟の闇に向けると、腹の底から声を張り上げた。その声はマナを乗せて増幅され、勇者特有の覇気を帯びて、洞窟の最奥まで朗々と響き渡った。
「我は勇者カイル! 王命により貴公を討伐する! 尋常に勝負!」
その潔い名乗りは、洞窟の奥で惰眠だみんを貪むさぼっていたヴァイスの耳にも、はっきりと届いていた。
(……ん? なんだ今度の奴は。やけに声が通るし、律儀だな)
ヴァイスはあくびを噛み殺しながら、億劫そうに身を起こした。
また、いつもの自称英雄か。適当に風で吹き飛ばして終わらせよう。
そう思っていた。
しかし、次の瞬間。
彼は洞窟の入り口から感じる、これまでとは明らかに異質な気配に、瞳を見開くことになる。
(……なんだ、この力は……)
それは、これまで戦ってきたAランク冒険者たちとは、次元が違う力だった。
澄み渡り、穢れがなく、それでいて焼き尽くすほどに熱い。
まるで、小さな太陽が洞窟の入り口に降り立ったかのようだ。
退屈な日々は、唐突に終わりを告げた。
風竜ヴァイスは、この百年で初めて、心の底から「好敵手」と呼べるかもしれない存在の出現を、肌で感じていた。




