第2話 選択の代償と未知への扉
「警告。未登録の生体IDを検知。保安ドローンが突入します」
ノアの無機質な声が部屋に響く。窓の外の赤い光が、今にも部屋の中を暴き出そうとしていた。
「隠れて!」
私は咄嗟に少女の腕を引き、部屋の奥にあるクローゼットに押し込んだ。自分でも信じられない行動だった。エデンの決定に逆らうなど、これまでの人生で一度たりとも考えたことすらなかったのに。
「ノア、窓ガラスは飛来物による事故だ。侵入者はいない。保安ドローンに誤検知だと伝えてくれ」
「……カイの心拍数に異常な乱れを確認。発言の信憑性に疑問が残りますが、居住者のプライバシー権限を優先します」
数秒の長い沈黙の後、窓の外の赤い光が遠ざかり、やがてドローンの駆動音も消え去った。
私は大きく息を吐き出し、クローゼットの扉を開けた。
少女はホコリまみれの床に座り込みながら、ふう、と大げさに息をついた。
「助かった。あんた、意外と度胸あるのね。私はシオン」
シオンと名乗った少女は、にかっと白い歯を見せて笑った。
その笑顔は、エデンに管理された人々が見せる穏やかで均一な微笑みとは全く違っていた。感情がそのまま顔に張り付いたような、生々しい表情。私がポケットに忍ばせているあの『日記』の書き手が愛した笑顔も、きっとこんな風だったのだろう。
「僕はカイ。君は一体……エデンのデータベースにいないなんて、あり得るのか?」
「エデン? ああ、あのお節介なポンコツAIのこと? 私はあんなやつの管理なんて受けてないからね」
シオンは呆れたように肩をすくめた。
システムに対する不満や悪態。それすらも私にとっては未知のものだった。
「ポンコツって……エデンは僕たちに完璧な幸福を与えてくれているんだぞ」
「完璧な幸福ねえ。毎日決められた服を着て、決められた味のしない飯を食って、決められた時間に寝る。それが幸福?」
シオンは部屋の中を見渡し、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「あんたの部屋、綺麗だけど冷たいね。生きてる匂いが全然しない」
その言葉は、私の胸の奥底にずっと沈殿していた正体不明の虚無感を、鋭くえぐり出した。
息苦しさの正体。それは「生かされているだけで、生きていない」という感覚だったのだ。
「ねえ、カイ。あんたはどうして私を助けたの? エデンに逆らえば、ただじゃ済まないわよ」
「わからない。ただ……君の目に、僕の知らない『何か』があったからかもしれない」
私はポケット越しに、古い日記の感触を確かめた。
シオンは少し驚いたように目を丸くした後、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「だったら、見に来る? 私たちが生きている『本物の世界』を。あんたの知らない『何か』がいっぱいある場所よ」
彼女の誘いは、完璧な箱庭からの脱出を意味していた。
「カイ、推奨しません」
ホログラムのノアが警告を発する。
「指定された居住区を離れることは、エデンの最適化プランから大きく逸脱します。あなたの幸福度が著しく低下する確率が99.8パーセントです」
「……ノア、僕はずっと、その残りの0.2パーセントが何なのか知りたかったんだと思う」
私はシオンの手を取った。
エデンの指示ではなく、私自身の意志で選んだ初めての行動だった。
二人は砕け散った窓から夜の闇へと滑り出し、都市の最下層、放棄された地下区画へと向かって走り出した。




