第1話:精霊翻訳官のエレイン
『不気味だ』と追放された精霊翻訳官、念願の自由な旅に出る〜私が契約書を書かなくなった途端に王都の全精霊がストライキを始めましたが、私は各地の精霊たちと個人契約を結んで賑やかに過ごしているのでもう遅いです〜
こちらの短編の連載版です。
改行は意図的に少なくしておりますが、読みづらいようでしたら改稿していきます。
どうぞよろしくお願いします
王城の地下に、太陽は届かない。
石造りの小部屋に満ちているのは、カビと古い羊皮紙の匂い、それから――三日三晩分の、エレイン・エルシュタットの疲労だけだ。
魔導カンテラが青白い光を落とす。その光が照らし出すのは、山積みの書類と、インクで汚れた指先と、目の下に刻まれた濃い隈。
カリカリと、羽根ペンが羊皮紙を刻む。
人間には発音すら不可能な『古代精霊語』による、契約の更新文だ。
王都の給水塔に水を満たすのも、冬の湯を適温に保つのも、夜の闇を払う魔導灯を灯し続けるのも、魔物を退ける不可視の防壁も――この豊かな王国の「当たり前」は、すべて精霊との契約の上に成り立っている。
だが精霊とは、ひどく気まぐれな生き物だ。
彼らをなだめ、不満をすくい上げ、適切な対価を捧げながら、その声を法的に有効な契約書へと翻訳し続ける。
少しでも条件に齟齬があれば、彼らはすぐへそを曲げて恵みを止める。
世界でただひとり、精霊の真の言葉を解するエレインの仕事とは、そういうものだった。
三日三晩、一睡もしていない。
ペンを握り続ける手は、とうに感覚を失っていた。
首元までびっしりとボタンが並ぶ漆黒のドレスは王家が強要した制服で、硬い鯨骨のコルセットが肋骨を締め付けるたびに、呼吸のたびに鈍い痛みが走る。
それでも、手を止めるわけにはいかない。
私が止まれば、明日の王都が立ち行かなくなる。
その重圧だけが、折れそうな背筋を支えていた。
コツ、コツ。
石造りの廊下に、似つかわしくない足音が響いた。
次の瞬間、木の扉が乱暴に開け放たれ、甘ったるい薔薇の香水の匂いが地下室になだれ込んでくる。
「ここにいたか、陰気な女め」
入ってきたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された純白の軍服の青年。
第一王子レオンハルト。エレインの婚約者だ。
その腕に、桃色の髪の少女がべったりとすがりついている。自称・光の聖女、ミア。
エレインは静かにペンを置き、重いドレスを引きずって完璧なカーテシーをとった。
「レオンハルト殿下。このような地下室に、いかがなさいましたか」
「ふん。相変わらず氷のように冷たい。ミアのこの笑顔の、百分の一でも見習ったらどうだ」
「まあ殿下ったら」とミアが甘く笑う。「エレイン様はずっと暗いお部屋にいらっしゃるから、お顔が真っ青なのも仕方ありませんわ」
過剰な香水と澱んだ地下の空気が混ざり合い、徹夜明けの胃がひっくり返りそうになる。
エレインは顔色ひとつ変えなかった。
「エレイン・エルシュタット!」
レオンハルトの怒声が、狭い石の部屋にビリビリと反響する。
「貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」
驚きはなかった。
いつかこうなることは、火を見るより明らかだったから。
「精霊を操る能力があると聞いて重宝していたが、最近は要求ばかりで役に立っていないではないか! 先日も、給水塔の精霊が魔力結晶の質を上げろと抜かしたそうだな! たかが水風情に!」
「……殿下、水精霊の要求は正当です。近年の人口増加により、彼らの負担は限界を――」
「黙れ! 言い訳など聞きたくない! ミアはどうだ。彼女はただ祈るだけで精霊に加護を与えられる、真の聖女だ。裏で小難しい書類を書くだけの、地味で不気味な女はもう不要だ! 今すぐここから出て行け!」
勝ち誇ったように顎を上げるレオンハルト。
ミアが彼の腕に顔を埋め、「これからは私が祈りで国をお守りしますね」と囁く。
エレインは、静かに思った。
――この人たちは、本当に何も知らないのだ。
ミアの「祈り」など、精霊たちにとっては耳障りな雑音でしかない。精霊が求めるのは、対等な対話と正当な対価だ。
エレインが命を削って不満を翻訳し、予算を捻出し、契約を維持し続けていたからこそ、精霊たちはギリギリのところで暴走を踏みとどまっていた。
もし私がここを去れば。
契約の更新を怠れば、精霊たちはあっという間に人間を見限るだろう。
忠告すべきか。
いや――ああ、もう億劫だ。
その時、限界まで張り詰めていた心の奥で、何かがプツリと音を立てた。
切れたのではない。
長年、身体に重くのしかかっていた分厚い鉄の鎖が、粉々に砕け散ったのだ。
「……承知いたしました」
エレインは深く頭を下げる。
その唇は、自分でも驚くほど滑らかに、鮮やかな弧を描いていた。
ドレスの裾を力強く握りしめ、足元から込み上げてくる歓喜の震えを必死に抑える。
――解放された。
もうこの地下室で、気難しい精霊たちのご機嫌取りをしなくていい。
冷え切ったパンをかじりながら徹夜する生活も、陽の光を浴びれば「仕事に戻れ」と急かされる日々も。
そしてこの身体を締め付ける黒いドレスも、今日で終わりだ。
「これまでの御恩、生涯忘れません。それでは――失礼いたします」
エレインは振り返らなかった。
小さなトランクを一つだけ手に取り、呆気にとられるレオンハルトたちを置き去りにして、軽やかな足取りで地下室を出る。
「フン、せいぜい野垂れ死ぬがいい!」
背後から怒声が追いかけてきたが、今のエレインにとっては、春のそよ風よりも軽かった。
自室に戻って真っ先にしたのは、漆黒のドレスを脱ぎ捨てることだった。
首元からの無数のボタンを、指先を震わせながら乱暴に外していく。
重厚なベルベットが床に落ちた瞬間、肩の鉛のような重みがスッと消えた。
そして、最も彼女を苦しめていた鯨骨のコルセット。
背中の紐を力いっぱい引き解いた瞬間――
「っはぁ……っ、息が、できる……!」
肺の底まで、新鮮な空気が一気に流れ込んでくる。
肋骨に残った赤い締め付けの跡をさすりながら、エレインは何度も深呼吸をした。
ただ息を吸って吐く。それだけのことが、ひどく甘美で、生きている実感に満ちていた。
クローゼットの奥から引っ張り出したのは、薄藍色のコットンのワンピース。
柔らかな生地が素肌に触れた瞬間、頬がふにゃりと緩む。
足元は、装飾のない歩きやすい革のブーツ。
荷物は少ない。
着替え数着と、初代翻訳官が遺した古ぼけた手帳。それから少しの路銀。
王家から与えられた宝石や装飾品は、テーブルの上に全部置いていく。あんな重い石ころは、旅には要らない。
準備は、整った。
王城の裏門をくぐった瞬間、強烈な陽光がエレインの視界を真っ白に染め上げた。
「あ……」
目を細めると、そこには抜けるように青い空と、遠くに広がる深い緑の山々。
頬を撫でる風が、熱された土と青草の匂いを運んでくる。
名も知らぬ小鳥たちのさえずりが、耳に心地よく降り注ぐ。
地下室では決して味わえなかった、色彩と音と匂いの奔流。
命の息吹に満ちた世界が、彼女を祝福するように出迎えていた。
「私、自由なんだわ……!」
声が自然と漏れ、足取りは羽が生えたように軽くなる。
向かう先は決まっていた。
王都の喧騒から遠く離れた、手つかずの自然が残る『静寂の森』だ。
あそこには、人間の身勝手な都合に縛られない、自由で孤独な精霊たちがいるはず。
氷の令嬢と蔑まれた彼女の顔には今、太陽よりも眩しい、年相応の無防備な笑顔が咲いていた。
一方その頃、王城では異変が始まっていた。
晴れやかな気分で大浴場へ向かったレオンハルトは、大理石の湯船に足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。
「……ん?」
湯が、冷たい。
ぬるま湯どころか、ほぼ水だ。
「おい、どうなっている! 湯が冷たいではないか!」
侍従たちが慌てて調べるが、原因がわからない。
当然だ。この城の湯浴みは、火の精霊と水の精霊の契約で成り立っている。エレインという翻訳官が消えたことで、彼らは「わざわざ人間のために温度を調整してやる」という配慮を、たった今、放棄したのだ。
「ちっ……まぁいい。どうせ明日にはミアの祈りで元通りになる」
湯から上がりながら、レオンハルトはふと廊下を見た。
「……灯りも、いつもより暗い気がするな」
チカチカと瞬く魔導灯を鬱陶しそうに睨みつけ、彼は苛立たしげに舌打ちをした。
まだ気づいていない。
「湯がぬるい」「灯りが暗い」という小さな不便が、やがて国全体を飲み込む崩壊への――終わりの始まりに過ぎないということを。
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次回お楽しみに。




