第106話 平和の終わりの鐘
プロジェクト『アーク』が発足してから、世界は緩やかで、しかし確かな変革の時を迎えていた。
地底のアークからもたらされたオーバーテクノロジーの解析は、アーニャ博士のチームによって慎重に進められ、その恩恵はまず、最も基礎的で重要なインフラから世界に少しずつ浸透し始めていた。
特に、アークの船体構造から解明された自己修復機能を持つ合金技術は、老朽化した都市の建築物や橋、公共交通機関の補強に革命をもたらした。人々は、より安全で快適な生活基盤を手に入れ、その顔には少しずつ、未来への明るい希望が灯り始めていた。
ある日の夕暮れ。
俺とアキラは、新ガイアポリスで最も高い摩天楼『スカイ・クレイドル』の頂上、一般には開放されていないヘリポートにいた。ここはタカギ司令の計らいで、俺が街を訪れた際の休憩場所として、特別に使用が許可されている場所だ。
眼下に広がる光の海を眺めながら、俺は巨大な身体をコンクリートの床に横たえ、アキラは手すりに寄りかかって、キンキンに冷えた缶コーヒーを喉に流し込んでいた。
「ぷはーっ! やっぱ仕事終わりの一杯は格別だなあ!」
「仕事と言っても、お前は俺の背中に乗って景色を眺めていただけだろうが」
俺が呆れて突っ込むと、アキラは「いやいや、エリゾン役も楽じゃないんですよ? 各国の要人とのスケジュール調整とか、ヴァイスさんの食事の手配とか!」と大げさにぼやいてみせる。
「それにしても……」
アキラは言葉を切り、眼下に広がる絶景に目を細めた。オレンジ色の光がガラス張りのビル群を黄金色に染め、やがて街には無数の明かりが灯り始める。それはまるで、地上に降り立った天の川のように、どこまでもどこまでも続いていた。
「……平和だなあ」
彼がしみじみと呟く。
「数年前、あんたが目覚めたばっかりの頃は、この空も灰色で、街もどこかギスギスしてたのにな。今は、どこへ行っても人々の顔に活気がある。これも全部、ヴァイスさんと、アーニャ博士たちのおかげだよ」
『……俺は何もしていない。お前たち人間が、自らの手で掴み取った平和だ』
「またまたご謙遜を。あんたがいなかったら、とっくの昔にデストロイドラゴンに滅ぼされてたっての。……なあ、ヴァイスさん。この平和、ずっと続くといいよな」
アキラが、どこか遠い目をして俺を見上げる。その瞳には、この美しい光景を守りたいという、純粋な願いが宿っていた。
『……ああ。そのために、俺たちはいるんだからな』
俺たちは、しばらく黙って眼下の絶景を眺めていた。
争いのない世界。誰もが明日に希望を抱いて眠れる世界。
この平和が、永遠に続けばいい。
俺は、千七百年の生涯で、初めて心の底からそう願っていた。
竜としてではなく、かつて人間だったレンとしてでもなく、ただ、この世界を愛する一存在として。
だが。
運命というのは、いつだって、あまりにも残酷で、そして唐突なものだ。
俺たちの築き上げたささやかな幸福を、そしてこの星の未来を根こそぎ奪い去ろうとする、真の絶望。
宇宙の深淵からの使者は、俺たちがこの平和に安堵している間も、音もなく、静かに、その牙を研ぎ澄ましていた。
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その光景から何百キロも離れた、夜の帳が下りた大陸中央山脈。
その最高峰、万年雪に覆われた『天の背骨』と呼ばれる頂には、文明の光から隔絶された静寂があった。
標高一万メートルを超えるその山頂は、空気が薄く、地上とは比較にならないほど星々が鮮明に、そして大きく輝いて見える。
そこには、統合軍の誇る『第3深宇宙観測所』があり、巨大な鳥の巣のように鎮座していた。直径百メートルを超える純白のパラボラアンテナが、まるで神に祈りを捧げるかのように、静かに漆黒の宇宙を見上げている。
ここは、太陽系の外縁部から飛来する微弱な信号を捉え、未知の脅威をいち早く発見するための、人類の「目」であり「耳」だった。
観測室の中は、静寂と、コンピューターの冷却ファンが発する微かな駆動音に満たされている。
当直の若い観測員、ケンタが、眠気をこらえるように大きく背伸びをした。
「……はぁーあ……。オールグリーン、異常なし、か。平和なもんだな……。主任、コーヒーのおかわり、淹れてきますよ」
「ああ、頼む」
隣の席で、この観測所の主任であるベテラン観測員、ハシバが、分厚い眼鏡の奥の鋭い目を細めながら、静かに星図をチェックしていた。彼はケンタの軽口には応じず、ただモニターに流れる無数のデータを見つめている。
「それにしても、主任。俺、一度くらい『第一種接近遭遇』みたいな、歴史的な発見をしてみたいですよ。教科書に俺の名前が載るようなやつ。ケンタ・サカキ、宇宙人を発見す!みたいな」
「馬鹿なことを言っとらんとはよコーヒーを淹れてこい。それに、我々の仕事は、そんなお祭り騒ぎを見つけることじゃない。何も見つからないこと、それが最高の成果なんだ」
ハシバがぶっきらぼうに言い放った、まさにその時だった。
ピ、ピ、ピ……と、これまで聞いたことのない、微弱だが甲高い警告音が、観測室の静寂を破った。
その音は、火災報知器のようなけたたましいものではない。
だが、全ての観測員の神経を逆撫でするような、不吉で、そして冷たい響きを持っていた。
「ん? なんだ、このアラートは? 重力波センサーか?」
ケンタは、先ほどまでの眠気が嘘のように吹き飛び、弾かれたようにコンソールに向き合った。
「主任、太陽系の外縁部、カイパーベルト付近で、微弱な重力波の乱れをキャッチしました。……所属不明の彗星か、あるいは迷い込んだ小惑星ですかね? たまにありますよね、こういうノイズ」
「いや、待て」
ハシバがコーヒーカップを置き、険しい顔でモニターを覗き込む。彼の長年の経験が、これがただのノイズではないと告げていた。
「カイパーベルトは、星々の墓場と呼ばれるほど安定している宙域だ。こんな明確な重力波が観測されること自体が異常だ。……データを拡大してみろ」
ケンタがハシバのただならぬ気配に息を呑み、コマンドを打ち込む。メインスクリーンに、対象宙域の拡大映像が映し出された。そこには、背景の星々の光を不自然に歪ませる、小さな黒い点が映し出されていた。
「……質量は、小惑星クラス……。ですが、軌道がおかしい。太陽の重力に引かれているようには見えません。まるで……」
「……減速している……ように見えるな」
ハシバが、信じられないという顔で呟いた。
「まさか……。ありえない、自然天体が自ら減速するはずがない! これは、明確な意志を持った動きだぞ!」
「えっ!? じゃあ、まさか本当に……!」
ケンタが息を呑む。二人の心臓が、早鐘を打ち始めた。
「スペクトル分析を急げ! 組成を調べるんだ! ただの岩石や氷の塊じゃない可能性がある!」
ハシバの怒声にも似た指示を受け、ケンタは震える手でコマンドを打ち込む。数分後、表示された解析結果に、二人は言葉を失った。
「……岩石反応、陰性。氷結反応、陰性……。表面は、未知の金属元素と、有機化合物による複合体……!?」
「内部からは、生体反応に酷似した、規則正しいエネルギーパルスを断続的に検出! 主任、こいつ……生きてます!」
「馬鹿な……!」
ハシバの顔から血の気が引いた。彼は、震える手で壁際の赤い緊急通信パネルのカバーを叩き割った。その下にあるのは、統合軍中央司令部に直通する、最高レベルの機密回線だ。
「ケンタ! 新ガイアポリスの中央司令部にホットラインを繋げ! 統合軍司令、タカギ長官を叩き起こせ! プロトコルは『ダブル・エックス』だ! 今すぐだ!」
「は、はいッ! プロトコル・ダブルエックス、了解!」
プロトコル・ダブルエックス。それは、惑星規模の危機が確認された場合にのみ使用が許される、最優先の通信コード。
ケンタが必死に通信コンソールを操作する。数秒後、スピーカーからノイズ混じりの応答があった。
『――こちら中央司令部、深夜巡回担当の通信士だ。どうした、第3観測所。ダブルエックスとは、ただ事ではないな。訓練か?』
「訓練ではない! ハシバ主任に代わります!」
ハシバは受話器をひったくると、喉が張り裂けんばかりに、しかし冷静さを失わないよう努めながら、切迫した声で叫んだ。
「こちら第3観測所、今すぐタカギ長官に繋いでくれ! 冗談を言っている時間はない! 『箱舟の警告』が、現実になったかもしれんのだ!」
平和な夜の終わりを告げる鐘が、今、高らかに、そして絶望的に鳴り響いた。




