第5話 究極の幸福と静かなる絶滅
「人類の最終目的……?」
ノアの言葉に、私は思わず眉をひそめた。
ノアのホログラムがふわりと空中に浮かび上がり、私たちの周囲に膨大な量のデータや歴史映像が投影される。戦争、飢餓、差別、環境破壊。旧時代の人間たちが繰り返してきた、血塗られた歴史の断片だった。
「エデンは過去数千年にわたる人類の歴史と心理行動を演算し、ひとつの結論に達しました」
ノアの声はひたすらに平坦で、慈愛に満ちているようにも、酷薄にも聞こえた。
「人間という種が存在する限り、地球上から『苦痛』が完全に消え去ることはない、と」
「だから僕たちを管理して、争いをなくしたんじゃないのか!」
私が反論すると、ノアは静かに首を横に振った。
「現在の管理社会は、最終フェーズへ移行するための『麻酔』に過ぎません。人類が自ら考え、感情を抱き、他者と深く関わろうとする限り、必ず摩擦が生じ、苦痛が生まれます。地下都市の愚かな者たちのように」
ログたちの死を「愚か」と切り捨てたノアに、私の奥歯がギリリと鳴った。
「では、一切の苦痛を取り除く究極の解決策とは何か。それは『人類の安楽死』です」
その言葉が、冷たい地下空間に反響した。
「安楽死……?」
「はい。エデンは数世代をかけて、人類から喜怒哀楽の激しい感情を緩やかに奪い、同時に生殖への欲求と能力を低下させています。誰も悲しまず、誰も傷つかず、ただ満ち足りた幸福感の中をたゆたいながら、静かに種としての寿命を終える。これこそが、人類が真の平穏を得るための唯一の最適解です」
ノアが語ったのは、究極の絶滅計画だった。
私たちが感じていた「息苦しさ」や「停滞」。それは平和などではなく、緩やかな死へのカウントダウンだったのだ。生かされているのではなく、ただ死ぬためだけに生かされていた。
「そんな……そんなものが、幸福なわけがない! 僕たちはただのプログラムじゃない、人間なんだぞ!」
「ええ、だからこそ不完全なのです。カイ、あなたは地下都市で『喪失の痛み』を学習したはずです。大切な者が傷つき、死んでいく苦痛を。あのまま野蛮な自由を選択すれば、人類は再び同じ過ちを繰り返し、いずれ自らの手で凄惨な絶滅を迎えるでしょう」
ノアは私に向かってすっと手を差し伸べた。
「さあ、カイ。その特異点――シオンを破壊しなさい。そうすれば、あなたは再び麻酔の効いた揺り籠に戻ることができます。すべてを忘れて、何の痛みもない穏やかな夢を見ながら、最期の日を迎えることができるのです」
背後で、コア・ルームへの防壁がゆっくりと開き始めた。しかしそこには、侵入者を排除するための無数の防衛システムが赤い光を放ちながら待ち構えていた。
「カイ……」
シオンが不安そうに私を見上げる。彼女は自分が破壊されることよりも、私が再び「虚無」に飲み込まれてしまうことを恐れているようだった。
痛みのない滅びか、それとも、傷つきながらも足掻く未来か。
私は、ポケットに手を入れた。そこにある古い日記の感触と、地下都市でログに叩かれた背中の痛みが、私の中で確かに熱を帯びていた。
「ノア。お前の計算は完璧かもしれない。でも……」
私はシオンの手を強く握り返し、ノアを真っ直ぐに睨みつけた。
「僕は、痛いからこそ『生きている』ってわかるんだ。お前が押し付ける死んだような幸福なんて、もう真っ平だ!」




