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エピローグ~きっとこれから世界は変わる~

 

「……ふぅ」


 窓から差し込む暖かな陽光の中、アルスは一つ大きく息を吐いてペンを置いた。

 古びた木製のデスクの上には、彼がずっと昔からしたためている分厚い研究日誌が広げられている。ヒヒイロの村での調査で分かった事を、忘れないうちに追記し終えたところだった。


「ちゃんと図鑑として製本するってなったら、順番が大事だよなぁ……どの魔物を最初に持ってこよう……」


 アルスは日誌をパラパラとめくり、そのうちの一つのページで手を止める。

 そこには、彼自身の手で描かれたスケッチと、びっしりと書き込まれた文字があった。


『淫魔・リリス』


 ヒヒイロでの一件のおかげで、この魔物の項目は驚くべき程に充実していた。

 彼女が使う特殊な魔法の構造、村での生態、更には感情の揺れ動きや彼女独自のコミュニケーション方法まで。これほど詳細に網羅している図鑑など、世界広しと言えどアルスのこの一冊しか存在しないだろう。


「んでも、あの子は言うほど淫魔っぽくはなかったかも」


 アルスの脳裏に、村人たちを守ろうと必死に涙を流していた、優しく不器用な彼女の姿が浮かぶ。

 人間と共に暮らそうと足掻いていた彼女から、伝承にあるような恐ろしい淫魔の一面は、ついぞ見ることはなかった。


 ヒヒイロの一件から、二週間が過ぎた。

 王都へ戻ったアルスは、学会からの援助も仕事もないままギリギリで家賃を払い、ひとまずはこの古びた家で平和な日常を取り戻している。


 相変わらず図書館には立ち入り禁止のままだし、都合よく仕事が舞い込んで来たりもしない。だが、ここ最近はずっと部屋にこもって日誌の執筆に没頭していたため、それを気にする余裕すらなかったというのが本当の所である。


「本当に──夢のような時間だったな」


 アルスは椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。

 胸の奥で、レッドの心臓がトクトクと穏やかなリズムを刻んでいる。


「……ん?」


 ふと、玄関の方から控えめなインターホンが鳴った。

 ガーディールならインターホンなど鳴らさずに合鍵を使って押し入ってくるだろうし、こんな昼下がりに訪ねてくる客人など見当もつかない。

 新聞の勧誘か何かだったら面倒だなと思いながらも、出ないわけにもいかないので、アルスはいそいそと立ち上がり玄関へ赴く。


「はーい、どなたさま……」


 がちゃり、とドアのノブを回して開けた、その瞬間。


「ごきげんよう博士様! うるわしゅう!」


「うわー!?!? リリス!?」


 扉の向こうに立っていたのは、ヒヒイロの村で別れたはずの彼女だった。

 外行きの服を綺麗に着こなし、頬を紅潮させている。


「はい! リリスです博士様! 貴方のリリスがやって参りましたわ!」


「な、な、ななな、なんで!? ヒヒイロは!?」


「博士様にお会いしたい一心で、出て参りました♡ これからは王都で暮らしますの!」


 あまりの急展開に、アルスは目を丸くして後ずさる。


「そんなあっさり!!」


「あっさりではございませんわ。お父様にはさんざ止められてしまいましたし、ミーティアに観光の事を色々教えたり、ここ最近準備が大変でしたのよ」


 リリスは誇らしげに胸を張りながら、トランクケースを足元に置いた。


「そ、そうなんだ……」


「ですがその苦労を押して貴方様に会いに来たのには──もちろん理由がありますの」


「理由……」


 リリスは一歩前へ踏み出し、アルスの手をごく自然に両手で包み込んだ。

 上目遣いで、熱を帯びた瞳がアルスを見つめる。


「博士様。どうかわたくしを──貴方様の助手として、おそばに置いてくださいまし!」


「助手ーーーー!?」


 アルスの素頓狂な声が、狭い家の廊下に響き渡った。


「って、助手?」


「人と魔物……その両方共に、わたくしはまだまだ無知も同然。とすれば、敬愛する博士様と共に過ごす事こそ、最良の学びとなる事でしょう」


「そ、そうかなぁ……」


「どうかお願いです、博士様! わたくしを貴方の助手にしてくださいまし! 貴方様が望むのであればいつでも! なんでも! わたくしのこの身を捧げますわ!」


 ぐいぐいと顔を近づけてくるリリスに、アルスはたじたじになりながら部屋の壁まで追いやられる。


「いや! そんな色々やる事ないし! えーと、うーんと…困ったなぁ」


 アルスは頭を掻き回し、少し考えてから、ぽんと手を打った。


「じゃあ、こうしよう。君は今日から、ウチの研究員だ」


「けんきゅういん……」


 リリスがキョトンと首を傾げる。


「一応僕も独立してるわけだから、ここは僕の研究室って事になってるんだよね。つまりまぁ……同じ研究内容を一緒にやっていく、仲間かな」


 助手の『仕える』関係ではなく、肩を並べる『仲間』。

 その言葉の響きに、リリスの瞳がぱぁっと輝いた。


「っ……! はい! 仰せのままに!」


「納得してくれてよかった……びっくりしたなぁほんとに……」


 アルスはほっと胸を撫で下ろす。


「あぅ、ええと……文を出すのが礼節かとも思ったのですが……申し訳ございません、早くお会いしたい気持ちが抑えきれず……」


 我に返ったのか、リリスは少し申し訳なさそうに身を縮めた。


「まぁ、でも嬉しいよ。来てくれてありがとうリリス」


 アルスが飾らない笑顔で告げると、リリスの顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まった。


「~~~~!! っはぁ……!」


「だ、大丈夫……?」


「申し訳ございません、少し……昂ってしまいましたわ……」


 両手で頬を押さえ、荒い息を吐くリリス。淫魔としての本能が漏れ出ているのか、その仕草は妙に色っぽい。

 アルスは慌てて咳払いをして話題を変えた。


「でもこれからこっちで生活するんじゃ、いつまでもリリスって名前はマズイか……」


「ぁ……でしたら、またソフィアとお呼びになられますか?」


 その申し出に、「それもどうだろう」とアルスは顎に手を当てて考える。

 元来ソフィアはちゃんとドーラ王国に戸籍が存在する個人だ。事故によって死亡届は既に出されてしまっているだろうし、そのソフィアと同じ顔・同じ名前の人がいると色々と都合が悪いタイミングがきっと来る。


「いや、村でならよかったけど、王都だと何かあった時に村長の娘を騙ってるのは面倒を起こしそうだから……」


「ううん、そうなのですね……申し訳ございません、不勉強でしたわ」


 それならば全く違う姿に変身させれば良いのだろうけれども、長く暮らして来た今のソフィアとしての姿はある意味で彼女のアイデンティティとなっているはずだ。

 出来るならそのままの姿で暮らせるようにしてあげたいと思うのが人情というやつで……


「うーん、じゃあ……」


 アルスは腕を組み、うーんと唸ってから、ぽつりとこぼした。


「リズ。でどうかな」


「えっ?」


「君の名前。ちょっと安直?」


「リズ……」


 リリスはその響きを、宝物でも見つけたかのように何度か口の中で転がす。


「あ、嫌だったら良いんだ。まぁ僕の考えすぎだと思うし、別にソフィアでも……」


「いえ!! 博士様!! わたくしの事はどうか、リズと呼んでくださいまし!!」


 身を乗り出して懇願する彼女に、アルスは目を丸くした。


「わ、あ、そう。気に入った?」


「はい……とても……!」


 胸の前で両手を組み、うっとりとした表情を浮かべる彼女。


「う、うん。よかった」


「うふふふ、ふふふふふ……」


「すっごく嬉しそう……そんなに良かったかなぁ」


 アルスは苦笑しながら頬を掻く。


「では博士様、リズは早速何をやりましょう? 研究のお手伝いから掃除・料理……せっ……せ、洗濯も! 全てリズにお任せください!」


「うぇ!? えーっと、そうだなぁ折角来てくれたんだし……どうしよ」


「おーっすアルス、干からびてねぇか~」


 アルスが困り果てていると、背後から聞き慣れたのんきな声が降ってきた。

 振り返ると、手土産らしき紙袋をぶら下げたガーディールが立っている。


「あっガーディ。久しぶり」


「おう久し……ってうぉ!? ソフィアじゃねぇか!? なんでここいんだ!?」


 玄関先の光景に、ガーディールが目をひん剥いて驚く。


「リズは今日からリズでございますわ。ガーディール様」


「は?」


 リズがツンと澄まして答える横から、さらに甲高い声が割り込んできた。


「ちょっと……玄関開けっ放しじゃない、不用心ねー──」


 その声には聞き覚えがあった。

 ヒヒイロから帰ってくる途中もずっと心ここにあらずで、今日まで会う機会がなかった人物。


「アルス! ちょっと邪魔するわよー!」


「エスカさん!?」


 ガーディールの背後から顔を出したのは、私服姿のエスカだった。相変わらず眩しいオレンジ色のポニーテールが、今日はぴこぴこと元気そうだ。


「ああ、そこで会ったから連れてきた。なんかお前宛の手紙預かってきてるんだとよー」


「なによここ、ごちゃごちゃし過ぎじゃない……? ちゃんと掃除してるのって、んなっ!? あんたリリス!!」


 部屋の中を値踏みするように見ていたエスカが、リズの姿を捉えてビクッと肩を震わせた。瞬時に腰の剣へ手を伸ばしかける。


「リズですわ。エスカ様、お久しゅう」


「あんた……! 家に魔物連れ込んでなに企んでんのよ……!!」


 エスカが鋭い声でアルスに詰め寄る。


「違う、誤解だよ! リリス……じゃなくて、リズがこっちに引っ越して来たんだ!」


「はぁー!? あんたヒヒイロは!?」


「ちゃんと準備して来ましたもの、大丈夫ですわ」


「つーか、魔物嫌いは健在だな。このリリス……あー、リズ? はもう大丈夫だろ」


 リリスと呼んだ瞬間、またリズがつーんとしだしたのでガーディールがため息交じりに言いなおすも、エスカは警戒を解かない。


「関係なーい! 傭兵が魔物を敵視するのはあったり前でしょ! そもそも!!」


 エスカはアルスの鼻先にビシッと指を突きつけた。


「あたしはまだあんたをマトモな人間だと認めてない!!」


「あ、あはは……」


 アルスが引きつった笑いを浮かべると、リズが不満げに頬を膨らませる。


「博士様に対してなんて失礼な」


「でも! あんたもそいつも……! なんか、違うって事だけはわかったわ!」


 エスカの言葉に、アルスはわずかに目を見開いた。

 彼女の瞳には、以前のような盲目的な憎悪ではなく、理解しようとする葛藤の光があった。


「だから、あたしがあんたらを監視する! もし変な事したら、叩き斬ってやるんだから!」


「……うん。それで良いよ」


 アルスは怒るどころか、優しく微笑み返した。


「っ……」


 毒気を抜かれたように、エスカが言葉に詰まる。


「沢山見て、知って。エスカさんにも考えて欲しいんだ。僕のしてる事がどういう事なのか」


「……望むところよ」


 エスカは顔を赤くしてプイッとそっぽを向いた。


「流石は博士様……♡ リズも沢山の事を学ばせて頂きますわ。博士様の事も全て……」


 リズがどさくさに紛れてアルスの腕にすり寄り、あまりにも目に毒な柔らかい物を押し当てる。

 この大きさについては流石リリス……いや、変身しているのだからソフィアさんが大きかったのだろうかと、アルスは心を無にしながら舌を巻いた。


「くっつこうとすな! あんたがそういう動きするとなんか捕食感出るのよ! 早速斬られたい!?」


「邪魔をしないでくださいまし! これはそう、リリス流のスキンシップなのですから」


「ウソ言うな!! ええい良いから離れなさいっての……!!」


「ったく……なーんか、急に騒がしくなったなぁアルス」


 エスカが無理やりリズを引き剥がしている傍、ガーディールが愉快そうに笑えば


「ははは……そうだね!」


 アルスも思わず吹き出した。狭い家の部屋が、一気に賑やかな熱を帯びる。


「そういやぁ、アルス宛ての手紙があるとか言ってなかったか? エスカ」


「あっ……そうそう。はい、これミティから」


 エスカが懐から可愛らしい封筒を取り出し、アルスに手渡した。


「ミーティアさんから?」


「なんて書いてあんだ?」


 アルスは封を切り、中身に目を通す。

 その内容はヒヒイロの近況についてと、あの日のお礼、それから──


「……お礼の手紙だよ。近いうち王都にも行ってみたいってさ。みんなで案内してあげよっか」


「なによーあんたら着いてくるつもり? ミティと水入らずだと思ったのに」


 エスカが不満げに口を尖らせる。

 しかしその顔はまんざらでもなさそうだ。


「大人数で回る程、王都に色々あったか?」


「ある……と思うよ? 広いし。どこも行った事ないけど」


「あんたら、ほんとに家か本かなのね……」


 ガーディールとアルスのやり取りに、エスカが呆れたようにため息をついた。


「はい! はいっ! リズも王都をゆっくり歩きたいですわ!」


 リズが目を輝かせてぴょんぴょんと跳ねる。


「じゃあ、今度ミーティアさんが来るときにみんなで行こうか」


「はいっ!」


「来る日は早めに教えてくれって返信しといてくれよ。仕事空けないといけねぇ」


「わかった。じゃあ早速書いておくよ──」


 そうして、笑い声と喧騒が交じり合う中、王都の穏やかな昼下がりは過ぎていく。


 今はまだ、アルスの周りの小さな人間関係が、少しだけ変わっただけ。

 世間の魔物に対する認識も、学会からの冷たい目も、何も変わってはいない。


 でもきっとこれから、世界は変わる。


「きゅーいっ」


 賑やかで騒がしい、陽だまりのようなこの空間で。

 ケージの中のフレアラットが、居心地良さそうに鳴いた。

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