第29話:エリート魔導士の襲撃と、幻の巨大海鮮スパイスパエリア
魔導都市エテメンアンキの最下層に位置する、暗く入り組んだ裏路地。
普段ならば、魔導院のトップエリートである高位魔導士アリスターが、その高級な純白のローブの裾を汚してまで足を踏み入れるような場所ではない。
「……チッ。貧乏くさい悪臭を漂わせおって。このような路地裏の奥底に、違法な魔力増幅アーティファクトの密売所があるというのか」
アリスターは鼻をつまみながら不快げに顔を歪めた。
背後には、同じく純白のローブを纏った数名の武装魔導士が、いつでも攻撃魔法を放てるよう杖を構えて付き従っている。
「第三工房の下級魔導士たちが、毎晩この路地の奥へ消えていくのを監視部隊が確認しております。間違いありません。ここで違法な取引が行われているのです」
「愚かなネズミどもめ。エリートである我々が何百年もかけて構築した精霊制御のシステムを、得体の知れないアーティファクトで出し抜こうなどと。……全員まとめて魔導監獄送りにしてやる」
アリスターは冷酷な笑みを浮かべ、路地の最奥へと歩みを進めた。
やがて、巨木の根元に隠れるようにして建つ、古いアンティーク調の店舗が姿を現す。
窓からは温かなオレンジ色の光が漏れ、そして――アリスターの鼻腔を、強烈な未知の匂いが刺激した。
「……なんだ、この匂いは。いや、これは違法ポーションを煮詰める悪臭に違いない! 突入するぞ!!」
アリスターは、自らの胃袋がそのスパイシーな匂いに反応して「きゅるり」と小さく鳴ったのを強引に無視し、革靴で勢いよく店舗の扉を蹴り開けた。
バンッッ!!!
「魔導院・特別査察局だ!! 違法アーティファクトの所持および不正な精霊使役の容疑で、貴様らを――」
杖を突きつけ、怒号を響かせる。
突入部隊も一斉に雪崩れ込み、杖の先端を威嚇するように光らせた。
――しかし。
そこに広がっていたのは、アリスターの予想していた「違法組織の薄暗いアジト」でも「邪悪な魔力増幅陣」でもなかった。
「……あ、あれ? アリスター様……?」
「どうして魔導院のトップが、こんな路地裏の食堂に……?」
テーブル席に座っていたのは、ティルやザックをはじめとする、見慣れた灰色のローブを着た下級魔導士たちだった。
違法な取引をするどころか、顔を真っ赤にして額に汗をかきながら、木皿に盛られた茶色いドロドロとした食べ物を、夢中になって頬張っていたのである。
さらにアリスターの脳をバグらせたのは、彼らの足元や肩にいる精霊たちの姿だった。
『……? ウルサイ、ニンゲンキタ』
『……フニャァン……カレー、タベテルノニ……』
精霊たちを縛り付ける青白い魔力の鎖は、どこにも存在しない。
にもかかわらず精霊たちは逃げることも暴走することもなく、自らの意思で下級魔導士たちに寄り添い、小さな皿のスープを美味しそうに飲んでいた。
「な、なんだこれは……!? 魔法陣もないのに、精霊が実体化して人間の飯を食っている!? 一体どんな違法魔法を使った!!」
アリスターが混乱のあまり裏返った声で叫んだ、その時だった。
「あら、いらっしゃいませ。ずいぶんと威勢のいいお客様ですね」
カウンターの奥から、ふにゃりと柔らかく微笑む声が響いた。
薄藍色の髪を揺らし、首を傾げてこちらを見つめているのは、信じられないほど美しい一人の少女――エレインだった。
アリスターは鋭く睨みつけた。
しかしどれだけ魔力探知を張り巡らせても、彼女からは強大な魔力の波長は一切感じられない。ただの、無力で美しいだけの町娘にしか見えなかった。
「貴様がこの怪しい店の主か! 隠している違法アーティファクトを出せ!!」
「アーティファクト……? よく分かりませんが、うちにあるのは美味しいご飯と、温かいお茶くらいですよ」
エレインが困ったように眉を下げた、まさにその瞬間。
ザバァァァァァッ!!!
「な、なんだッ!?」
厨房の奥に置かれた、飲み水用の大きな木樽。
その水面が突如として爆発したように弾け、大量の水しぶきと共に、水色の髪をした精霊が元気よく飛び出してきた。
『エレインー!! タダイマ! ウミデ、スッゴイ「タカラモノ」ミツケタヨ!!』
「ひっ!? こ、高位の水精霊!? なぜこんな路地裏の水樽から空間転移を……ッ!」
突然現れたナギの圧倒的な存在感と水圧に、アリスターと武装魔導士たちが悲鳴を上げて後ずさる。
「あ、ナギ! おかえりなさい! 海での宝探しはどうだった?」
エレインは全く動じることなく、びしょ濡れになったナギの頭をタオルで優しく拭いてあげた。
『ウンッ! ジャーン! コレ、ミテ!!』
ナギが誇らしげに両手を掲げると、水流に包まれてドサリとカウンターの上に現れたのは――。
大人の腕の太さほどもある、透き通るような青い甲殻を持った巨大な海老。
そして、大人の顔ほどもある、黄金色に輝く巨大な二枚貝の山だった。
「ひぃぃッ! そ、それは新大陸の最南端の深海にしか生息しないとされる『幻青海老』と『黄金大アサリ』ではないか! 国宝級の魔法素材だぞ!?」
アリスターが目をひん剥いて絶叫する。
エリート魔導士の間では、莫大な魔力を秘めた幻の素材として金貨数千枚で取引される代物だ。
それを、こんな裏路地の食堂のカウンターに無造作に放り出すなど、正気の沙汰ではない。
「わあ……! すごいわナギ、こんなに大きくて立派な海鮮! とっても美味しそう!」
『エヘヘ! エレインノ、オイシイゴハンニ、シテネ!』
しかしエレインの目には、それが魔法素材になど全く見えていなかった。
ただの「極上の新鮮な食材」だ。
「よし。ちょうどスパイスカレーのルーも残り少なかったし、今日はこのとびきりの宝物を使って、新作の特製ご飯を作りましょうか!」
エレインは腕まくりをして、アリスターたちの存在などすっかり忘れたかのように、楽しそうに調理の準備を始めた。
「お、おい! 私の話を聞いているのか!」
「お客様も、ちょうどお腹が空いているんでしょう? 少し待っていてくださいね。今、すっごく美味しいものを作りますから」
エレインがふにゃりと笑いかけると、アリスターは毒気を抜かれたように言葉に詰まった。
どれほど凄んでも、この店の中にある「絶対的な平和と癒やしの空気」を壊すことができない。
そして何より、先ほどからアリスターの嗅覚を殴り続けているスパイスの香りが、彼の思考能力を著しく奪い始めていた。
「ポポ、まずは大きな平たい鉄鍋を温めて。オリーブオイルとニンニクの香りを引き出すわよ」
『マカセテ! コガサナイヨウニ、ジックリ、アタタメルネ!』
ポポがパチパチと炎を弾かせ、鉄鍋に敷かれた黄金色の油の中で、細かく刻まれたニンニクがゆっくりと踊り出す。
香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がった。
「ナギが持ってきてくれた黄金大アサリと、幻青海老を殻ごと投入して……」
――ジュワァァァァッ!!!
熱された油に巨大な海鮮が触れた瞬間、凄まじいシズル音が弾けた。
青く透き通っていたロブスターの甲殻が、ポポの熱を受けて一瞬にして鮮烈な真紅へと染め上がっていく。
同時に黄金色のアサリの口がパカリと開き、中から濃厚な海の旨味をたっぷりと含んだ極上の出汁が、鍋いっぱいに溢れ出した。
「うぉぉっ……! なんだ、この暴力的な海の匂いは……!」
カウンター越しに見つめていたアリスターが、たまらずゴクリと喉を鳴らす。
「ラム、このお出汁に深みを出してちょうだい」
『……フニャァン……ワタシノ、トクセイ・トマトペースト……イレルゾォ……』
ラムが鍋の上にふわりと浮かび、何日もかけて熟成・発酵させた旨味の塊のような真っ赤なトマトペーストと、黄金色のサフランを落とし込む。
透明だった海鮮の出汁が夕焼けのように美しいオレンジ色に染まり、ラムの魔法によって「何十時間も煮込んだような深いコク」を獲得した。
「あとは、チャイのスパイスとお米を入れて炊き上げるだけね!」
『キュルルッ! ワタシノ、トクセイスパイス、イクヨォッ!』
チャイが尻尾を振り、カルダモンやクミン、コリアンダーの粉を鍋に振りかける。
海の濃厚な旨味。熟成トマトの爽やかな酸味とコク。脳髄を痺れさせるようなスパイスの鮮烈な香り。
それらすべてが一体となり、炊き上がるお米の一粒一粒に、限界まで染み込んでいく。
グツグツと煮立つ音が、やがてパチパチという香ばしいおこげを作る音へと変わっていく。
「……はぁ、はぁ……っ」
アリスターの足が、無意識にフラフラとカウンターへと引き寄せられていた。
エリート魔導士として、普段は無味乾燥な栄養ブロックや、見た目だけが美しい宮廷料理しか口にしてこなかった彼にとって。
目の前で繰り広げられる「調理」という名の魔法は、未知の破壊力を持っていた。
「はい、お待たせいたしました! 幻の海鮮とスパイスの魔法がたっぷり詰まった、カフェ・エル特製『極上シーフード・パエリア』の完成です!」
エレインが、熱々の平鍋ごとカウンターの上にドンッと置いた。
鍋一面を覆い尽くす、真紅の巨大ロブスターと、ぷりぷりの肉厚な黄金アサリ。
その下には、海の旨味とスパイスの香りを極限まで吸い込み、おこげを作ってパチパチと音を立てている黄金色の極上ライスが敷き詰められている。
湯気と共に立ち昇る香りは、もはや拷問に近いほどの引力を持っていた。
「さあ、査察官のお兄さんも。立ち話もなんですから、一口食べてみませんか?」
エレインが、小皿に取り分けたパエリアをふにゃりと笑ってアリスターの前に差し出す。
「ば、馬鹿にするな……! 私が、そんな下民の泥のような飯を食うとでも――」
しかし彼の胃袋は限界を超えた音で「ぐきゅるるるッ!」と鳴り響き、口内には制御不能なほどの唾液が溢れ出していた。
……一口だけだ。一口だけ食べて、こんなものは不味いと吐き捨ててやる。
アリスターは自らにそう言い聞かせ、震える手でスプーンを握り、黄金色のライスと大きく切り分けられたロブスターの身をすくって口の中へ放り込んだ。
「――――ッッッ!!?!?」
瞬間。
アリスターの脳内で、これまで築き上げてきた「エリートの常識」という名の分厚い壁が、音を立てて木っ端微塵に崩れ去った。
なんだこれは。
なんだ、この圧倒的なまでの美味さは!!
歯を押し返すようなロブスターの暴力的な弾力。噛みちぎった瞬間、中から溢れ出すのは、ナギが運んできた深海の澄んだ海流が生み出した極上の甘みと濃厚なエキス。
それを迎え撃つのは、チャイのスパイスによって極限まで引き出された香りの爆発だ。
海鮮の生臭さはラムの発酵トマトが完全に消し去り、ポポの火加減で作られた香ばしいおこげのカリッとした食感が、最後のリズムとして完璧なオーケストラを奏でている。
「う、美味い……ッ! 美味すぎる……ッ!! なんだこの複雑で、奥深くて、優しくて……どうしようもなく身体が熱くなる食べ物はァァッ!!」
アリスターは、エリートとしてのプライドも査察官としての立場も完全に忘れ去り、一心不乱にスプーンを動かし始めた。
純白のローブにパエリアのオレンジ色の油が跳ねることも気にせず、ただ獣のように皿にかじりつく。
「アリスター様!? もしやそれは洗脳の魔法薬では……!」
「黙れッ!! 私の食事の邪魔をする気か!! 店主、おかわりだ! この幻青海老の甲殻の中の味噌も、一滴残らず寄越せェェッ!!」
涙と鼻水を流し、顔をテカテカに光らせながらパエリアを貪り食うトップエリートの姿。
ティルたち下級魔導士はポカンと口を開け、精霊たちは呆れたように首を振っていた。
『……フン。また一人、俺たちの飯の美味さに脳を焼かれた哀れなニンゲンが増えたな』
ギルが、やれやれと三本の尾を揺らして鼻を鳴らす。
「……はぁぁ……っ、食った……。我が人生で、これほどの至福は味わったことがない……」
三回のおかわりを平らげ、最後は皿に残ったおこげまで指で舐め取ったアリスターは、カウンターに突っ伏して深々と息を吐き出していた。
胃袋は限界まで満たされ、スパイスの魔法によって全身の血流が巡り、エリート魔導士特有の神経質な肩こりや頭痛が嘘のように消え去っていた。
「いかがでしたか? うちの特製ご飯は」
エレインが、食後のハーブティーをコトリと置きながら優しく微笑む。
「……負けだ。完全なる敗北だ」
アリスターはすっかり毒気の抜けた、憑き物が落ちたような穏やかな顔で天井を見上げた。
「違法アーティファクトなど、最初から存在しなかった。……これほど美味い飯を食わせてもらえるなら、精霊どもが魔法陣なしで喜んで働くのも当然だ。……私の、エリートとしての常識が、すべて間違っていたのだ」
彼は深くため息をつき、懐からずっしりと重い金貨の袋を取り出してカウンターに置いた。
「この店のことは、魔導院には『異常なし』と報告しておく。……その代わり。明日もまた、仕事終わりにここへ来ることを許可してくれ。次は、あの下級魔導士どもが食っていたカレーというものを寄越せ」
「ふふっ、ありがとうございます。……ええ、もちろん。お客様はみんな、ここでは平等ですから。明日もお待ちしていますね」
魔導都市の重鎮が、一杯のパエリアの前に完全敗北し、裏路地のカフェの常連へと成り下がった(成り上がった)瞬間だった。
魔法陣で支配する冷たい都市の常識は、エレインの作る圧倒的なシズル感と精霊たちとの優しい絆の前に、こうして一人、また一人と、無自覚の内に塗り替えられていくのだった。




