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10.総督と呼ばれるファゼンデイロ

 カーラが来た次の日から、リゲルはファゼンダを訪問する事にした。勉強を教えるのならまず自分の居るアルジャーノの農場からなのだが、ここにはまだ働く事の出来ない小さな子供はいなかった。それで隣の農場まで行く事にしたのだ。


 隣と言っても、何万エーカーもの広さがある農場の隣なので、かなり離れている。リゲルは朝、ジェシカと自由の家で待ち合わせをして、それから向かう事にした。ルマはカーラのお守りで留守番だ。


 ファゼンダに入るのなら当然ファゼンデイロの許可が要るので、リゲルは最初にこの農場のファゼンデイロの屋敷を訪れた。その屋敷もアルジャーノの屋敷に劣らず立派な建物で、広い屋敷の前庭には噴水まであった。家の中も絨毯から調度品に至るまで、どれも高級品だ。


「これはよっぽど奴隷を酷使して稼いでいるんだよ」

 広い廊下を使用人に案内されて歩きながら、ジェシカが小さな声で耳打ちした。


「総督、お客様です」


 使用人が重い樫の木のドアを開けると、中は大きな事務机と壁一面に書籍の並んだ書斎になっていた。本とインクの香り、無駄な物は一切無いかのように整えられた部屋だった。ドアと同じ樫の木の机の奥に、総督と呼ばれた男が座っていた。細面の顔に意志の強そうな太い眉が印象的な、四十代前半のファゼンデイロだ。


「初めまして。私はリゲル・マッカーニオと申します」


 リゲルが丁寧に挨拶すると、彼は細い顔には似つかわしくない大きな目だけを上げて彼女を見た。リゲルの名前はファゼンデイロの間ではよくない噂として聞こえているはずだ。門前払いをされなかっただけでもましだと思った。


「私に何の用だね」

 低い声が部屋の中に響いた。

「奴隷の親達が働いている間、子供達のお世話をしたいのです。週三日、こちらに来る事を許可していただけませんか?」

「何の為にだ」

「私の所にも三歳になる奴隷の子供が居るのです。その子はとても痩せていて、私が見たところ栄養失調になっていました。ですから奴隷の子共達の健康を見てあげたり、一緒に遊んであげたりしたいのです。どうかお願いします」


 暫く彼は机に肘を突いたまま、リゲルの顔をじっと見ていた。気味の悪い男だとジェシカは思った。

「奴隷を解放する・・・」

 総督がリゲルを見据えたまま、呟くように言った。


「そんな愚かな事をイオの街で振れ回っている人間がいるらしいが、君はどう思うかね?」

彼の言い方は、リゲルがその本人だと知っているようだった。

「大きな夢を持つと、大抵人は叶いもしないのになんて愚かなんだと言うものです。それでも負けずに夢を持ち続けた人だけが、本当に叶える事が出来るのだと私は思います」

「本当に夢を持ち続けていれば、叶うと思っているのか?」

「今は無理でも、小さな力が沢山集まればそれは大きな力になります。沢山の人達の願いが集まれば、政府を動かす事だって出来るはずです」

「無理だな」


 リゲルはぐっと唇を噛み締めた。この人は私を怒らせようとしているのだろうか。それとも私という人間を試そうとしているのだろうか。いずれにせよ感情的になっては終わりだと思った。


「どうしてですか?」

「誰もそれを望んでいないからだ」

「望んでいないのは、彼等を支配する人達だけです。彼等自身は解放されたがっています。自由に生きたがっています」


「では解放された後、彼等はどうするのだ?ファゼンダを出ても何処にも働く所は無いぞ。もちろん住む家もない。所詮ファゼンダを離れられないのだ。ファゼンダに居れば、ファゼンデイロは彼等を奴隷だった時と同じように扱うぞ。それでは何の為の解放か。夢が叶ったとは言えまい?」


「それは政府がきちんと法律を制定するべきだと思います。彼等を人間としてちゃんと扱い、労働に応じて給金を渡すようにするとか、時間外の不当な労働はさせないようにするとか。もちろん子供たちも無条件で白人の通う学校に入れるべきです。白人が元奴隷である彼等を差別しないように、国中の人々の意識を高める必要があります」


「ほう、随分と立派な意見だが、それをやるのに一体何年かかるのだ?奴隷制を廃止するだけでも何年かかるか分からんぞ。加えてそれだけの法律を制定し、国中に定着させるのには更に何十年もかかるだろう。君はその間ずっとこの国に居るつもりなのか?二度と国に帰れなくてもいいのか?」


 リゲルはとっさには答えられなかった。それは今まで一度も考えた事の無い質問だった。確かに国を出る時は、暫くしたら戻るつもりだった。だから高校も休学という形にしておいた。戻るつもりでいたからこそ故郷を離れ、こんな遠い国までやってこられたのだ。


― 二度と国に戻れない ―


 その言葉が急に胸の奥に刺さってきたような気がした。心の奥に、ずっと大切にしまってきた故郷の風景が浮かんできた。


 緩やかに流れるレイン川。友達と学校に通った石畳の道。蜂蜜色の尖塔が並ぶ、古くて美しい町並み。涙が溢れて来そうな程、懐かしい故郷の風景だった。


「君は外国人だ。何かあればすぐにこの国を捨てるんだろう?君にとってこの国は骨を埋めるほどの価値の無い国だ。故郷が別にあるのだからな。それならば妙にこの国を乱すな。何も知らない外国人が、この国の政治や法律に口を出していいと思っているのか?」 


 リゲルは彼の言葉に胸をえぐられるようだった。確かに何も知らない外国人が、自分達の国を乱している事に腹を立てるのは最もだと思う。だが・・・。

 隣で不安そうに自分を見つめているジェシカに気がついて、リゲルは彼女を振り返った。


― いつかは私達を捨てていくのか? ―


 彼女の目は、はっきりとそう言っていた。


 そんな事は出来ない。どんなに故郷が懐かしくても、どんな壁に突き当たっても、見捨てる事なんて出来ない。ジェシカもルマもカーラも、それからファゼンダにいる数え切れない奴隷達も・・・・。


「先の事なんて私には分かりません。でも私は奴隷が解放されるまで、この国を離れるつもりはありません。彼等が本当に心の底から幸せそうに笑い合えるその日まで、私はこの国にいます。それまでに私の命が尽きたとしても、それは仕方のない事だと思っています」


 その言葉に総督は表情を緩めた。彼は立ち上がると、ゆっくりとリゲルのほうに近付いて来た。思わずジェシカが肩の力を入れて身構えた。


「色々質問してすまなかったな、セニョリータ・マッカーニオ。アリーシャが君の事をずいぶん褒めるものでね。どんな少女なのか、少し確かめさせてもらった」


 アリーシャの名前を聞いて、リゲルは驚いたように彼を見つめた。


「どうしてアリーシャと知り合いなのか?と思っているね。私はイオの港湾局長だ。アリーシャとはメリッサの港湾局にいた頃からの知り合いだ」

「でも、総督って・・・」

「総督と呼ばれていたのは、もう二〇年も前の話だ。最も総督府に就任した途端、パウロ一世がペレトからの独立を宣言したので、いきなりお役御免になってしまったがね。だが何故か、皆は私の事を総督と呼ぶのだ。それが似合っているのだろうな」


 ようやくリゲルはホッとしたように肩の力を抜いた。そういえば初めて会った日、アリーシャは港湾局の人と会うと言っていた。きっと彼の事だったのだろう。


「アリーシャにはとてもお世話になったんです。又お会い出来ればいいのですけど」

「彼女は変わった女だからな。だが、気が向けば又来るだろう。ところで君の用件。奴隷の子供の面倒を見るとか何とか。私は知っての通り忙しい身の上でね。あまりここには居ないのだ。奴隷監督には話しておくから好きなだけ来るといい。ただし、奴隷の脱走に手を貸したりしたら罪になるから気を付けたまえ」

「はい、ありがとうございます!」


 リゲル達が笑顔で出て行った後、総督は再びゆっくりと歩いて窓際に立った。ジェシカと楽しそうに帰って行くリゲルを見ながら、彼はふと呟いた。


「妙な娘だ。それに厄介だな・・・」


 その言葉のあと、彼は二、三ヶ月前に久しぶりに会ったアリーシャの話を思い出した。仕事の話以外は滅多にしない彼女が、珍しくその日はさっき会った少女の事を話し出した。彼女はその娘の事を、こちらに口を挟ませない勢いで散々話した後、こう言った。


『あなたもゆっくりしていられないわよ。彼女はきっとやり遂げるわ。そうなればあなたのファゼンダに居る奴隷達も、いつかは解放されるでしょうね』


 父親の遺したこのファゼンダにそんなに愛着は無いので、潰れてしまったとしても別に困りはしないが、彼女の人の見る目は確かだ。アリーシャがそう言うのなら、それだけの少女なのだろう。そして彼女は更に予言した。


『あの子はね、最初はきっと多くの白人に憎まれるでしょう。でもその何百倍もの黒人達に愛されるわ。その名前の通り、彼らの希望の星になるでしょう。暗い闇夜を照らし出す、輝く星の光になるわ』


「輝く星の光・・・?」


 総督は皮肉そうに笑った。さっきリゲルを試そうとして質問を投げかけた時、彼女の心の中では葛藤があったはずだ。それでも彼女は例え命が途中で尽きても、彼等の為に戦い続けると言った。他人の為に自分を犠牲に出来る人間は厄介だ。そんな人間は決して金では動かない。だからアリーシャは彼女に興味を持ったのであろう。


 しかしあの時の彼女の目は、アリーシャが言うように小さな輝きを放つ星の光ではなかった。


「あんな激しい目をした女が星の光になるはずがない。いずれファゼンダだけでなく、このカンターヴェラ中を巻き込む嵐になるかも知れないな・・・」

 





 アルジャーノの農場と同じように、ここでもリゲルはすぐには受け入れられなかった。だが来る度に自分達の体調を気にし、子供達の世話を熱心に行う姿にやがて奴隷達も心を許してくれるようになった。まだファゼンダで働く事の出来ない小さな子供は七人居て、その子供達と遊んだり、遊びを交えながら勉強を教えたりして過ごした。総督の本名はクリスチャン・アルトラスというのだが、奴隷達もみんな彼の事を総督と呼んでいた。


 総督は港湾局長とファゼンデイロという肩書きの他に、イオサンパルスの港に大きな造船所も所有しているらしい。それを聞いた時ジェシカが「これであの豪華な家のわけが分かったよ。あれぐらいの金持ちになると、奴隷が解放されても痛くもかゆくもないんだろうね」と納得したように頷いた。






 自由の家が出来て一年経った頃、新たに二人の人間がメンバーに加わった。一人はイオの町の露店で果物や野菜を売っている二十二歳の女性でメリッサ・ゴディアスといった。もう一人は彼女の二十歳の弟で、名をアントニオ。彼は近くの農場から果物や野菜を仕入れて運んでくるのが役目だ。


 彼等はリゲルがこの活動を始めた頃、最初に訪れた人達だ。もちろん初めてリゲルが行った時は興味が無いと言ってビラを返したが、それから何度も話す内にリゲルと親しくなり、店番を交代しながら協力する事になった。彼等は幼い頃両親を亡くし、姉弟二人でとても苦労して生きてきた。奴隷達の身の上が人事とは思えなかったのだ。


 もうすぐ十九歳を迎えるリゲルは、年の近いメリッサやアントニオととても仲良くなった。


 弟に店番を任せてメリッサが自由の家にやって来た。丁度リゲル達はお茶の準備を始めた頃で、ちゃっかり者のメリッサはそれに合わせて来たのだ。

 メリッサが席に着いて暫くすると、今度はルチアーノ神父がやって来た。彼は教会に集まった彼等の為の募金を、月に一回届けに来てくれるのだ。この自由の家が出来た時にも一番にお祝いにかけつけてくれた。ルチアーノが席に着くとカーラがすぐに彼の膝の上に乗ってきた。


「ルチーはオリオーネの入れるお茶が大好きなのよね」


 ルチーとはルチアーノの事だ。オリオーネはリゲルの名がオリオン座の星の名前だとルマに教えてもらったカーラが、オリオンは男の名前なので女性らしくオリオーネと呼んでいるのだ。カーラは愛称をつけるのが好きらしく、ジェシカの事は最近覚えた言葉でウナ チャラ(おしゃべり)と呼んでいる。


 お茶とお菓子を囲んで、たわいないおしゃべりが始まった。リゲルはどんなに忙しくても、こうした時間を取るようにしている。最近ファゼンダに行く事が多くなったので、街へビラを持って回るのはジェシカとメリッサだ。彼女達の活動の報告を聞き、辛い経験をすればそれを聞いてあげるのはとても大切なことだとリゲルは思っていた。だがジェシカもメリッサもとても強く明るい性格なので、あまりそういった愚痴をリゲルに聞かせる事は無かった。本当は色々あったが、なるべくリゲルには心労を与えないようにと、愚痴は二人の間で止めるようにしていた。


 代わりにジェシカは余り活動に関係ないような話を良くする。肉屋の奥さんに聞いた面白い話しや、街角の雑貨屋の娘と時計屋の息子は親同士の仲が悪いのに好き合っているとか、彼女はなかなかの情報通だ。そんな話を一通り聞いた後、リゲルもファゼンダの奴隷達について話し始めた。


「総督のファゼンダに居るライラは、もうすぐ赤ちゃんが生まれるのよ。だから仕事も休ませてもらっているの。今日ルチアーノ神父が持って来てくださった寄付で、ライラに精のつく物を買ってあげられるわ。ファゼンダは野菜や果物はたくさんあるけど、お肉が少ないから」


 リゲルがもう一度ルチアーノに礼を言おうとした時だった。玄関の扉を乱暴に叩く音がして、彼等はハッと顔を見合わせた。


「今日はお客様の多い日ね」


 リゲルはジェシカやメリッサの不安を打ち消すように微笑みながら立ち上がったが、ルマが玄関のドアを開ける方が早かった。ルマはなるべくリゲルを玄関には出さないようにしているのだ。だが彼女は取っ手を持ったまま真っ青になってその場に立ち尽くした。奴隷にとって一番恐怖を感じる相手、奴隷監督のガレーニが、そのぎょろりと光った瞳でルマを見下ろしていたのだ。



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