5.信念と決意
八年ぶりの再会を楽しんだ後、彼等は馬車に乗って帰路に着いた。帰りの馬車の中でもリゲルはずっとジェイリスの話をしていた。彼女は気さくで優しそうな叔父がとても好きになった。故郷から離れたこんな遠い国で血が繋がっていないとはいえ、身内と呼べる人間が住んでいるのは、とても心強いものだった。
その日の朝、ルマはリゲルとロベルトを見送った後、ローネと共に家の掃除をしていた。二階のリゲルの部屋を掃除している時、下から奴隷監督のガレーニが大声で自分を呼んでいるのが聞こえて、びっくりして手を止めた。ガレーニは奴隷監督の中でも特に厳しい男だ。以前も霜害でコーヒーの樹が枯れてしまった時、奴隷の一人を枯れた樹の本数分、鞭で打ったのだ。もしかして何かやってしまったのだろうか。ルマは不安に震える手に急いで手袋をはめると、一階に降りて行った。
ガレーニの用事は、ミランダが町へ買い物に行くお供をしろというものだった。色々噂は聞いているが、ルマはファゼンデイロの娘に一度も会った事はなかった。ミランダは農場には殆ど来たことが無かったからだ。
「あ、あの、でも私にはリゲルお嬢様のお世話が。それにミランダお嬢様には別の召使いが・・・」
「みんな出払っているんだ。リゲルさんは今イオサンパルスに行っているんだろ?いいから来い」
ルマは腕をつかまれて引っ立てられるように屋敷にやって来た。ミランダは屋敷の前に止められた馬車に乗って待っていた。ルマが馬車の窓から中を見ると、彼女はカンターヴェラの空と同じ、真っ青なドレスを着ていた。ルマがどんなに望んでも着るどころか、触れることも出来ないような高価なドレスだった。
「何をしているの。早く乗りなさい」
ミランダにせかされて奴隷監督は急いでドアを開けた。
「あいすいません、お嬢さん。ほらルマ、早く乗れ。失礼があっちゃならねえぞ」
ルマが乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出した。
ミランダの用事は買い物のお供であった。彼女は次から次へと色々な店に行って気に入ったものを買い占めた。二時間もすると、ルマの両手はミランダの買ったドレスや帽子の入れ物で一杯になってしまった。重い荷物に押しつぶされそうになりながら付いてくるルマを、ミランダはチラッと振り返った。
「ちょっと、落とさないでよ。割れ物もあるんだから」
「は、はい。ミランダお嬢様」
やっと馬車に乗り込んでホッとしたのも束の間、屋敷に戻ると、ルマは再び重い荷物を持ってミランダの後を歩いて行った。長い廊下を歩きながら、少し疲れたルマは小さく溜息を付いた。その時前を歩いていたミランダが急に立ち止まった。自分が買ってきた花瓶に合う花台を見つけたのだ。荷物で前が見えなかったルマはミランダが立ち止まったのに気付かず、荷物ごと彼女にぶつかってしまった。
「キャアッ」
ミランダの叫び声がした後、ガシャンと何かが割れる音がして、ルマは自分の両手を見つめた。荷物は全部床に落ちて、ミランダがその下敷きになっている。
「お、お嬢様!」
急いで荷物をどけたが、その中の一つからガシャガシャという音がした。呆然としているルマから箱を取り上げると、ミランダは急いで蓋を開けた。さっき買った花の模様の花瓶がバラバラになって出てきた。
「このバカ!何て事をしてくれたのよ!高かったのよ、この花瓶!」
「すみません。すみません」
どんなに責められても、ルマには謝る以外何も出来なかった。ミランダは床に手をついて謝っているルマに、力任せに花瓶の箱を投げつけた。木箱の角が額に当たってルマは軽いめまいを起こしたが、それでも謝り続けた。
「謝って済む事じゃないでしょ。この花瓶はね、新しい工場が竣工した記念にパパに渡そうと思っていたのよ。それをよくも!」
ミランダはうつむいているルマの頬を叩いてやろうと思ったが、ふと手を止めた。
「はーん。さてはあんた、あのリゲルって子に何か言われてたんでしょう」
リゲルのことを急に持ち出されて、ルマは驚いて顔を上げた。
「あの子のことですもの。もし私に近付くことがあれば、怪我でもさせて来いってあんたに命令していたんだわ」
ルマはびっくりして首を振った。どうして急にリゲルの話が出てきたのだろう。花瓶を割ったのは自分なのに。
「違う。リゲルお嬢様はそんな事言ってない」
「どうだか。あの子、初めて会った時、この私に食って掛かったのよ。メイクフィールド大学の教授の娘か何だか知らないけど、ここでは所詮、居候じゃないの。それなのにこの私に意見をするなんて、底意地の悪い女に決まっているわ。私のことを妬んで、お前に私を怪我せるように命じたんでしょう。正直に言いなさい」
「リゲルはそんな事言ってない。そんな事しない」
「うるさい!」
必死に首を振っているルマの頬を、ミランダは思い切り叩いた。
「このファゼンダで、私に逆らえる人間が居ると思っているの?あの根性曲がりのひねくれ女。その内絶対追い出してやる!」
その言葉にルマは激しい怒りを感じた。
「リゲルは優しい人だ。こんなあたしの手を握って、あなたは立派な人間だと言ってくれた。あの人は心の中に天使を住まわせているんだ。底意地の悪いのはあんただ。顔は白いけど、心の中は真っ黒だ」
「お黙り!奴隷のくせに私に逆らうの?」
「リゲルは綺麗だ。リゲルは綺麗だ!」
「黙れ!黙れ!」
ミランダはルマの襟首を掴むと、その両方の頬を平手で何度も叩き続けた。
「やめなさい!」
その声が響いてきたのは、ルマの意識が遠のく寸前だった。リゲルは急いで倒れて行くルマの体を支えると、立ち上がったミランダを睨み付けた。
「何て酷い事を。あなたには人を思いやる優しい気持ちは無いの?何の抵抗も出来ない相手を、こんなになるまで叩き続けるなんて。ルマ、ルマ、大丈夫?」
リゲルに揺さぶられて、ルマはゆっくりと目を開いた。リゲルはホッとしたように、彼女の切れた唇の血にハンカチを押し当てた。
「何度も言わせないで。奴隷はこうやって教育するものよ。この子は私が買った大事な花瓶を割ったんだから」
「だからってこんなになるまで叩くことはないでしょう?もう二度とこんな事はしないで。ルマは私の親友なの」
「親友?親友ですって?」
ミランダはびっくりしたように声を上げると、大声で笑い出した。
「奴隷が親友ですって?あっはははっ。そうね。あなたのようなエセお嬢様にはお似合いの親友ねぇ」
リゲルはルマにハンカチを手渡すと立ち上がった。
「ええ、そうよ。ところでミランダ。あなたは家庭教師をつけて勉強しているようだけど、学校にも行っていないあなたにお友達は居るのかしら?この家の前にそれらしき馬車が止まっているのを見た事はないけど」
ミランダの顔から勝ち誇ったような笑みが消えた。確かに友達など居なかった。それにファゼンダ同士で交流も無いので、他のファゼンデイロに自分と同じ年頃の娘が居るかどうかも知らなかった。
「ねえ、ミランダ。家庭教師が教えてくれる勉強も大切よ。でもあなたはもっと知らなければならないことがあるわ。友情とか他人を思いやる気持ち。それはとても大切なものなのよ」
「私に・・・命令しないで」
「命令じゃないわ。私は・・・」
「命令しているじゃない。教授の娘だからって私より偉いとでも思っているの?ここでは私が女王よ。私はファゼンデイロの娘なんだから!」
リゲルはミランダの思い上がった考えにムッとした。彼女はずっとこうやって生きていくのだろうか。自分より偉い者は無い。正しいのは私だ。そうやって他人を踏みつけて、その中に自分の優越感や幸せを見つけるのだろうか。
「そう、ファゼンデイロの娘。だったら当然この事は知っているわよね。コーヒーの樹には三大原種と呼ばれているものがあるの。『アラビカ種』『ロブスタ種』『リベリカ種』このファゼンダで栽培されているのはどの原種かしら?」
ミランダは黙り込んだ。答えられなかったのだ。彼女にとって大切なのは、美しく着飾って偉そうにしている自分だけで、自分達の生活を支えているファゼンダのことなど、どうでも良かった。ミランダがうつむいたまま黙っているので、リゲルが代わりに答えた。
「答えはアラビカ種。アラビカ種には70種類以上の品種があって、主な品種はティピカ、ブルボン、カトゥラ、ムンドノーボなど。ここで栽培されているのはブルボン島から移植されたブルボンという品種よ。それじゃあ、これは知っているわよね。カンターヴェラには南極からの寒波とテデス山脈からの寒気が訪れる為、急激に温度が下がって、高地にあるコーヒーの樹は常に霜害に悩まされているわ。今年の冬、霜害で枯れた樹は何本だった?コーヒーの樹の病気は350種類以上あるけど、その全ての名前と対処法を言えて?良質のコーヒーを栽培する条件が4つあるわ。標高500メートル以上、年平均気温が20度前後、年間降水量が1,500mm。後一つは何?」
矢継ぎ早に出てくる質問に、ミランダはどれ一つとして答えられなかった。悔しさが胸の中に広がって、体中からあふれ出てきそうだった。
「だから何なの?どうしてそんな事、私が知っていなきゃならないのよ」
「知っていなければならないわ。あなたは将来ここを継ぐんだから。私はこの全ての知識を、あなたが蔑んでいる奴隷達から学んだの。そうして彼等は毎日、一生懸命あなたのファゼンダを守っているのよ。それを彼等の肌の色が黒いとか、自分が買った奴隷だからとかで、彼等の小さなミスを攻め立てるのは間違っているわ」
「間違っていない。それが奴隷だからよ」
「ミランダ!」
激しく怒りをぶつけ合う娘達を見つけて、ロベルトはリゲルを止めに行こうとしたが、隣に居たアルジャーノの腕に止められた。ロベルトは驚いたようにアルジャーノを見つめたが、彼はただ黙ってリゲルとミランダのやり取りを見ていた。
「あなたという人はどうして分からないの?奴隷だって人間なのよ。悲しいことがあれば泣くし、鞭で打たれれば痛みを感じるの。私達と同じ人間なのよ」
「分からないのはあんただわ。そうやって奴隷を付け上がらせるから、各地で反乱が起きるのよ」
「反乱が起きるのは、この国の奴隷制度が間違っているからだわ!」
リゲルの胸は次第に高まっていく思いで熱くなっていった。そうだ。悪いのは奴隷制度そのものなのだ。それがあるから思い上がった白人達が非人間的な行為を繰り返す。人間が人間を狩り、人間を売り、買うのだ。それがあるから・・・。ではどうすればいいのだろう。奴隷が人間として生きる為には・・・?
「奴隷制度は間違っている。こんな法律は廃止するべきなのよ」
「冗談じゃないわ。あんた言っている意味が分かっているの?ファゼンダは奴隷制度で成り立っているのよ。奴隷が居なければこれだけの広さの農場を維持するのは不可能だわ」
「コロノ(農民:当時は最低生活者と云われた)を雇えばいいわ」
「この国にコロノになろうという人間が何人居ると思うの。昔は他国から移民を乗せて船が来ていたけど、それも近頃ではめっきり減ったわ。コロノがいかに大変か皆知っているからよ」
「だからと言って、他の国から人間をさらって来て働かせるのは間違っているわ」
「偉そうなこと言わないで。新大陸に奴隷を売っている奴隷商人の中には、グランブリラス人も沢山居るのよ」
「ええ、分かっているわ。だから私は・・・」
だから私はどうしたいというのだろう。リゲルは熱さではちきれそうになる胸を押さえながら考えた。彼らがもう二度とさらわれたり、不当な労働を強いられたりしない国。人が人として当たり前に生きていける世界。心の底から笑い合える未来・・・。
「奴隷制度を廃止する。私が彼等を解放するわ」
驚いたように回りの人々が沈黙する中、ミランダの笑い声が響いた。
「奴隷制を廃止するですって?皇帝でもあるまいし、あんたなんかに何が出来るって言うの?」
「出来るわ。人は信念を持って行動すれば、どんな不可能も可能にすることが出来るのよ」
その信念がリゲルの体中からあふれ出ているのがミランダにも分かった。そしてミランダも彼女の熱い心に触発されて、自分の胸に湧き上がってくる思いを感じた。それは今までなんとも思っていなかったこのファゼンダに対する思いであった。リゲルがミランダとの諍いの中で己の目標を見出していったように、ミランダも自分が未来のファゼンデイロであることを自覚したのである。
「いいわ。やれるものならやってごらんなさい。でも私は私のファゼンダを絶対に守ってみせる。奴隷制を廃止にはさせないわよ」
対立する二人の少女の間で、ルマはただ不安げにリゲルを見つめていた。




