9.新しい仲間と最初の解放者
ジェイリスの家から自由の家に向かいながら、リゲルは自分の周りに見えない壁が出来て、一歩も進めなくなってしまったのを感じた。どんなに世論を動かしても法律を変える事は出来ないのだ。
自由の家の前で止まると、リゲルは馬を降りてじっと入り口を見つめた。ドアの横には、小さな板にコーヒーの実で文字を書いた看板が打ちつけてあった。この事務所の名前が決まった次の日に、ルマと二人で取り付けたものだった。その『Casa Da Liberdade(自由の家)』という文字をリゲルはただじっと見つめた。
この家を掃除しながら思い描いた夢は、白人も黒人もみんなが一緒に集まって、コーヒーや紅茶を楽しむ事だった。思わず涙が溢れそうになったが、リゲルはぐっと息を吸い込んで堪えた。
まだ泣けない。夢は終わったわけじゃない。後二年もすればパウロ二世も二十歳になる。そうすれば議会も動かせる力を持てるはずだ。
「まだ諦めないわ」
そう呟いた時、リゲルは少し離れた所に一人の女性が立っているのに気がついた。彼女も同じようにじっと自由の家の看板を見つめていた。地味な服装は高価ではなかった。少し小太りだが、豊かでつややかな黒髪を腰まで伸ばしている。年はリゲルより少し上だろうか。リゲルがじっと見つめている事に気がついたのか、彼女もリゲルの方を見つめ返した。
「あんたが奴隷解放運動の代表、リゲル・マッカーニオ?」
いきなり代表と呼ばれてリゲルは目をしばつかせた。自分が行なっている活動の事も、奴隷解放運動と呼ばれたのは初めてだった。
「あの、あなたは・・・」
「あたしはジェシカ・メディシス。祖父さんはファゼンダを経営している。奴隷もたくさん使っているよ」
間違いなく文句を言いに来た人だと思った。今度は何をするつもりなんだろう。今までファゼンデイロが自分の身内をよこした事は無かったが、又違う手段で嫌がらせをしに来たのだ。
「お話なら中で伺いますわ」
「うん、そうだな」
ジェシカは軽く答えるとリゲルについて入ってきた。待合室を通り抜けると以前診察室に使っていた部屋だ。今そこはリゲルの書斎になっている。待合室は皆が集まれるよう、この間アリーシャが送ってくれたソファーセットが並んでいた。
「ふうん。なかなか立派な事務所だね。今何人居るんだい?」
「ここに居るのは私だけですわ」
リゲルは正直に答えると、ソファーに座った。
「あたしの家はイオの郊外にあるんだ。ほら、ルチアーノ神父の教会がある所さ。あんた何度か尋ねてきただろ?」
あの辺りの家は数件しかない。リゲルは何となくその家を思い出した。
「あんたが来た時、母さんはいきなり受け取ったビラを丸めてあんたに投げつけたんだ。『私はファゼンデイロの娘だ。こんな事を二度と言いに来るんじゃない』って。でもあんたは笑って又来ますと言って引き上げた。凄いなって思ったね」
リゲルはこの女性が一体何を言いたいのか分からず黙っていた。
「それからもあんたは何度かやって来た。そのたびに母さんはあんたを叩き出したり、水を掛けたり、酷い事を何度もやったんだ。でもルチアーノ神父の教会に行くと、母さんは涙を流して神父さんの話を聞いていた。本当はあんたの言う事が正しいと分かっていたんだよ。でも母さんはそれを認められなかった。母さんは恐れていたんだ。祖父さんの事を・・・」
リゲルははっきりと思い出した。ファゼンデイロの娘の家にしては、やけに小さくみすぼらしい家だった。屋根や壁に何度も修理した後が残っていた。近所の人の話では娘と二人暮らしで、母親はお針子をして生計を立てているらしかった。
「あたしの母さんはね、間違いを犯したんだ。ファゼンダにいる奴隷とね。私の顔、完全な白人じゃないだろう?」
リゲルはハッとしたようにジェシカの顔を見つめた。確かに少し分厚い唇や小麦色の肌はそれを現していた。
「それで母さんは祖父さんの大きな屋敷を追い出された。祖父さんはそれから一度も会いに来た事なんて無いよ。あたしは祖父さんの顔も父さんの顔も知らない。父さんは母さんが出て行った後、散々祖父さんにこき使われて体を壊して死んじまった。祖父さんに殺されたも同然さ」
ジェシカは言葉を止めた後、不思議そうな顔をしてリゲルの顔を見た。彼女が大粒の涙をボロボロ流していたからだ。
「あんた変な人間だね。こんな話でいちいち泣いていたら、涙がいくらあったって足りないよ?」
「だって、だって、パパの顔も見た事が無いなんて。酷いわ。あんまりよ」
「仕方ないさ。あたしは奴隷の娘だし、小さい頃からずっとそうやってイジメられてきた。今更運命は変えられない。それに・・・」
リゲルがいきなり自分の頭を抱きしめたので、ジェシカはびっくりした。奴隷の娘を誰も愛してはくれなかった。母親でさえ、ジェシカの顔を見ると辛そうな表情をするのだ。奴隷の子供を生んでしまった自分を責めているように・・・。
「運命は変えられなくても、考え方は変えられるわ。あなたは間違いで生まれてきた子じゃない。あなたのパパとママはちゃんと愛し合っていたんだもの。それを誇りに思っていいはずよ。あなたがそう思えば、きっとこれからの運命を変える事が出来る。必ず変える事が出来るわ!」
リゲルの涙が頬に振ってきた時、ジェシカはやっと自分の居場所を見つけたような気がした。
後から分かったのだが、ジェシカはまだ十六歳だった。リゲルもルマも自分より年上だと思っていたので、それを聞いた時はかなり驚いた。確かにジェシカはしっかり者であった。リゲルの元へ行くと告げた時、母親に頬を思い切り叩かれたのだが「もし奴隷制が無かったら父さんは死ななかったし、私達は幸せな家族で居られたんだよ」と言うと、彼女はそれ以上何も言わなかったそうだ。
そうしたジェシカの強さや明るさは、リゲルにも勇気を与えてくれた。パウロ二世に会う望みが薄れてしまったリゲルは、彼に手紙を書く事にしたのだ。奴隷がファゼンダで、どれ程厳しい労働を強いられているか、彼らの現状を詳しく綴った。その手紙が直接パウロ二世の手に届くかどうか確信は無かったが、それでもリゲルは毎月必ず手紙を書いた。そしてその手紙の最後に、いつか謁見を許してくれるよう嘆願した。
「他に何か出来る事は無いかしら」
リゲルがルマの入れてくれた紅茶を飲みながら尋ねた。
「これ以上仕事を増やしてどうするんだよ。帰ってからもルマの勉強を見て、自分の勉強もしているんだろ?」
コーヒーを飲みながら、ジェシカはリゲルの焼いてきたスコーンに手を伸ばした。
「そう、それよ。ファゼンダを回って、子供達に勉強を教えるっていうのはどう?」
「はあ?奴隷が勉強してどうするんだよ。読み書きなんて出来たって意味ないよ」
「それに危険だ。又ファゼンデイロの部下に酷い目に遭うよ」
ルマも大きく首を振った。
「大丈夫よ。何も殺しはしないわ。それに解放された時、仕事を探すのに役立つでしょ」
「はああ、全くあんたって女は・・・」
ルマとジェシカが困ったように顔を見合わせた時、誰かが玄関の扉を叩いているのが聞こえた。ルマがドアを開けてみると、そこには白人の大柄な男が立っていた。大きな鼻とその穴が、ルマの見ている位置からとても目立つ。いつも自分を鞭打っている奴隷監督に雰囲気が似ていて、ルマは一瞬ゾクッとした。
その男の影に隠れるように、二、三歳くらいの小さな黒人の女の子が泣きながら立っていた。
「リゲル・マッカーニオって女は居るか?」
その物言いに危険を感じたルマは、急いでドアを閉めようとした。
「ちょ、ちょっと待て。俺は怪しい者じゃねえ。バーグマンさんのファゼンダで働いているロイスって言うんだ。バーグマンさんに頼まれて、この子供を預けに来たんだ」
「預けにってどういう事ですか?」
リゲルがルマの後ろから出てきた。女の子は白人のリゲルを見ると、益々おびえて男の足にしがみついて泣きじゃくった。
「この子はうちで働いていた奴隷の娘なんだが、母親はこの子を生んだ時、産後の肥立ちが悪くって死んじまって、ついこの間父親も病気で死んだんだ。うちじゃこんな役に立たないガキの面倒見る余裕は無いんで、あんたの所に連れてけってさ。あんたは奴隷の世話をしているだろ?」
リゲルが余りの勝手な言い草にびっくりしていると、ジェシカが代わりに口を出した。
「ちょっと、ここは孤児院じゃないんだよ。面倒を見る人間がいなくなったからって、いきなり捨てるなんてあんまりじゃないか」
「と、とにかくさ。このまま連れて帰ったら俺も叱られるし、この子ものたれ死ぬしかないだろ?あと二、三年もすりゃ、小間使いとして使えるようになるさ。頼むよ」
ロイスは自分の足にしがみついている子供を引き剥がすと、一番前に立っていたルマに無理やり押し付けた。
「ちょっと待ちなさいよ!あんた!」
ジェシカが叫んだ時には、彼の姿はもう通りの向うに消えていた。
「全く、何て男だろ」
ジェシカは憤慨して腕を組んだ。リゲルはどうする事も出来ずにただ大声で泣いている少女の前にしゃがみこむと、優しくその両肩を握り締めた。
「怖かったね。でももう大丈夫よ。お名前は何て言うの?」
リゲルの質問に、少女は何度もしゃくりあげながら答えた。
「カ・・・カーラ」
「カーラ。素敵な名前ね。私はリゲルよ」
そうしてリゲルはその細く小さな肩をそっと抱きしめた。
「自由の家にようこそ、カーラ。恐れる事はもう何も無いわ。あなたは解放されたのだから・・・」




