第121話 亜空間の揺り籠
アルゴス号は今、亜空間航行の真っ只中にあった。
ブリッジのメインスクリーンに映し出されているのは、もはや慣れ親しんだ星空ではない。青、紫、黄金色といった無数の光の粒子が、互いに混じり合い、オーロラのように揺らめきながら、後方へと猛スピードで流れ去っていく。
それはまるで、神が描いた抽象画の中を突き進んでいるかのような、幻想的で、どこか非現実的な光景だった。光の川は時に穏やかに、時に激しく脈打ち、その流れの一つ一つが、一つの銀河系を瞬く間に通り過ぎていくことを意味していた。
そこは、通常の物理法則が意味をなさない高次元空間。現実世界とは比較にならない速度で星々を渡ることができる、人類にとっての新たな海路。だが、同時に予測不能の時空の歪みや、未知のエネルギーの嵐が渦巻く「魔の海」でもあった。
俺は、船体上部に設けられた、俺専用の観測ハンガーで、その異様な光景をじっと見つめていた。円形の巨大なドームは、アークの技術を応用した、ダイヤモンド以上の強度を持つ透明な装甲で覆われている。分厚い装甲越しに見える、歪んだ空間。そこには上も下もなく、ただ無限のエネルギーの奔流があるだけだ。
『……凄まじいな』
俺は思わず息を呑んだ。もし、この装甲が一枚割れれば、あるいは船を包むシールドが一瞬でも途切れれば、俺の強靭な肉体といえども、この混沌の海に投げ出され、原子レベルまで分解されて消滅してしまうだろう。
だが、不思議と恐怖はなかった。船の心臓部、かつて俺がデストロイドラゴンを倒すために力を合わせた衛星レーザー『神の杖』の技術と、アークの超技術、そして俺自身の魔力特性を基に新たに設計された『エーテル・ウィング・ドライブ』。その機関が、俺自身の心臓の鼓動と微かに共鳴し、船全体を温かい魔力のヴェールで包み込むように安定させているのが、肌で感じられたからだ。この船は、まさしく俺の身体の一部、巨大な翼そのもののような感覚だった。
その時、ハンガーへと続く気密扉がプシューという音を立てて開き、アキラとミカサが入ってきた。二人とも船内用のリラックスしたフライトスーツ姿で、手には湯気の立つマグカップを持っている。
「調子はどうですか、ヴァイスさん? 初めてのワープ酔いは?」
アキラが、俺の巨大な鼻先のすぐ下に設けられたテラスの手すりに、悪戯っぽく腰掛けながら聞いた。
『……酔うわけがないだろう。それより、この光景には驚いたぞ。人間がこんな場所を旅する技術を手に入れたとはな。千年前の俺が見たら、腰を抜かしていたに違いない』
「ふふ、私たちも驚いていますよ」
ミカサが、窓の外を流れる光の川を眺めながら、穏やかに微笑む。
「アークの技術といえども、その多くは理論上の存在でした。それを現実の形にし、亜空間という未知の領域を実際に航行できているのですから。……すべては、機関長であるボルツさんの調整と、貴方の魔力との共鳴のおかげですね」
「へっ! 噂をすれば何とやら、ってな! 俺様の話をしていたのかい!」
豪快な笑い声と共に、一人のドワーフがハンガーに入ってきた。油まみれの作業着に、三つ編みにされ、いくつもの金属リングで飾られた立派な髭。約千年以上前、共に魔王と戦った英雄ボルガの血を引く末裔であり、この星におけるドワーフ族最高のエンジニア、ボルツだ。
「よう、竜の旦那! エンジンの調子はどうだい? ワシが丹精込めて組み上げた『心臓』は、いい鼓動をしてるだろう?」
『ああ、悪くない。お前の腕は確かだな、ボルツ』
「当たり前よ! このアルゴス号の機関長を務めるのは、このワシ、天下のボルツ・アイアンフィスト様だぞ!」
ボルツは、油に汚れた親指でドスンドスンと自分の胸を叩き、自慢げに鼻を鳴らした。
彼はただの設計主任としてプロジェクトに参加しただけではなかった。アルゴス号が完成し、その処女航海が決定した日、統合軍のブリーフィングルームで、誰よりも先に、そして誰よりも大きな声で立候補したのだ。機関長として、この壮大な旅に同行することを。
出発前、タカギ司令が「ボルツ殿、貴殿はドワーフの王だ。国を空けるわけには…」と困惑顔で制止しようとしたが、彼はそれを豪快な笑い声で一蹴した。
「王だと? ハッ、くだらん! 図面を眺めてハンコを押すだけの毎日なんぞ、退屈で魂が錆びちまうわ! それより見ろ、このアルゴス号の心臓を! このエーテル・ウィング・ドライブを!」
彼はホログラムスクリーンに映し出された複雑怪奇なエンジン設計図を、愛おしそうに撫でた。
「このワシが、竜の旦那の魔力特性とアークの超技術を融合させ、生涯の全てを注ぎ込んで組み上げた、最高傑作だ! このエンジンの鼓動を、その振動を、この手で感じずして、何の技術者か! 未知の宇宙でトラブルが起きた時、ワシ以外にこいつの機嫌を取れる奴がいると思うのかね!?」
その言葉は、ドワーフとしての誇りと、己の創造物に対する絶対的な愛情に満ちていた。もはや誰も、彼を止めることはできなかった。
「それに、跡継ぎなら心配いらん!」
と彼はニヤリと笑った。
「ワシの孫も、なかなか見込みのある腕利きだ。無理やり王冠を頭に押し付けて、『あとは若いモンで好きにやれ! ワシは宇宙で最高のエンジンを回してくる!』と書き置き一枚残してきたわい!」
そう言って、国政の一切をまだ若い孫に丸投げして飛び出してきたというのだから、その技術者としての純粋すぎる情熱と、破天荒な行動力には、呆れると同時に、深い敬意を表するしかなかった。この船の心臓を守る男として、彼以上の適任者はいないだろう。
彼らだけではない。この船には、かつて俺が出会った仲間たちの子孫や、その意志を継ぐ者たちが、それぞれの想いを胸に乗り込んでいる。その時、ハンガーの通信パネルが明滅し、静かな、しかし凛とした青年の声が響いた。
『……失礼します、アキラ艦長。ブリッジより定時報告です』
モニターに映し出されたのは、一人の獣人の青年だった。ピンと立った狐のような耳に、縁の細い知的な眼鏡。その清潔な士官服の着こなしからは、彼の真面目で誠実な人柄が滲み出ている。
「おお、リオンか。ありがとう。状況を頼む」
アキラが、艦長として威厳のある声で応じると、リオンと呼ばれた青年は背筋を伸ばし、画面越しに鮮やかな敬礼を送った。
『はっ! 現在、本艦は予定航路『ステラ・ハイウェイ7』を巡航速度で進行中。エーテル・パスの干渉、亜空間密度ともに安定。全てのシステム、オールグリーンです!』
報告を終えたリオンが、ふいに居住まいを正し、モニターのカメラの向こうにいるであろう俺の姿を捉えて、深々と頭を下げた。
『……あ、あの、ヴァイス様! ご挨拶が遅れました。本艦で主席観測士官を務めます、リオンと申します。……私の曾祖母は、かつてヴァイス様と共に大陸を駆けた探検家、リリ!』
『……ほう。リリの孫の、そのまた孫か』
俺の胸の奥で、埃をかぶっていた宝箱が開くかのように、かつての眩い記憶が鮮やかに蘇った。好奇心旺盛で、どんな困難にも決して諦めなかった、小さな狐の少女の笑顔が。
『そういえば、面影があるな。特にその、今にもノートを取り出してメモを始めそうな、真面目な目つきがそっくりだ』
『こ、光栄です!』
リオンの声が、歓喜と緊張で微かに震える。
『曾祖母からは、ヴァイス様との冒険譚を……毎晩のように、まるでお伽話のように聞かされて育ちました。彼女が遺した『真実の英雄譚』は、私の宝物です。私もいつか曾祖母が見た世界の、その続きを、この目で見たくて……この船に志願したんです!』
震える声。だが、その瞳に宿る光には一点の曇りもない。かつての戦友たちが遺した意志が、長い時を経て、今こうして俺の目の前で新しい世代の火を灯している。この旅は、単なる未知への探検ではない。俺たちが歩んできた歴史そのものを燃料にして進む、壮大なクロニクルなのだ。
そんな絆の温もりに浸っていたとき、アキラがふっと思い出したように口の端を上げた。
「そういえば、タカギ司令はどうしてるかな。今頃、司令室で冷え切ったコーヒーを飲みながら、胃薬の世話になっているんじゃないか?」
「ふふ、あり得ますね」
とミカサが微笑む。
「出航前に、毎日の定時連絡を欠かさないようにと、あれほど念を押されていましたから」
「だよなあ。でも、まさか亜空間に入った途端、完全に音信不通になるとは、さすがの司令も予想外だったろうな」
アキラは、腕のインプラント・デバイスを操作して通信状況パネルを表示させた。そこには『NO SIGNAL - Subspace Interference(信号なし - 亜空間干渉)』という、絶望的とも言える赤い文字が点灯しているだけだった。
「亜空間航行中は、時間の流れも空間の座標も、通常宇宙とは完全に切り離されてしまう。アークの技術を使っても、この次元の壁を超えてリアルタイムで情報をやり取りするのは、理論上不可能なんだ」
「そうなんです」とミカサも頷く。
「今の私たちにできるのは、航行ログやメッセージを記録したデータポッドを、定期的に通常空間へ射出し、それを地上の観測網が拾ってくれるのを祈ることだけ。まるで、瓶詰の手紙を大海原に流すようなものですね」
「まさにボトルメールか。ロマンチックだけど、気の短い司令には毒だよな」
アキラは苦笑した。
「俺たちが次に地上と直接話せるのは、このワープを終えて、次の目的地に到着してからだ。それまで、タカギ司令は俺たちの安否も知れず、ただモニターに映るアルゴス号の予測航路図を眺め続けるしかない」
その言葉に、ハンガー内の空気が少しだけ感傷的になる。俺たちは、もはや助けを呼ぶこともできない、絶対的な孤独の中にいるのだ。この船と、この仲間たちだけが、互いを支える全て。だが、その孤独こそが、この旅の覚悟をより一層強くさせていた。
「……あいつらしいな」
俺は、遥か彼方、今はもう光の届かぬ青い星で、誰よりも高く空を見上げているであろう男の姿を思った。タカギ。かつて共に死線を潜り抜け、この星の未来を託し合った、不器用で義理堅い戦友。俺たちが銀河の果てでどれほど道に迷おうとも、彼がいる限り、あの星の灯が消えることはない。
俺たちは、彼が守り抜く「帰還の場所」があるからこそ、この果てしない闇の中をどこまでも進んでいけるのだ。




