2.新天地へ
夕方、ロベルトが帰宅すると家の中が暗いままだったので、何となく足を踏み入れにくかった。きっとリゲルは昼間のまま怒っているのだろう。彼は一度頭をかくと、リゲルが食事の用意をしているだろうキッチンへ足を踏み入れたが、誰も居なかった。そこを通り抜けて隣のリビングを覗くと、リゲルがじっとソファーに座っているのが見えた。やはり怒っているようだ。ロベルトは又親子喧嘩になるのを覚悟で声を掛けた。
「ただいま・・・」
リゲルはハッとしたように顔を上げると立ち上がった。
「お帰りなさい。すぐに夕飯の支度をするわね」
予想外の反応に戸惑っているロベルトの前を通ってリゲルはキッチンへ行くと、食事の用意を始めた。ふと彼女が座っていたソファーの前のテーブルを見ると、そこには亡くなった妻の写真があった。
「リゲル・・・」
「パパ、今日私ね、ママのお墓に行って来たの」
リゲルはスープの鍋をかき回しながら父の言葉を遮った。
「ママ、死ぬ間際までパパのことをとても気にしていたのよ。『私が居なくなったら一人でやっていけるのかしら』とか『ロベルトはおっちょこちょいだから心配だわ』って」
「レイラはそんな事を言っていたのかい?」
ロベルトはちょっとむくれた顔をしながら椅子に腰掛けた。
「パパ・・・。もしママが生きていたら、今回のカンターヴェラ行きの話、決める前にちゃんと相談した?」
ロベルトはハッとして、背中を向けたままの娘を見た。リゲルが何を怒っているのか、やっと分かった。彼女は全てを決める前に相談して欲しかったのだ。だがロベルトは娘に言うとさっきのように怒って反対するだろうと思って、とにかく話を進めてしまおうと考えた。だからあんなに早急に話をしたのだ。リゲルの気持ちを分かっているようで、ちっとも分かっていなかった。
彼は立ち上がると、リゲルの側まで歩いていった。さっきまで言い合いになっても自分の意思を押し通そうと思っていたが、今は娘に対して申し訳ないと思う気持ちが勝っていた。
「すまなかった。君の気持ちも考えないで勝手に決めてしまって・・・」
「私に相談したら、反対されると思った?」
「うん、まあ・・・。でも反対されてもちゃんと相談すべきだったと思っている。勝手に君がここに残るとか、そんなことを言うべきではなかった」
リゲルはやっと父の方を振り向くと、にっこり笑った。
「ママが入院していた頃、私はまだ七歳だったけど良く覚えているの。私が遊びに行くとママはいつもパパのことを心配していたわ。だからね、言ってあげたの。『大丈夫よ、ママ。私がずっとパパの側に居てあげるから』って。そしたらママはとても安心したように笑ってくれたのよ」
あの頃のレイラはとても弱っていて、その笑顔も青白い顔の弱々しい笑顔でしかなかっただろう。だがきっとリゲルの思い出の中では、輝くような笑顔を彼女に向けているのだ。そう思うと何となく救われたような気持ちになるロベルトだった。
「だからしょうがないわね。ずっと一緒に居てあげるってママと約束したから、私も行ってあげるわ」「え?」
びっくりしたようにロベルトは声を上げた。
「でもカンターヴェラはここよりずっと暑いし、不便なことは一杯あるだろうし・・・」
「そんな事は分かっているわ。だから余計にじゃない。もしパパが病気になっても、看病してくれる人も診てくれる病院もなかったら困るでしょ?そしてある日突然パパは死にましたって、はがきだけが私の元に来るのよ。そんな事になったらママに申し訳が立たないわ。だから私も行く事にしたの。で?いつ出発なの?」
リゲルにとっては大変な決断だったのだろうが、それをこともなげに言われて、ロベルトは戸惑ったように答えた。
「に、二週間後、なんだが・・・」
「まあ、随分急な話ね。じゃあ乗馬部の国際大会も出られないって部長に言わなきゃ。それから学校に休学届けを出して・・・。とにかく大忙しね。さっさと夕食も片付けてしまいましょう」
リゲルは呆然と立ちすくんでいる父にはお構い無しに、料理が盛り付けられた食器をテーブルの上に並べ始めた。
それからはとにかく慌しかった。リゲルが学校に休学届けを出したことをクラスや乗馬部の仲間が知ると、皆残念がったし、どうしてこの住みやすいメイクフィールドを離れてカンターヴェラのような未開の地(皆良く知らないので未開の地だと思っている)に行くのか不思議がった。特に乗馬部の部長や仲間達は、彼女が大会に出なくなると優勝の可能性が下がると嘆いた。
リゲルはそんな彼等に何度も謝ったり別れを惜しんだりしながら、家に戻ると引越しの準備に追われた。
メイクフィールドは春の盛りになり、美しい花々が街のあちこちで咲き誇り始める頃、リゲルとロベルトはカンターヴェラに向けて旅立つ朝を迎えた。たくさんのスーツケースや鞄を玄関に並べると、リゲルは花飾りとレースのボンネットを被り、まだ部屋から出てこない父を呼んだ。
「パパ、何しているの?早くしないと列車の時間に間に合わないわ!」
「今行くよ」
ロベルトは慌てて部屋から出てきた。リゲルは自分の荷物を持つと、玄関の扉を開けた。
「後はパパが持ってね。それから帽子と上着を忘れているわよ」
オロオロとしながら服を見た後、あわてて部屋に戻って行くロベルトを見て、リゲルは溜息を付いた。
「はあ、やっぱり私が居ないと駄目みたいよ、ママ・・・」
メイクフィールドから王都カデラまで蒸気機関車で約二時間。それからサンクリフト港まで更に一時間掛かった。小さな船ならレイン川から出ているが、大型の船はサンクリフトまで行かないと乗れないのだ。
G歴七三九年に世界で二番目に大きな海である大カルタナ海横断の定期航路が開設される前から船は大型化を重ね、やがて汽船の時代がやって来た。いわゆる蒸気汽船である。港には白い帆を掲げた帆船も泊まっていたが、外洋に出るリゲル達が乗り込むのはもっと大型の汽船であった。
リゲルにとって、汽船に乗るのは初めての経験である。彼等の周りにも大きな旅行鞄を持った人々が沢山居て、港まで見送りに来た人達と別れを惜しんでいた。
船の客室に荷物を置くと、リゲルはデッキへ上がった。そこでは既にたくさんの人々が港に向かって並んでいて、見送りの人達に手を振ったり、大きな声で別れの言葉を掛けたりしていた。やがて出発の合図の汽笛がうなりを上げると、見送る人々と見送られる人々は益々大きく手を振り上げて、別れの言葉を叫んだ。
リゲルは港で手を振る人達から顔を上げて、遠くに霞む故郷の風景に目をやった。本当にここを離れる日が来るなんて思ってもみなかった。今でも夢を見ているようだ。これから何が待っているか分からない不安もあったが、それ以上に、全く未知の世界に触れるという期待もあった。
世界最大の河川、ベルトマスの支流が広がる国、カンターヴェラ。南大陸の一つの国なのに、グランブリラスの34倍もの面積を持つ国。赤道の通る国・・・。
やがて船はゆっくりと対岸から離れ、9千6百キロもはるか彼方にある、その国へと向かっていった。ふと肩を叩かれ振り返ると、ロベルトも甲板に出て来ていた。彼はにっこり微笑むと、娘の肩を抱いて彼女と同じように故郷の空を見上げた。
「リゲル、ジェイリスを覚えているかい?」
「ジェイリス叔父様?ええ、お顔までは覚えていないけど。叔父様と言ってもパパとは血が繋がってないのよね」
「うん。ジェイリスの両親は彼が十三歳の時に相次いで病気で亡くなったんだ。それでご両親の親友だった私の父、つまり君のお祖父さんのトーマスに引き取られて、私の弟になったんだよ。随分年の離れた弟だったがね。だが祖父さんが亡くなると、彼はいつまでもマッカーニオ家に世話になっているわけにもいかないと言って、カンターヴェラへ渡ったんだ」
記憶力には自信のあるリゲルだったが、殆ど会ったことも無く、九歳の時別れた叔父の顔まではよく覚えていなかった。叔父はマッカーニオ家の本宅のある王都カデラで、祖父と二人で暮らしていた。ロベルトもなかなか忙しくカデラへ行く事はあまり無かったので、叔父と会う機会は殆ど無かったのだ。カンターヴェラに行く前も最後になるかもしれないと挨拶に来たが、リゲルは学校に行っていて叔父とは会っていなかった。
「ジェイリスは向こうに行ってからカンターヴェラの軍隊に入隊したらしい。以前、二、三度手紙が来た時、そんな事が書いてあった」
「まあ、叔父様って変わった人だったのね。カンターヴェラに移住するなら大抵農民になるものじゃない?」」
「農民になっても向こうでは最下層だからね。とにかく帝都のイオサンパルス辺りに居る事は間違いないだろうから、向こうで落ち着いたら一度会いに行ってみよう」
初めての船旅はとても楽しみにしていたものだったが、三日もすると飽きてしまった。ここではデッキに出て何も無い海を眺めるか、キャビンで本を読むくらいしか楽しみが無いからだ。貴族階級の人々は船のデッキからクレー射撃をしたりして遊んでいたが、生産階級の人々はキャビンでごろごろ寝たり、船の中で知り合った同士でおしゃべりをするしかなかった。
研究熱心な父は山のように持ってきた書物を読み書きするのに忙しかったので、リゲルもデッキに出て日向ぼっこをしながら本を読んで過ごした。
そんな風にして一ヶ月間、途中二回の小さな嵐を経験したが、彼等は無事にカンターヴェラのアリージャ港に到着した。グランブリラスを出る時きっとカンターヴェラの港は余り綺麗ではなく、すぐ側までジャングルが張り出しているような場所だろうと想像していたが、意外にもそこはかなり大きく、沢山の船も出入りしている活気ある港だった。
思ったより暑くなかったので、リゲルは船から降りた後、不思議そうに尋ねた。
「今日は涼しい方なのかしら・・・」
すると父はニヤッと笑ってリゲルを見た。
「リゲルはカンターヴェラが全部ジャングルで覆われているとでも思っていたんだろう?だけどジャングルがあるのは北部の赤道直下の場所だけだ。特にG歴七二一年にカンターヴェラ帝国として独立してからは、イオサンパルスはこの国の首都としてとても栄えているんだよ。そうそう、カンターヴェラはグランブリラスと気候が真逆だから、ここはこれから冬を迎えるんだ。冬と言ってもこの辺りは21度くらいはあるし、一月二月の夏でも26度くらいしか上がらないから過ごしやすく、観光地としても有名なんだよ」
気候がグランブリラスと真逆と聞いて、リゲルはびっくりしてしまった。船で一ヶ月も旅をするとそんな事になってしまうのか。
はるばるグランブリラスからやって来た彼等を、父の友人のポール・コリンズ博士が迎えに来ていた。昔世話になった先輩とロベルトが言っていたので、父よりもずっと年上の男性を想像していたが、コリンズ博士は父と殆ど変わらない年齢に見えた。彼等はお互いの肩を叩き合いながら、久しぶりの再会を喜んだ。
「変わらないなあ、ロベルト。あれから二十年も経っているのに」
「ああ、君こそ。元気そうで良かった」
ポールはリゲルとも挨拶を交わすと、人々で沸き返る港の中を歩き出した。
ポールの乗ってきた馬車は、グランブリラスでよく見かける天井付きの二頭立ての馬車ではなく、農作業に使うような四角い車輪付きの箱に、人が並んで座れるように板を取り付けただけの簡単な仕様であった。ポールとロベルトはその荷台に持ってきた沢山のスーツケースを積み込んだ。普通の馬車のようにドアが無いので、ポールがリゲルの体を持ち上げて乗せてくれた。一番前に座ったポールが馬の背を手綱で叩くと、ガクンと大きく揺れてから馬車は発車した。あまり乗り心地は良くはなく、周りに手すりも何も無いので、大きく揺れたら転げ落ちそうだ。
馬車はたくさんの市が立ち並ぶアリージャの中心街を通り抜け、やがて広々とした野原が広がる道に差し掛かった。遠くに見える山々は濃い緑の木々に覆われ、グランブリラスで見るよりずっと青い空と美しいコントラストを描き出していた。
ロベルトとポールの昔話を聞きながら、午後のまどろみの中、リゲルが少し眠気を覚えた時だった。不意にポールが後ろを振り向き話しかけた。
「リゲル、見てごらん。これがファゼンダだ」
「ファゼンダ?」
初めて聞く名前に戸惑いながら周りを見渡した。足元から広がる平野から遠くに見える起伏のある丘の至る所に、2メートルくらいの高さの樹木が植えられている。
「これらは全てコーヒーの木だ。このコーヒーを生産する大規模な農場のことを、ここではファゼンダと呼んでいるんだよ。広さは3万エーカーから5万エーカー。農場の持ち主はファゼンデイロと呼ばれ、農場主というより領主だな。まるで城のように巨大な屋敷に住み、沢山の使用人を雇っている。ほら、そろそろ見えてきたよ」
顔を上げると、遠くに見える小高い丘の上に、確かに城のように立派な屋敷が建っていた。
「そこにリゲルと同じ年頃の女の子は居ないかな。グランブリラスでは沢山友達が居たから」
ロベルトはリゲルが一人で寂しい思いをしないか心配しているようだ。
「ああ、そういえば僕は会った事はないけど、ファゼンデイロに娘が一人居たはずだよ。確か、十七歳くらいだったかな」
十七歳ならリゲルと同じ年である。きっといい友人になれるはずだ。リゲルはその同じ年の少女のことを思いながら胸を弾ませた。




