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48.ドレイクヒルの青年

 

 焼け焦げた木々から細い煙が立ち昇る、静まり返った森の奥。

 化け物が崩れ去った後の冷たい空気の中、アルスは自身の胸へと静かに手を当てた。

 服越しに伝わってくる、力強く、温かい鼓動。

 それは紛れもなく、かつて自身を救って散った、小さな友人の命の証だった。


「──僕の中には今でも、レッドの心臓がある。止まった心臓の代わりに、僕を生かしてくれている」


 夜風が、アルスの前髪を微かに揺らす。

 その表情には、強大な力を振るった後の高揚感など微塵もない。ただ、遠い過去の痛みを慈しむような、静かな光が宿っていた。


「だから、僕はレッドの継承者だ。力の使い方はまだ全然分からないけど──きっと、いつか思い出すんだと思う」


「なによそれ」


 ぽつりと漏れたエスカの声は、ひどく震えていた。

 無理もない。魔物とは人間の敵であり、相容れない危険な存在。傭兵としてそう信じて剣を振るい続けてきた彼女にとって、アルスの告白はこれまでの常識を根本から崩壊させるものだった。


「そんな……そんな、話を。信じろっていうの? い、意味わかんないにも程があるわ……!」


 エスカは後ずさり、アルスから距離を取るように身を引く。

 混乱が飽和し、頭を抱えるようにして顔を歪めた。


「あ、あんたが魔物って方が、まだ、納得できる……!」


「ドレイクヒルの事故は、お前だって知ってんだろ」


 半狂乱になりかけるエスカを落ち着かせるように、ガーディールが低く、落ち着いた声を落とした。

 彼は腕を組み、夜闇に沈む森の奥を見つめながら淡々と語る。


「正体不明の巨大な魔物が現れて、当時魔物生態科学館の調査チームが滞在していたドレイクヒルが壊滅──まぁ正直、俺も信じるのに時間くったけどよー──」


 ガーディールはそこで視線をアルスへ向け、肩をすくめた。


「こいつがそこの生き残りっつーのは間違いねぇんだ。今の力も含めて……本当なんだろうよ」


「は……あはは……あ、あたし……頭どうかしちゃいそう……」


 エスカは力なく膝から崩れ落ち、乾いた笑いを漏らす。

 信じていた世界がひっくり返ったような喪失感と、目の前で起きた奇跡のような光景。その二つが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。


 そんなエスカの様子を見つめながら、ソフィアは恭しく両手を胸の前で組み、アルスへと深く頭を下げた。


「博士様、貴方は──調停の継承者様だったのですね」


「調停?」


 聞き慣れない単語に、アルスが首を傾げる。


「貴方方人間が言うドラゴンの事を、わたくし達はそう呼んでおりますわ」


 ソフィアの碧色の瞳が、夜の闇の中で神秘的な光を帯びていた。

 彼女の口から語られるのは、リリスたちの間に古くから口伝されてきた、ある種の神話。


「大いなる力を以て、調停する者。世界の安寧を守り、長き時を継承によって生き続ける者──」


 ソフィアは森の奥へ、そしてアルスの胸へと視線を巡らせる。


「わたくし達のような魔物も含め、この世の命が繁栄していけるのは、継承者様の加護があるからこそ。そう、伝わっておりますの」


「そっか……レッドって、やっぱり凄い奴だったんだね」


 アルスは胸の鼓動を確かめるように、もう一度その手へ力を込めた。

『最強の生き物』だと、いつも偉そうに胸を張っていた小さな赤い竜。その誇りは、決して虚勢などではなかったのだ。


「ドレイクヒルという場所は恐らく、古よりずっと、継承者様の住まう場所だったのかもしれませんわね」


「……」


 その言葉に、アルスは静かに目を伏せた。

 あの日、すべてが失われた故郷。しかし、その残骸の中で芽生えた命の繋がりが、今こうして別の村を救う力となった。

 運命の数奇さに、アルスは言葉を失う。


「……まぁ話は後にしようぜ。こんだけ騒いだんだ、村の連中が様子見に来ちまう。……こんなグロい死体なんざ見たくないもんだ」


 ガーディールが顎をしゃくり、崩壊した化け物の残骸を示す。

 言う通り、戦いの凄まじい音を聞きつけたのか、遠くの木々の向こうから複数の松明の光と、人の気配が近づいてきているのが分かった。


 アルスたちはひとまずこの場を後にし、ヒヒイロの方角へと向かった。

 そこで待ち受けていた村人たちに、全てが終わったこと。そして、村の男の人たちは安全な場所にいて、もう間もなく帰ってくることを告げる。


 その報告を聞いた瞬間、凍りついていた村の空気が一気に爆発した。


 歓喜の渦。

 ある者は泣き崩れながらアルスの手を取って何度も頭を下げ、ある者はありったけの賛辞の言葉を天へ向かって叫んだ。

 絶望の底にいたヒヒイロの村に、ようやく朝が訪れようとしていた。


 だが、その喜びに沸く集団の中で、エスカだけがぽつんと取り残されたように表情を曇らせていた。


「エスカ……大丈夫?」


 心配そうに見上げるミーティアの声に、エスカははっと我に返る。


「なんか、自分の見てきたものって、本当に狭かったんだなって思わされたわ」


 自嘲気味にこぼすエスカの視線の先には、村人たちに囲まれて困ったように笑いながらも、優しく応えているアルスの姿があった。

 魔物を殺すことだけが正義だと思っていた。しかし、魔物の心臓を持つ彼が、そして魔物であるソフィアが、この村を救ったという事実。


「……わ、わたしは……難しい事はわかんなかった。けど」


 ミーティアは、エスカの袖をきゅっと掴み、まっすぐに彼女の目を見た。


「アルスさんは、みんなを守ってくれたよ。エスカ。きっと、アルスさんは良い人だよ」


「……そうね。でも……あたし、信じられるかな……あの人の事」


 どこか遠い世界の物を見るかのような遠い目で、エスカは目の前の光景をただ静観する。

 アルスの語るあんな夢物語を、自分は本気で信じることができるのだろうか。


 ──君の目には……どう映ってる?


 アルスの言葉が、心の中で反響する。


「わかんない。わかんないわよ」


「エスカ……」


 ミーティアが悲しげに眉を寄せた、その時だった。


「皆様!」


 歓喜の喧騒を切り裂くように、凛とした声が夜空に響いた。

 声の主は、ソフィアだった。

 彼女は村人たちの前に進み出ると、深い覚悟を宿した表情で皆を見渡した。


「……此度の件、責は全てわたくしにありますの! わたくしは……みんなに、言わなければならない事が……!!」


 自らの正体を、そして村の男たちを魔法で捕らえていた事実を明かそうとする彼女の悲壮な決意。

 目を強く閉じて、開いて。意を決して口を開いた──その時。


「ソフィア」


 不意に自分を呼ぶ声が聞こえて、言葉が止まった。

 何事かと村人たちがざわつく中、その低く温かい声によってざわつきは更に大きなどよめきへと変わった。


「っ!?」


 ソフィアの顔が驚愕に染まる。

 群衆が道を譲るように割れ、そこに立っていたのは……


「お父様……なぜ!?」


 ソフィアが魔法によって古い倉庫に隠していたはずの村長と──無事な姿の村の男たちだったからだ。


「少し前からお前の魔法が解けて、出られるようになっていたんだ」


 村長の言葉に、ソフィアはハッとする。

 あの時、エスカの刃を前に死を覚悟した瞬間。あるいは、アルスに全てを託した瞬間に、彼女の無意識の呪縛が解けていたのかもしれない。


 本当にみんなが帰って来たと、村人たちは涙を流して互いに抱き合い、喜びを分かち合う。

 その温かな光景の傍らで、村長はソフィアの元へ歩み寄り、静かに語り掛けた。


「……遠くからでも、誰かが巨大な何かと戦っているのが見えた。──あれが、お前が言っていた魔物だったんだね」


「それは……」


「……すまなかった。お前を信じられなかったワシが、お前を追い詰めてしまったんだ」


 村長は深く頭を下げた。

 娘の姿をした魔物の必死の訴えを、信じ切れなかった自責の念がその背中を丸めさせていた。


「違います……それは違いますわお父様……! だって、わたくしは……!」


 村長はゆっくりと首を横に振り、ソフィアの震える肩へ皺の寄った厚い手を置く。


「……今更全てを語る必要もあるまい。なぁ……お前はこれからも、ソフィアとして暮らしていけばいいじゃないか。悪い魔物はもういなくなったんだろう……?」


 その温かい言葉は、ソフィアが何よりも欲しかったものだったはずだ。

 けれど。


「……っ」


 ソフィアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「それは。それは、できませんわ」


「ソフィア……」


「話を聞いてもらえなければ……逃げてもらえなければ……魔法で無理やり動かしてしまえば良いと……わたくしは、思ってしまったのですよ……?」


 ソフィアは両手で顔を覆い、堰を切ったように泣き崩れた。


「どんな理由であれ、いざとなった時に大切なみんなに魔法を使ってしまうようなわたくしが……! 一体どうしてここにいられましょう……!?」


 それは魔物としての本能なのか、ソフィア自身にも分からない。

 しかし目的のためには手段を選ばないという冷酷な一面が、自分の中に確かに存在していたという事実。

 それが、彼女自身を何よりも恐れさせていた。


「わたくしは……わたくしはソフィアではなく、リリス。魔物なのです……やっぱりみんなとは、違う……っ!」


「よせ、ソフィア……」


 村長が手を伸ばすが、ソフィアは一歩後ずさる。


「──今まで本当にごめんなさい、おとう……」


『お父様』と言いかけて、彼女はその言葉を無理やり飲み込んだ。

 もはや、その温かい名で呼ぶ資格などないのだと自分に言い聞かせるように。

 何かを振り払うように激しく首を横に振り、そして。


「……わたくしは、また何処かへと行きます。人のいない──どこか遠くへ」


「そんな……」


 ミーティアが悲痛な声を上げ、口を開きかけた時。


「リリス」


 アルスが、群衆の中から静かに進み出た。


「っ……」


「君は、リリスだ」


「……博士様」


 夜風がアルスのボロボロの服を揺らす。

 彼の瞳は、かつてレッドと見上げた夕焼けの空のように、真っ直ぐで澄み切っていた。


「見た目が似ていても、魔物は人間と違う所がいっぱいある。それを証明する論文だって沢山あるし、色んな人が、違う所を研究してきた」


 アルスは一歩ずつ、彼女へと近づいていく。


「君は、違うって事を分かっていた上で考えたんだね。一緒にいるにはどうすればいいかを。違うを一緒にするには、何をするべきかを」


 魔物を研究する学問の全てが、魔物は如何に便利で危険な動物かを証明する物ばかり。王都暮らしだったソフィアであれば、その事を知らないはずがないだろう。

 違うところを挙げればきりがないし、指折り数えれば日が暮れる事請け合いだ。


 兎角どうしようもない人間と魔物という絶対的な壁。

 それを乗り越えようと一人で足掻き、罪悪感に苛まれてきた彼女の孤独は──本当に、察するに余りある。


「でも君は、それに必死になって簡単な事を見落としてる」


「簡単な、事……」


 涙に濡れた顔を上げる彼女へ、アルスは優しく微笑みかけた。


「違くても、僕らは一緒にいられるんだよ。難しい事考えようと思ったら、いくらでもできるけどさ」


 アルスはふっと相好を崩し、まるで昔からの遊び仲間に語りかけるような、無邪気な笑みを浮かべた。

 当たり前の話だけど、なんて頬をかきながら言い含めて


「友達になりたいって気持ちが一緒なら、それで良いんだよ」


 まるで子供に言い聞かせるかのような単純すぎる答えを出したアルスに、彼女は歯を食いしばって否定するように首を横に振った。


「そんな……そんなのはっ。詭弁ですわ博士様……! その先で何が起こるかも分からないのに──!」


「そう。それでもし、どこかで悪い事が起こりそうになってしまったら……」


 アルスは足を止め、彼女の正面に立った。


「その時は、考えるんだ。大変で、辛くて苦しいかもしれないけど、考える事をやめなければ……最高の答えは必ず出る」


『考えることを、やめるな』

 レッドが死の間際に残した言葉は、あの日のアルスの耳には届いているはずがなかった。

 しかしアルスは亡き友の面影を想い、自分でその答えにたどり着いていたのだ。


「だから」


 アルスは、ソフィアへ──いや、リリスへと、その手を真っ直ぐに差し伸べた。


「一緒に考えよう、リリス。諦めずに。何度でも」


 アルスはさらに一歩力強く踏み出し、手を伸ばす。

 応えて欲しい。この手を取って欲しいと、確かな熱を込めて。


「っ……!!」


 差し出された手を見つめ、リリスの肩が激しく震える。


「わたくしは……愚かな生き物です。辛ければ、楽な方へと逃げてしまうかもしれない」


「連れ戻すよ。みんな一緒なら大丈夫」


 一人では怖くて辛い事は沢山ある。そういう時は、みんなで励まし合おう。


「咄嗟の時、みんなを傷つけてしまうかもしれない……!」


「僕が守る。君に誰かを傷つけさせない」


 それを一番悲しむ君が、傷つかないように。


「わたくしがここに居続ける事を、認めてくれる人なんて──!」


「優しい君が、認められる世界を作る」


「──!」


 嘲る言葉も、醜悪な暴力も起こさせない。

 考えて、証明して、勉強して、立ち向かえば良い。


「それが、僕の夢だ」


 人と魔物が、手を取り合って笑える世界。

 学会から追放され、誰からも嘲笑されようとも、決して捨てなかった彼のただ一つの夢。


 沈黙が流れる。

 誰もがそこから動こうとも、口を開こうともしなかった。

 一人で孤独と戦い続けてきた魔物に手を差し伸べる者が、ずっと答えを待っていたからだ。


 ──やがて、リリスが口を開く。

 迷うように、たどたどしく。その口は開いては閉じて


「……共に考える事ができれば」


 そう声が出るころには、リリスの瞳からとめどなく涙が溢れ続けていた。

 けれどそれはもうきっと、絶望の涙ではない。


「わたくしも、お力になれるでしょうか」


「なれるよ。三人寄らばなんとやら。それが増えれば──最強だ」


「……ふふっ、最強だなんて、なんだか博士様らしくないお言葉ですわ」


 涙を拭いながら、リリスは吹き出すように笑った。

 その笑顔は、偽りの村長の娘として見せていたものよりも、ずっと美しく、自然なもので。


「博士様」


 こぼれ落ちていた涙を指先でそっと拭い、リリスは顔を上げた。

 その瞳に宿る光は、自分の正体に怯えて逃げようとしていた先ほどのものとは違う。過去の過ちも、これからの困難もすべて受け入れ、はっきりと前を見据える強い光。


「どうか、わたくしにもご助力させてくださいまし。貴方の夢を叶えるために──」


「もちろん……! もちろん!」


 アルスの顔が、少年のようにぱっと明るくなる。

 それを見て、リリスもまた華のような微笑みを返した。


「その……でしたら、もう一度」


「ん?」


「もう一度、最初から始めてもよろしいでしょうか」


「……うん」


 東の空が、白み始めていた。

 長く苦しかった夜が明け、新しい朝の光が村を優しく照らし出していく。

 その光の中で、彼女は少しだけ背筋を伸ばし、誇り高く微笑んだ。


「……わたくしは、リリス。この世界に生きる、ただの魔物ですわ」


 そして、差し出されたアルスの手を、両手でそっと握り返す。

 人間の温もりと、魔物の温もりが、そこで確かに交わった。


「どうか、貴方のお名前を……もう一度、教えてくださいまし」


 朝焼けの光を背に受けて、アルスは力強く頷いた。


「僕は──」


 一度、目を閉じて深く息を吸い込む。

 冷たい夜の空気はもうない。

 肺を満たすのは、新しい朝の匂いだった。


 ──胸の奥で脈打つ心臓が、後押しするようにトクトクと鳴っている。


 それを感じてから、ゆっくりと目を開けて──


「僕は、アルス。魔物研究家だ」


 青年は、世界で最も優しく、力強い叛逆(はんぎゃく)の産声を上げた。


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