第107話 最後の翼
第3観測所からもたらされた、プロトコル・ダブルエックス、惑星規模の危機を告げる緊急警報は、瞬く間に新ガイアポリスの統合軍中央司令部を揺るがした。
仮眠を取っていたタカギ司令は、ベッドから跳ね起きるようにして、軍服の上着を羽織りながら司令室へと駆け込んだ。深夜にも関わらず、司令室は叩き起こされた参謀やオペレーターたちでごった返し、怒号とアラート音、そして紙の資料をめくる音がないまぜになった、混沌の渦と化していた。
「状況を報告しろ!」
タカギの鋭い声が、パニック寸前の司令室に響き渡る。
「はっ!先ほど、第3観測所より、太陽系外縁部にて正体不明の超巨大物体を補足。対象は、明確な意志を持って本星へと直進しております!」
オペレーターの一人が、顔面蒼白で報告する。
「アーニャ博士、解析は!?」
タカギは、すぐさま駆けつけていたアーニャ博士に視線を送った。彼女もまた、普段の落ち着きを失い、血走った目でメインスクリーンに映し出されたデータを睨みつけていた。
「……ダメです、司令。あまりにも情報が少なすぎる。ですが……」
彼女は震える声で続けた。
「……観測されたエネルギーパルス、そして物体の組成パターン……。その断片的な情報が、あの『アークの航海日誌』に残されていた、最後の警告文のデータと、不気味なほど一致しています……」
『箱舟の警告』。
その言葉に、その場にいたプロジェクト『アーク』に関わる全ての者の背筋を、冷たい汗が伝った。
タカギは、作戦卓の中央に進み出ると、メインスクリーンにその不吉な黒い影を大写しにさせた。
「……総員、聞け!」
彼の低い、しかし鋼のような意志を宿した声が、ざわめく司令室を静まらせた。
「アークの航海日誌のデータと照合。……現在接近中の未確認物体を、特級脅威『デボアラー』と正式に認定する! これは、かつて地球を滅ぼした災厄そのものだ!」
その名に、その場にいた誰もが息を呑んだ。プロジェクト『アーク』に関わる、ごく一部の者しか知らない、禁断の名前。
そして、その絶望的な空気を切り裂くように、俺が巨大な搬入口から姿を現した。アキラからの緊急連絡を受け、全速力で飛んできたのだ。
「ヴァイス殿……!」
タカギが、驚きと、そして一筋の希望を見出したかのような目で俺を見上げる。
俺は、司令室に満ちる絶望の匂いを嗅ぎ取り、すぐに事態の深刻さを理解した。
そして、スクリーンに映る、あの黒い悪夢の塊を見た瞬間、俺の竜としての本能が、魂の奥底から警鐘を鳴らした。
デストロイドラゴンとは比較にならない。あれは、生命という概念そのものを否定する、純粋な『無』の塊だ。
「到着予想時間は?」
タカギがオペレーターに問う声が、静まり返った司令室に虚しく響く。
「……現在の速度を維持した場合、あと一ヶ月後に、本星の重力圏に到達します!」
あと一ヶ月。それは、死の宣告に等しかった。
「……大気圏外での迎撃は可能か!?」
参謀の一人が、最後の望みを託すように叫ぶ。だが、アーニャ博士が絶望的な声でそれを否定した。
「……無駄です! 解析の結果、奴の周囲には強力な位相転移シールドが常時展開されています! 我々の通常兵器では、傷一つ付けられません! それに、この星にはまだ、宇宙空間で長時間の戦闘行動が可能な艦艇は一隻も配備されていないのです!」
「……ならば、オオトリが遺したあの負の遺産……フェニックスを……! 対消滅爆雷ならどうだ!」
「……それも効果は未知数です! シールドを貫通できる保証はありませんし、アークの日誌によれば、奴はエネルギーを吸収する性質さえ持っている可能性があります。下手をすれば、奴をさらに強化し、刺激するだけになるかもしれません!」
司令部は完全なパニックに陥った。人類の科学力では、もはや対抗する術がない。
神に祈るしかないのか。いや、神ですら、あの怪物の前では無力だろう。
誰もが絶望に打ちひしがれ、沈黙が支配する中、俺は静かに一歩前に進み出た。その一歩が、コンクリートの床をわずかに震わせ、全員の注意を俺に引きつけた。
『……我が行こう』
その静かな、しかし揺るぎない一言に、司令室の誰もが息を呑んだ。
「……ヴァイス殿……!?」
タカギが、信じられないという顔で俺を見上げる。
「しかし、相手は宇宙空間に……! 大気もなければ、音もない、絶対零度の世界ですぞ! 生身で戦える相手ではありません!」
『……案ずるな。……竜という種を、侮ってもらっては困るな。我の翼は、星の海すら超えられる。……それに、奴のシールドを破れる可能性があるとすれば、それはお前たちの科学ではない。この世界に古くから存在する理……魔法の力だけだ』
俺は、かつてないほどの決意を固めていた。
これは、俺にしかできない戦いだ。
俺はもはや、この星の守護竜というだけの存在ではない。
俺は、地球人・レンの魂を受け継ぎ、そしてこの星で数多の絆を紡いできた、二つの故郷を持つ唯一の存在。
この戦いは、俺の古い故郷(地球)の、名も知らぬ同胞たちの仇を討つための復讐の戦いであり、そして、俺の新しい故郷(この星)の未来を守るための、最後の戦いなのだ。
『……アキラ』
俺は、隣で恐怖に震えながらも、必死に俺を見上げている相棒に声をかけた。
『……お前には、地上でやってもらわねばならないことがある』
「……え……?」
アキラが、か細い声で答える。彼の瞳は潤み、これから俺が何を言おうとしているのかを、その聡い頭で悟ってしまっているようだった。その顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。
「……嫌だ」
彼が、子供のように首を振った。
「嫌だ、ヴァイスさん。……また、あんたを一人で行かせるなんて、絶対に嫌だ! 今度こそ、俺も一緒に行く! 足手まといにだけはならないって、約束するから!」
これは、二度目の覚悟だ。
一度目は、デストロイドラゴンを前に、この星の未来を彼に託した。
そして今、二度目は、この星そのものの存亡を賭けて、俺は再び彼に全てを託さねばならない。彼の懇願が、俺の心をナイフのように抉る。
『……いいや、お前は地上に残れ。これは、命令だ。』
俺は彼の言葉を遮った。その声は、自分でも驚くほど冷たく、非情に響いた。
「なんでだよ! 俺はあんたの相棒だろ!」
『相棒だからこそ、地上を託すんだ。……プロジェクト『アーク』を、最終段階へ移行させろ。……最後の地球人たちを、今すぐ目覚めさせるんだ』
「……な、何言ってんだよ! 無茶だ! まだ心の準備も、受け入れる社会の準備もできてない! 今そんなことをしたら、彼らがパニックになるだけだ!」
『……構わん。いいからやれ』
俺は、彼の訴えを断ち切った。
『……もし、我に万が一のことがあったら……。……デボアラーに対抗する術を知っているのは、かつて奴らと戦った経験を持つ、彼らだけだ。……この世界の未来は、彼らとお前たちに託す。……これは、我からの最後の願いだ』
アキラは、俺の瞳をじっと見つめた。その瞳に映るのは、死への恐怖ではなく、未来への希望を守ろうとする、揺るぎない意志。
彼は、わなわなと唇を震わせ、何かを言おうとして、しかし言葉にならず、ただ悔しそうに俯いた。そして、溢れそうになる涙をぐっとこらえ、奥歯を噛み締めながら、顔を上げた。
「……わかったよ、ヴァイスさん」
絞り出すような声だった。
「……必ず、やり遂げる。……だから、あんたも……あんたも、必ず帰ってこいよ! ……絶対にだ! また一緒に、この星の空を飛ぶんだろ!」
『……ああ。約束する』
俺はアキラと、固い拳と爪を合わせる最後の約束を交わすと、彼に背を向け、格納庫の外へと向かった。開かれた巨大なゲートの向こうには、月が輝く夜空が広がっている。
俺が目指すは、もはや空の果てではない。
そのさらに向こう、漆黒の宇宙。
俺は振り返らなかった。振り返れば、この決意が鈍ってしまう気がしたからだ。
俺は、ただ前だけを見据え、力強く大地を蹴った。
巨体が夜空へと舞い上がり、街の光が急速に遠ざかる。高度を上げるにつれ、空の色が藍色から、やがて星々の輝きが満ちる漆黒へと変わっていく。
空気が薄れ、音が消え、世界が絶対的な静寂に包まれる。俺は全身に魔力を集中させ、身体の周りに薄い大気のヴェールを形成した。大気圏を突破する際の摩擦熱を防ぐための、俺だけの宇宙服だ。
やがて、身体を包む空気が燃え始め、俺は一筋の白い流星となって、漆黒の宇宙へと突き抜けた。
眼下に、青く輝く美しい故郷の星が見える。
雲が流れ、海が煌めき、大地が息づいている。あそこで、アキラたちが、タカギたちが、俺の帰りを待っている。
待っていろ、皆。
必ず、守ってみせる。
俺は、その美しい星を背に、一人、星を喰らう怪物デボアラーが待つ暗黒の空間へと向かって、最後の翼を広げた。
神話の竜と、宇宙の怪物。
星の運命を賭けた、空前絶後の最終決戦が今、始まろうとしていた。




