7.自由の家
リゲル達がイオサンパルスの街で活動を始めてから、一年が過ぎようとしていた。この頃になるとリゲルは少しずつだが確かな手ごたえを感じるようになっていた。ほんの少しずつだが、リゲルの言葉に耳を傾けてくれる人が現れたのだ。
最初の人物は街はずれに新しく建った教会の牧師だった。まだ若い宣教師は、オズワルドからこの街にやって来た男性で、名前をルチアーノ・マルコビッチといった。
初めてリゲル達が教会を訪れた時、彼は一人で新しい教会の掃除をしていたが、リゲルが差し出したビラを手にとってじっと見た。
「あなた方の事は知っています。一度お会いしたいと思っておりました」
そう言って彼は教会の裏手にある自宅へ案内した。粗末な椅子とテーブルが並んでいるだけの部屋でリゲルは微笑みながら彼に言った。
「私達の噂は決して良いものではないでしょう?でもこのままではいけないと思います。人間が人間を売ったり買ったり、そんな事をいつまでもしていたら、この国はいつかきっと駄目になってしまう。奴隷制は絶対に廃止されなければならない法律なんです」
「私も初めて奴隷の現状を見た時、驚きました。しかし一口に法律を変えると言っても、簡単な事ではありません。それはあなたも良く分かっておられると思います」
リゲルは黙って頷いた。
辛い顔をしたら、きっと自分の心に負けてしまう。何もかもが嫌になって逃げ出したくなってしまう。そう思ってどんな時も笑顔を絶やさないようにしていたリゲルであったが、泣き出したい時も一杯あったのだ。本当はこんな事をしても無駄かもしれない、と思う事が何度もあった。だが、ファゼンダで辛い労働を強いられている奴隷達を見て、自分を奮い立たせてきたのだ。
ルチアーノは泣き出しそうな顔でうつむいているリゲルの手を握り締めた。
「来週から教会が開かれます。最初は少ないですが、徐々に人が増えて行くでしょう。大した事は出来ませんが、私も奴隷制について考えてもらえるよう、説教の中で話をしていこうと思っています。そうして少しずつ輪を広げて行きましょう。今は闇の中を手探りでしか進めない状態でしょうが、必ずいつか神が光を与えて下さいます。それを信じて前に進んで行きましょう」
それは、立ち止まりそうになっていたリゲルの背中を押してくれる、力強い言葉だった。今までずっと泣くのを我慢していたリゲルの頬に、一筋の涙が滑り落ちていった。隣りからぎゅっと手を握り締めたルマも涙ぐんでいた。二人の仲間は三人になったのである。
それから少しずつ変化が現れた。今まで全く話を聴いてくれなかった人も、ルチアーノの教会で話を聞いた後は、リゲルの話にも耳を傾けてくれるようになったのだ。まだルチアーノの様に協力はしてくれないが、それでもビラを受け取ってくれるだけでも大きな進歩であった。
ある日、街に出かけようと馬を出しているところに、蹄の音を響かせてミランダがやってくるのが見えた。彼女の事だから当然通り過ぎて行くだろうと思ったが、ミランダはリゲル達の側までやって来ると手綱を引いて馬を止めた。
「久しぶりね、ミランダ。元気だった?」
リゲルの挨拶に答えもせず、ミランダは馬上から彼女を見下ろした。
「今からイオサンパルスにお出かけ?毎日大変ねぇ。あれから一年も経つのに、相変わらずその奴隷娘と二人きりなのね。もういい加減諦めたらどう?」
「一年も経つのに、じゃなくってまだ一年しか経っていないのよ、ミランダ。どんな事でも大成しようとするなら、それなりの時間が掛かるものだわ。じっくり構えないとね」
リゲルはにっこり笑って答えながら馬にまたがり、ルマの腕を引いて自分の後ろに乗せた。
「それよりミランダ。時々ファゼンダを見回っているんですってね。結構楽しいものでしょう?家にじっと居るより健康的だし」
「別に健康の為に出歩いているんじゃないわ。奴隷がサボっていないか、見回っているのよ」
そんな仕事は今まで奴隷監督に任せていた事だ。リゲルは少しずつミランダが変わってきているように思った。
「そう、それじゃあ私行かなきゃ。あっ、そうだわ」
リゲルはふと思い出したように、ミランダを振り返った。
「350種類以上あるコーヒーの樹の病気の中で、最も大きな被害を及ぼすのは何?」
ミランダはすかさず答えた。
「さび病菌、ヘミレアよ。最初は1、2ミリくらいの菌が葉の裏側に付着するだけだけど、菌の増殖が速く、二年位で樹が枯れてしまうわ」
「正解。よく頑張ったわね、ミランダ」
走り去って行くリゲルの背中を見て、ミランダはフンと鼻を鳴らした。
「あんたなんかに褒められたって、ちっとも嬉しくないわよ」
町へ出ると、いつも馬を預けに馬商を訪れる。適当な場所につないでおくと盗まれるからだ。馬商のカステロイドはリゲルの奴隷解放の話には全く興味が無く、ビラを見せても「俺は字が読めねえ」と言うだけであった。だが機会を見て話をしていると「確かに奴隷はかわいそうだなぁ」と言うようになった。
こうして見えない輪が、人々の間に広がって行けばいいとリゲルは思っていた。
馬商の建屋を出て暫く歩いた時だった。急に数人の男達がリゲルとルマの前に立ちふさがった。
「お前等だな。奴隷を解放しろなんて、くだらねえ事をほざいて回っているのは」
リゲルは胸の動悸を必死で押さえながら答えた。
「くだらなくなんて無いわ。どんな人間だって自由に人間らしく暮らす権利があるのよ。それをどうして奪う事が出来るの?誰もそれを侵す権利なんか・・・」
「うるさい!」
リゲルが話している途中で、男の一人が彼女に石を投げつけた。とっさにルマがリゲルの前に飛び出して彼女を庇った。それを見て他の男達も石を拾って投げ始めた。
「ルマ!駄目よ。離して!」
リゲルに石があたらないよう、ルマは彼女の頭を抱きしめた。リゲルはルマの腕から逃れようともがいていたが、ルマは決して彼女を放さなかった。頭や肩に石が当たるたび強い痛みを感じたが、リゲルさえ守れればそれでよかった。
「お止めなさい!」
突然響いてきた女性の声に、石の攻撃はぴたりとやんだ。それほどその声は力強く響いた。周りで呆然と見ている人々の間から、高価な絹のドレスに身を包んだ女性が現れた。彼女の後ろには屈強な体つきをした数人の男達が従っている。婦人は何もしないで見ているだけの人々を一瞥すると、石を投げていた男達の前に歩いてきた。
「あなた達、恥ずかしくないの?抵抗も出来ない少女に石を投げつけるなんて。打ち所が悪かったら死んでしまうかもしれないのよ」
彼等は婦人にも詰め寄ろうとしたが、彼女の周りに居る男達に一睨みされると近付けなかった。
「こ、この小娘が悪いんだ。ファゼンデイロ様の邪魔になるような事ばかりふれて回るから」
「あらそう。あなた達をよこしたのはそのファゼンデイロなのね。いいわ。私はイオサンパルスの警察にも知り合いが居るから、一緒にそのファゼンデイロの所に行きましょう。そうすればどちらが悪いか、はっきりするわね」
警察と聞いて男達は驚いたように顔を見合わせると、すぐに逃げ去って行った。婦人は小さく溜息を付くと、路上に寄り添うようにして座っているリゲルとルマの側に行って優しく声を掛けた。
「大丈夫?あなた達」
「私は大丈夫ですけど、ルマが・・・」
リゲルはルマの怪我を心配そうに見つめた。
「本当ね。それにしてもあなた、凄いわ。ご主人様を怪我させない様に、身を呈して庇うなんて。奴隷の鏡ね」
「ルマは私の奴隷ではありません。親友です」
リゲルの言葉に婦人は不思議そうな顔をしたが、ルマの手当ての為に自分が泊まっているホテルまで連れてきてくれた。
婦人はメリッサで貿易会社を経営しているアリーシャ・シトロエンという女性だった。この時代、女性の社長というのは珍しかったが、彼女は先代の父親譲りの商才の持ち主で、五十人以上もの荒くれものの船頭達を纏め上げている男勝りの女社長だ。今度イオサンパルスの港にも船を入港させて商品を輸出するので、その下見と打ち合わせに来たのだった。アリーシャが泊まっているホテルは街の中でも一番格式のあるホテルで、彼女の部屋も高価な家具が置かれた広々とした部屋だった。
彼女はリゲルが手際よくルマの治療をするのを感心して見ていたが、やがて気になっていた事を尋ね始めた。
「あの男達がどうしてあんな事をしたのか、あなたには分かっているのかしら?」
リゲルは少し考えてから答えた。
「はい。多分何処かのファゼンデイロが私の活動を疎ましく思っていて、止めさせる為に部下をよこしたのでしょう」
「あなたの活動って?」
リゲルは尋ねられるまま、自分が行なっている奴隷を解放する活動について答えた。この一年間、イオサンパルス中の民家や店舗を回って人々に奴隷制について考えてもらってきた事。最初は全く話を聞いてくれなかった人が、最近では少しずつ変わって来た事。マルコビッチ神父という協力者も現れた事。
アリーシャは何も質問を挟まずに、熱心にリゲルの話を聞いていた。
「奴隷を解放するなんて、考えた事も無かったわ。いいえ、きっとそんな事を考えているのは、このカンターヴェラであなたくらいでしょうね」
アリーシャは黙って座っている二人の少女を見つめた。三十五歳のアリーシャから見れば、まだ二十歳にも満たない頼りない存在である。きっとさっきのような辛い目にあった事が以前にもあっただろう。それでも決して諦めず、たった二人だけで意志を貫いてきたのだ。
アリーシャ自身には父の遺した会社があった。それを継いで運営して行く上で色々な苦労はあったが、何も無い所から全てを作り上げて行く苦労はした事が無かった。それをしたのは亡くなった父親だ。父の苦労を一番近くで見ていたアリーシャは、一から何かを作り上げるという事がどれ程大変かを良く知っていた。
「ねえ、リゲル。あなたはそうして沢山の人達の心を動かす事によって世論を動かし、法律を変えるつもりなんでしょう?でも、今のままではいずれ壁にぶつかってしまうわよ」
リゲルはドキッとしてアリーシャの顔を見上げた。
「この一年間、確かにあなたの意見に耳を傾けてくれる人は増えた。でも、どう?あなたと一緒になって、共に活動をしていこうという人は現れた?」
胸の動機が高まるのをリゲルは押さえきれないように唇をかんだ。確かに話を聞いてくれる人は以前より増えた。これからも少しずつ増えて行くだろうという手ごたえも感じていた。だが、その次は?ただ話を聞いてもらうだけでは世界は何も変わらないのだ。共にこの活動をやり遂げる仲間が居なければ・・・。
「人はね、実体の無いものにはついて行かないものなの。このままではあなたの活動は、ただの自己満足に終わってしまうわ。法律を変えるには大きな力が必要よ。大きな力を得るには、沢山の人々の協力が要る。人を集めるにはどうすればいいか分かる?」
「いいえ、分かりません」
リゲルは泣きそうな声で答えた。『ただの自己満足』という言葉がとても当てはまっているようで辛かった。
「組織を作るのよ。目に見える形を作るの。名前も必要ね。それがあれば、人はそこに身を預けられるわ」
「でも、組織なんて。私、どうすればいいか・・・」
「そうね。まず一番に必要な物は・・・」
アリーシャは立ち上がると、机の上にあった呼び鈴を二回鳴らした。すると隣の部屋から一人の男が現れた。さっき町でアリーシャを護衛していた屈強な男達とは違い、貴族の家に仕える執事といった感じの男だ。年はアリーシャと同じくらいだろうか。真っ黒なスーツは、男の引き締まった顔をより細く見せていた。アリーシャが彼の耳に小声で指示を与えると、男は頷き、すぐに部屋を出て行った。
「彼はね、うちでは一番使える男なのよ。ちょっと無愛想なんだけど。彼が帰ってくるまでコーヒーでも飲んで待っていましょう」
リゲルとルマは訳が分からないような顔をして互いを見つめた。
一時間もしないうちに戻って来た使える男、マシューズとアリーシャは、リゲルとルマを連れて、街の中心街からそう遠くない場所にやって来た。彼が手を差し出した先には、少しさびれた白い建物があった。アリーシャについて中に入ってみると元病院だったらしく、入り口には小さな受付があり、椅子はもう無かったが待合室があった。その向こう側は診察室で、患者を寝かせて診察する為のベッドとその奥にも何台かベッドが並んでいた。
「ふうむ。椅子がないわね。それから事務机も必要だわ。すぐに用意させるわね」
リゲルはアリーシャの言葉の意味が分からず、首をかしげながら尋ねた。
「あの、ミス・シトロエン。ここは一体・・・」
「ミス付けはやめて。この年でミスなんて恥ずかしいじゃない。アリーシャで良いわ」
「アリーシャ、ここはその・・・」
「事務所よ。あなた達が活動する拠点になるもの。元医院だけあって受付けもあるし、中も広々としているわ。使い勝手は良さそうでしょ?」
「でも、私にはここの家賃を払う余裕は・・・」
「いやだわ、リースなんて。もうとっくに買い取ったわよ。もちろん名義はあなたのものにしてあるから」
リゲルはびっくりして首を振った。幾らなんでも今日会ったばかりの人に、そんな世話になるわけにはいかなかった。
「ああ、気にしなくて良いのよ。会社っていうのはね、儲かったお金の一部を時々社会に還元しないといけないの。寄付とかそういった形でね。私は明日までしかここには居ないし、色々忙しいからあなた達に協力は出来ないけど、後援者にはなってあげられるわ。だからここは好きに使っていいのよ」
「あの、でも・・・」
「気にしないで、リゲル。私はあなた達が気に入ったの。あなたは根性があるし、ルマはいざとなったら自分の身を投げ出して友達を守る勇気がある。だからあなた達の夢はきっと叶うわ。良い後援者と、良い仲間さえ見つければね」
アリーシャがそこまで言った時、入り口に立っていたマシューズが懐中時計を取り出して女社長に目配せした。
「あら、大変、もうそんな時間なのね。今日はイオ(イオサンパルスの略)の港湾局の人と会う事になっているの。じゃあ、リゲル、ルマ、頑張ってね」
言葉の最後には、もうアリーシャの姿は出口の向うに消えていた。リゲルとルマは途方にくれたように呆然と立っていた。
「私達、どうしたらいいのかな・・・」
珍しくルマが先に口を開いた。
「そうね。組織と言っても、まだ私達二人だけだし。何をしていいか分からない時には、とにかく出来る事をやりましょう。掃除なんてどう?」
「掃除は得意だ」
二人はにっこり笑い合うと、掃除道具を買いに街の雑貨屋へ向かった。
床を掃いたり壁を磨いたりして建物が息を吹き返してくると、これからやるべき事が見えてくるような気がした。
「ここに机を置いたらビラを作りやすくなるわ。できれば印刷機が有ればいいんだけど。それから茶器を持ってこなきゃ。これは絶対はずせないわ」
ルマはリゲルと知り合ってから、グランブリラス人にとってお茶の時間は何よりも大事なのだと知って少し驚いたものだ。何処にいてもそれを忘れない事を、彼らは誇りに思っている。まだお湯を沸かせるかどうかも分からない内から、茶器の事を気にしているリゲルを見て、ルマはくすっと笑った。
「まるで秘密基地みたいだ」
ルマは小さな頃、奴隷の子供達と一緒に作った秘密基地を思い出した。ファゼンダの外れに穴を掘り、その入り口に板を置いただけの簡単なものだったが、そこにいる間は自分達が捕らわれの奴隷だという事を忘れられたものだった。中に落ち葉で作った食器を持ち込んで、ままごと遊びもやった。もちろんすぐに奴隷監督に見つかって、穴は埋められてしまったが・・・。
「秘密じゃないわ。ここは誰でも自由に使える、みんなの家にするの。ここにいる間は、黒人も白人も無い、誰もが自由に平等に生きられる、自由の家にするのよ」
リゲルの言葉で、この事務所の名前は『自由の家』と決まった。




