第108話 星の海、竜の翼
真空の宇宙空間。
そこは、音もなく、空気もなく、恒星の光さえもその深淵に吸い込んでしまう、絶対的な静寂と無慈悲な闇が支配する世界だった。地上から見上げるロマンチックな星空とは、似ても似つかない。あらゆる生命の存在を拒絶する、冷たく、そしてどこまでも孤独な死の領域だ。
俺は、その圧倒的な無の中に、ただ一頭、漂っていた。
生まれて初めて体験する、完全なる無。
風の音も、水の音も、生きとし生けるものの息遣いも、何も聞こえない。己の心臓の鼓動すら、この静寂の前では些細な揺らぎに過ぎなかった。
肌を撫でるのは、熱も冷気も感じさせない、ただ虚無の感触。全身が、まるで深い海の底に沈んでいくかのように、絶対的な孤独に包まれていく。
千七百年の時を生きてきた。百年の孤独なサバイバルも、千年の孤独な眠りも経験した。だが、この宇宙の孤独は、それらとは全く異質だった。
あれらは「地上」という揺りかごの中での孤独。空があり、大地があり、いつか誰かと出会えるという微かな希望があった。
だが、ここは違う。どこまで行っても続く闇と、手の届かない無数の光の点。手を伸ばしても、何も掴めない。叫んでも、誰にも届かない。俺という存在そのものが、この広大すぎるキャンバスに落とされた、取るに足らない一滴の絵の具のように、希薄になっていく感覚。
(……これが、宇宙か)
竜としての本能が、この環境に適応しようと魔力を練り上げる。
俺の全身を覆う、目には見えない高密度の魔力のヴェール。それは、俺自身の身体から常に発せられるマナを利用して形成した、薄く、しかし強靭な大気の層だ。呼吸も、体温も、そして肉体を押し潰そうとする宇宙の絶対零度と圧力も、この生命維持結界の前では、地上にいた時と何ら変わらない。
竜という生命体は、ただの大気圏内の支配者ではない。星と星の間を渡り、この真空の海を泳ぐことさえ可能な、俺が思っていた以上に、宇宙という環境に適応できる存在だったらしい。
だが、身体は適応できても、心はまだ追いついていなかった。
俺はゆっくりと振り返る。
そこには、言葉を失うほどに美しい光景が広がっていた。
青い、宝石。
眼下に浮かぶ、俺の新しい故郷。
白い雲が穏やかに渦を巻き、紺碧の海が広がり、大陸の緑が生命の息吹を放っている。闇の中に浮かぶその姿は、あまりにも儚く、そしてあまりにも尊い。
ああ、俺はこの星を守るために来たのか。
この、ちっぽけで、愛おしい光を守るために。
かつてカイルが、命を懸けて守り抜いた民の笑顔。
リリが、涙を流しながらも耕し続けた豊かな大地。
そして今、アキラたちが、タカギたちが、必死に未来を繋ごうとしている、かけがえのない我が家。
ふと、前世の記憶が蘇る。
レンだった頃、教科書やテレビで見た、宇宙飛行士が撮影した地球の写真。その写真を見て、綺麗だな、と漠然と思った。だが、今、この目で見る本物の「故郷」の輝きは、そんな陳腐な感想を許さない、魂を直接揺さぶるほどの感動があった。
同時に、激しい喪失感が胸を締め付ける。
俺が生まれた、もう一つの青い星。その星も、かつてはこうして、宇宙の闇の中で孤独に、しかし誇り高く輝いていたのだろう。その輝きが、今はもうこの宇宙のどこにもないという事実が、ナイフのように俺の心を抉った。
もう、感傷に浸っている時間はない。
前方には、その美しい光を消し去ろうとする、絶対的な悪意が待ち構えている。
漆黒の宇宙空間に禍々しく浮かび上がる、星を喰らう者『デボアラー』の巨体。
その距離は、まだ数十万キロメートル。
俺は、地上のように翼を羽ばたかせるのではなく、ブレスのエネルギーを尾のように長く、細く、ジェットエンジンのように安定して後方へ噴射し、その圧倒的な推進力で宇宙を飛翔していた。純白の鱗を持つ俺の身体は、さながら闇を切り裂く一機の生体戦闘機のようだった。
遠ざかっていく故郷の星。背後で瞬く無数の星々。
孤独な、果てしない旅路だ。だが、俺は一人ではなかった。
頭の中に直接響く、地上の仲間たちの声。彼らが、新ガイアポポリスの統合軍中央司令部から、全神経を集中させて俺をナビゲートし、励まし続けてくれている。
『ヴァイスさん、聞こえるか!? こっちのモニターには、あんたの雄姿がバッチリ映ってるぜ! なんだかSF映画の主人公みたいで、めちゃくちゃカッコいいぞ!』
アキラの、努めて明るい声が響く。彼の声の奥に、隠しきれない不安と祈りが滲んでいるのが、俺には痛いほど分かった。
『……ああ、わかっている。アキラ、お前こそちゃんと寝ているか? そっちのモニターにかじりついて、もう丸一日経つだろう。隈が酷いんじゃないのか』
『寝てる暇なんてあるかよ! あんたの命がかかってるんだ、こっちだって死に物狂いさ! それに、隈ならアーニャ博士の方がもっと酷いぜ!』
通信の向こうで「余計なことを言うんじゃありません、アキラ君!」という博士の怒声と、周囲のオペレーターたちの苦笑が聞こえてくる。絶望的な状況下でも、このやり取りが、俺の心をわずかに温めてくれた。
『ヴァイス殿』
今度は、タカギ司令の冷静な声が割り込む。
『まもなくデボアラーの警戒領域、半径五万キロ圏内に侵入する。アークのデータによれば、この領域から敵の自動迎撃システムが作動する可能性が高い。十分に注意してくれ』
『了解した。いつでも来い、という感じだな』
俺は軽口を叩き、さらに速度を上げた。
やがて、レーダーが捉えていた反応が、肉眼でもはっきりと確認できる距離になった。
俺は推進力を落とし、近くに浮かんでいたデブリ(宇宙ゴミ)の影に身を隠しながら、その異様な姿を観察する。
全長数十キロ。小惑星というよりは、癌細胞が増殖して出来上がったかのような、歪な形をした小さな月だ。
黒く、ゴツゴツとした岩のような表面は、ところどころ機械的な構造物が突き出し、有機物のように脈打っている。かつて地下で戦ったデストロイドラゴンやメカドラゴンとは比較にならない、生物と機械の、おぞましい融合体。
その表面には、獲物を捕らえるためのような、無数の鋭い棘や、獲物を絡めとるための金属質の触手が、意志を持っているかのように絶えず蠢いている。
そして、最も特徴的なのは、その表面にいくつも開いている、直径数百メートルはあろうかという巨大な「口」――物質を吸収するための巨大な捕食口だ。口の内部は、まるで巨大な工業用シュレッダーのように、無数の刃が螺旋状に回転しており、吸い込んだ物質を原子レベルまで粉砕しながら奥へと運ぶ仕組みになっているのだろう。
まさに、星を喰らうために生まれた、究極の捕食生物。
それが、デボアラーの正体だった。
俺の接近に気づいたのか、デボアラーの巨体から、無数の黒い物体が、まるで剥がれ落ちるように分離し、蜂の群れのように俺に向かって殺到してきた。
それは、全長数メートルほどの、カマキリに似た鋭角的なフォルムをした、小型の無人迎撃機だった。アークの日誌にあった、奴の分身体だ。
彼らは、赤いビームを雨のように乱射しながら、俺の周囲を立体的に取り囲み、波状攻撃を仕掛けてくる。
『……鬱陶しい蠅どもめ!』
俺は、身体を高速で回転させ、全方位に向けて風の刃『ウィンドカッター』を乱れ撃った。
真空の宇宙では、風は起きない。
だが、俺のウィンドカッターは、もはやただの風ではない。高密度に圧縮された魔力で形成された、純粋なエネルギーの刃だ。
白銀の刃は、宇宙空間を音もなく、しかし光速で駆け抜け、分身体を正確に捉えていった。
ズバッ! ズバッ!
刃は、迎撃機の装甲をバターのように切り裂き、次々と誘爆させていく。
宇宙空間に、無数の無音の閃光が咲き乱れた。
雑魚を一掃し、俺はデボアラー本体へと、さらに肉薄する。
その全貌が、ついに俺の目の前に現れた。
まさに、悪夢の具現化。俺という存在が、矮小に感じられるほどの、圧倒的な質量と存在感。
『タカギ! アキラ! 奴の弱点はまだか!? アークのデータに、何か記録は残っていないのか!?』
俺はテレパシーで司令部に呼びかけた。地球を滅ぼした時の、奴らの戦闘データ。そこに、この怪物を倒すヒントがあるはずだ。
『解析中だ! だが、データが断片的すぎる! アーニャ博士が必死で復元を試みている! もう少し時間を稼いでくれ!』
俺は、デボアラーの周囲を高速で旋回しながら、攻撃の糸口を探る。
だが、その間にも、本体の巨大な捕食口から、対消滅エネルギーの光線が、鞭のように何度も放たれる。地下施設でデストロイドラゴンが放ったものと同じ、いや、それ以上の出力だ。
俺はそれを紙一重でかわし続けるが、そのたびに膨大な魔力を消費する。このままでは、ジリ貧だ。攻撃に転じなければ勝機はない。
時間だけが、無情に過ぎていく。俺の魔力も、集中力も、確実に削られていた。
このままでは、いずれ一撃を喰らい、宇宙の塵となるだろう。
焦りが、じりじりと俺の心を蝕み始めていた。




