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第2話:トランク一つの解放感。王都を出る軽やかな足取り

 王都の正門をくぐった瞬間、遮るもののない太陽がエレインの全身を包んだ。

 振り返れば、王家の権威を象徴する豪奢な尖塔が青空に向かって傲慢にそびえ立っている。

 つい数時間前まで、あの地下深くのカビ臭い石室が、エレインの「世界のすべて」だった。

 門兵たちは、薄藍色の質素なワンピースで古びたトランクを提げるだけの少女が、つい先ほどまでこの国のインフラを一人で支えていた筆頭『精霊翻訳官』だとは夢にも思わないだろう。

 通行証を気だるげに確認し、手を振って送り出した。それだけだった。

「ふふっ……」

 あっさりと王都の外へ吐き出された事実が、たまらなく可笑しかった。



  街道の土はゴツゴツとしていて、歩くたびに小石がブーツの底を打つ。

 王城の磨き抜かれた大理石の床とは似ても似つかない感触だ。

 でも、それがいい。

 その不均等な振動のひとつひとつが、「生きている」という実感となって、足の裏から全身へと駆け上っていく。

 街道沿いには見渡す限りの黄金色の麦畑が広がり、風が吹くたびにザワザワと波打っている。

 道端には、王城の庭師が計算尽くで配置した人工的な薔薇ではなく、名もなき野花が力強く咲き乱れ、むせ返るような命の匂いを放っていた。

 大きく、深く、息を吸い込む。

 コルセットに縛られていない肺が限界まで膨らむ。

「ああ……空が、こんなにも高いなんて」

 思わずポツリと声が漏れた。

 王城では『氷の令嬢』と呼ばれ、決して表情を崩すことを許されなかった。

 少しでも感情を揺らせば、王都中に渦巻く精霊たちの「不満」や「悲鳴」――古代精霊語の奔流に精神を呑み込まれ、自我が崩壊してしまうからだ。

 文字通り身を削って疲弊していく水精霊の嘆き。

 昼夜問わず照らし続けることを強制され、光を失いかけていた光精霊のすすり泣き。

 心を氷のように凍らせることで、その声を受け止め、徹夜の書類仕事で彼らをなだめ、ギリギリのところで契約を維持し続けてきた。

 レオンハルトが放った「陰気で不気味な女」という言葉は、王族がエレインに強いた呪いそのものだったのだ。

 だが、今は違う。

 王都から離れるにつれて、精霊たちの苦しげな声は届かなくなっていく。

 代わりに聞こえてくるのは、風に揺れる葉擦れと、野を駆ける小さな風精霊たちの無邪気な笑い声だけ。

 トランクの中身は、着替えと手帳、それから少しの路銀だけだ。

 公爵令嬢としての地位も、豪華なドレスも、すべてあの地下室に置いてきた。

 今の彼女は、ただの「エレイン」だ。

 それなのに――背中に見えない羽が生えたかのように、身体が羽毛のように軽かった。



  太陽が中天に差し掛かった頃、街道の脇に移動式の小さな屋台が見えた。

 風に乗って、香ばしい匂いが漂ってくる。

 小麦が焼ける甘い香りと、焦げたチーズの濃厚な匂い。爽やかなハーブの香り。

 きゅるるるぅぅ……。

 エレインのお腹が、盛大な音を立てた。

 思わず顔が真っ赤になる。

 そういえば、追放騒動の前から徹夜で、丸二日まともなものを食べていなかった。

 王城の食事といえば、冷え切った固いライ麦パンか、味のしない干し肉ばかり。書類を汚さないよう、ただ「命をつなぐ燃料」として胃に流し込んでいただけだ。

 エレインは吸い寄せられるように屋台へ近づいた。

「いらっしゃい、お嬢ちゃん! 一人旅かい?」

 ふくよかで人の良さそうなおばさんが声をかけてくる。

 木箱の上には、焼き立てのパンが山積みだ。

「はい。あの……すごくいい匂いがして」

「ふふっ、お目が高いね! うちの自慢の『ごろごろチーズと香草の田舎パン』だよ。今ちょうど釜から出したばかりさ!」

 トングで持ち上げられたパンは、大人の拳二つ分はある大きさで、表面はこんがりとした狐色。

 割れ目からとろりとした黄金色のチーズが溢れ出し、熱気と共にハーブの鮮烈な香りを撒き散らしている。

「一ついただけますか」

「まいどあり! 銅貨三枚だよ」

 受け取った紙包みから、火傷しそうなほどの熱がじんわりと手のひらに伝わってくる。

「気をつけてお行きよ。この先は『静寂の森』だ。魔物は出ないって話だけど、道が入り組んでるからね」

「ありがとうございます。美味しくいただきますね」

 腹の探り合いも嫌味もない、ただ相手の安全を願うだけの純粋な言葉。

 それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。



  街道から少し外れた丘の上、大きな樫の木の木陰にエレインは腰を下ろした。

 ゴクリ、と喉が鳴る。

 両手でパンを掴み、そっと左右に引き裂く。

 パリッ、サクッ。

 硬いクラストが弾ける音の直後、ふわりと真っ白な湯気が立ち昇った。

「わあ……っ」

 断面からは、濃厚なチーズがとろぉりと糸を引いて伸びている。

 熱せられたローズマリーとタイムの香りが、食欲を暴力的なまでに刺激してくる。

 たまらず、大きく口を開けてパクリと噛みついた。

 ――ザクッ。

 香ばしい皮を噛み破った瞬間、もっちりとした生地が歯を押し返してくる。

 そして、チーズの濃厚なコクと絶妙な塩気が、熱い肉汁のように口の中いっぱいにジュワッと広がった。

「……んんっ、おい、しい……っ」

 ハフハフと熱い息を吐き出しながら、夢中で咀嚼する。

 噛めば噛むほど小麦の素朴な甘みが引き出されて、チーズの塩気と完璧なハーモニーを奏でる。

 時折弾けるハーブの香りが、重たくなりがちなチーズの風味を爽やかにリセットして、次の一口を強烈に要求してくる。

 宮廷の晩餐会で出される、見た目ばかりが華やかで冷め切った高級料理など、この焼き立てパンの足元にも及ばない。

「美味しい……本当に、美味しい……っ」

 二口、三口と食べ進めるうちに、エレインの視界がふいに滲んだ。

 自由な空の下で。

 誰にも急かされることなく。

 ただ自分のためだけに、温かいものを食べる喜び。

 ポロリと、大粒の涙が頬を伝った。

 悲しみの涙ではない。

 カビ臭い地下室で凍りついていた心が、温かいパンの熱と太陽の光によって溶かされ、あふれ出した「命の喜び」の雫だった。

「ふふっ……私、泣きながらパン食べてる。変なの」

 涙を手の甲で乱暴に拭い、エレインはふにゃりと笑う。

 最後の一欠片まで大切に、口の周りに粉をつけながら綺麗に平らげた。

「ごちそうさまでした!」

 誰もいない青空に向かって元気よく手を合わせると、弾かれたように立ち上がる。

 足の疲れなど微塵も感じない。むしろ、この先の景色が早く見たくて、足先がウズウズと疼いていた。



  空が茜色に染まり始めた頃、目の前に巨大な緑の壁が立ちはだかった。

 人間の手が一切入っていない原生林。

 鬱蒼と生い茂る古木が天を覆い、昼間でも薄暗いという森は、足を踏み入れた瞬間に音が消えると言われている。

『静寂の森』。

 人間を嫌う、気位の高い精霊たちが静かに暮らす領域だ。

「……ここからが、私の本当の旅の始まりね」

 エレインはトランクの持ち手を強く握り直した。

 未知の森への恐怖は、不思議と一切なかった。

 あの息苦しい王宮に比べれば、精霊の気配に満ちたこの森は――むしろ「故郷」のように心地よかった。

 夕闇が迫る中、薄藍色の旅装束を揺らしながら。

 エレインは一切の躊躇なく、軽やかな足取りで森の奥へと踏み入っていった。

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